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第14話

「午前11時半に終わるけど、午後にもテストがあって、17時には終わる予定よ。夕食に来て、一緒に食べましょう」


紗英は瑛士をちらりと見やり、簡潔に答えた。


「分かった」


瑛士はそう答え、車内は再び静かになった。


しばらくして、瑛士は小さく息をつき、低い声で切り出した。

「紗英」


「どうしたの?」


「誠司とは距離を取れ」


「距離を取れってどうするの?彼は私のでしょボディーガードよ」


それに、結婚後、誠司が西園寺家の仕事を離れる予定であることをふと思い出しながら、彼女は肩をすくめた。


「少なくとも、二人きりで同じ部屋にいるのは避けよう」


「昨夜のことを言ってるのね?あれはただの例外よ」


紗英は淡々と答えた後、軽く微笑んだ。


「それに、あなたが昨夜来てくれたら、彼と一晩過ごすこともなかった」


瑛士の顔色は微妙に沈んだが、数秒後、何気なく答えるように言った。


「昨夜、君の部屋の灯りが消えているのを見て、もう寝ていると思ったんだ」


車はT大につき、紗英の試験会場である建物の前で止まった。

瑛士は彼女のために車のドアを開き、軽く彼女の頭を撫でて言った。


「テスト頑張れ。夜、迎えに来る」


紗英は大学の建物の階段の上から、瑛士の車が視界から消えるまで見送った。


(昨夜……本当に私に会いに来てたの?)


ーーーーーーーーーー


しかし、夕方を待つことなく、紗英がランチをしている最中に瑛士が電話をかかってきた。

電話に出ると、彼の冷たく鋭い声が耳に飛び込んできた。


「紗英」


近くのレストランで友人の美玖とランチを楽しんでいた紗英だったが、その声に軽い苛立ちを覚えながら問い返す。


「どうしたの?」


「糸瀬一郎を釈放させたのは君の仕業か?」


「糸瀬一郎……糸瀬さんの夫のこと?」


瑛士は答えない。その沈黙が否定ではなく、むしろ肯定を意味していることは明らかだった。

電話越しから聞こえる荒い息遣いに、普段は冷静な彼がこれほど苛立っているのを感じ取る。


紗英が「違う」と言おうとした矢先、昨夜の車内で誠司が誰かと電話していた場面が脳裏によぎる。


「私じゃない。恐らく誠司がそうさせたのかもしれない」


その答えに瑛士は鼻で冷笑を漏らす。


「あのボディーガードが勝手にやったと?紗英、君が指示しなければ彼がそんなことをするはずがない。局長がボディーガードの言うことを聞くと思うか?」


紗英は軽く紙ナプキンで口元を拭いながら冷静に答えた。


「あなたがそう思うなら、私がやったってことにしておけばいいわ。誠司は私のボディーガードなんだから」


「西園寺」


彼がその名前を口にした瞬間、その声には怒りが明確に滲んでいた。歯を食いしばる音が聞こえてくるようで、紗英は微かに息をつく。


「なぜ糸瀬一郎を釈放した?」


「何があったの?釈放された彼がまた糸瀬愛乃を殴ったの?」


紗英が問い返すと、瑛士の声はさらに冷たく鋭さを増した。その低い声には、押し殺された怒りが込められているのがはっきりと伝わる。


「西園寺紗英、愛乃のを嫌っているからって、あいつを利用して愛乃に復讐する真似をするとは。まさかあいつに襲われたいのか?昨夜、九条の友達が君を救わなければ、今ごろ君は普通に学校で過ごせていなかっただろう。」


その言葉は鋭い刃となり、紗英の心に突き刺さる。彼女の顔から血の気が一瞬で引き、青ざめていく。


紗英にとって、不快な記憶を無理に忘れることは、長年の本能のようなものだった。それを今、瑛士の言葉が無慈悲に引きずり出す。

目の前で、彼女の震える指先を見つめていた美玖が、心配そうに紗英を見上げた。


それでも紗英は小さく笑みを浮かべる。その笑みはどこか薄く、冷たい。


「私を長いこと知ってるあなたが、一番よくわかってるでしょ? 私が誰かを追い詰めるときは、いつだって自分の手でやってる。わざわざ他人の手を借りると思う?」


電話の向こうから聞こえていた瑛士の声が、ぴたりと止む。代わりに重く苦しい息遣いだけがかすかに聞こえてきた。


紗英は目を閉じ、深く息を吐いてから静かに口を開いた。


「瑛士、あなたは今日の夜、私を迎えに来ると約束したわね。でも、またあの女のためにその約束を破るつもりなら……私はあなたの母に相談するわ。彼女の存在が、私たちの婚約にどれだけ悪影響を与えているかって」


電話の向こうから返事はなかった。代わりに、突然通話が切れる音が耳に響く。紗英は携帯を握りしめたまま、淡い色の唇を噛み締め、深い跡が残った。


「紗英……大丈夫?」


目の前でその様子を見ていた美玖が、おそるおそる口を開いた。


紗英は携帯をテーブルに置き、何事もなかったかのように再びナイフとフォークを手に取った。


「平気よ。さあ、食べましょう」


しかし、美玖は引き下がらない。彼女の瞳には、友人への深い心配が宿っていた。


「瑛士……浮気したの?」


その直球の問いに、紗英は動揺する様子もなく、ナイフを動かしながら冷静に答える。


「糸瀬愛乃が戻ってきた」


「糸瀬愛乃って……誰?」


「彼の元カノよ」


「えっ、あの愛乃? 貧乏すぎて瑛士の母親に無理やり別れさせられて、それで海外に逃げたっていう、あのシンデレラ?」


「そう、その女よ」


美玖の眉がわずかにひそめた。


「紗英、結婚も間近なのに……彼の今の態度を見て、本当に幸せになれると思う?」


その言葉に、紗英のナイフとフォークを持つ手が一瞬止まる。そして、静かにそれをテーブルに置いた。

彼女はワイングラスを手に取り、赤ワインを一口含む。その仕草は冷ややかで、感情の揺れを隠しているようだった。


「この四年間、私は自分のすべてを瑛士に捧げた。どんな手ごわい相手だって乗り越えてきたのよ。結婚式が目の前に迫ってる今、既婚者になった元カノに負けるなんて、あり得ないわ」


ーーーーーーーーーー


午後四時、テストが終わり、紗英はバッグを手に教室から出てきた。

視線は自然と見慣れた車を探し始めた。彼女の車か、あるいは瑛士のランボルギーニだろうか。

しかし、目当ての車は見当たらない。代わりに目に入ったのは、校周囲の女子学生たちの注目と囁きを集める一台の高級車だった。


紗英が通う演技科では、たまに有力者に目を付けられる学生がいるため、校門前に高級車が停まるのは珍しいことではない。

しかし、今日の車は一目でそれらとは違っていた。


黒いロールス・ロイス ゴースト。

品格と豪華さを兼ね備えたビジネスカー。その存在感は周囲の視線を釘付けにしている。


横から皮肉混じりの声が聞こえ、紗英は軽く目を向けた。


「こんな目立つ車で来るなんて、西園寺さんに喧嘩売ってるのかしら?」

「やめなよ、ほら……彼女のあの許婚……そんな暇あるわけないじゃん」

「ちょっと声を抑えて。彼女、今日テストで来てるって聞いたよ」


噂話に夢中な彼女たちは、どうやら今日の紗英の控えめな服装のせいで、すぐそばに本人がいることに気づいていないらしい。紗英は眉間にしわを寄せ、バッグからスマホを取り出す。瑛士に直接電話をかけた。


一回目は切られた。彼女は諦めず、二回目を発信する。コールが自動的に切れる寸前で、ようやく応答があった。


「試験終わったわ。どこにいるの?」


紗英は普段通りの自然な口調で尋ねた。しかし、返ってきた瑛士の声は昼間よりさらに冷たかった。


「西園寺紗英。そんな下品な手段ばかり使って、本当に自分が望む結果が得られると思うのか? 逆に、俺がますますお前を嫌いになるのが怖くないのか?」


その言葉に、紗英は思わず眉をひそめる。そして数秒の沈黙の後、冷静に問い返した。


「どんな手段のこと?」


今日一日中テストに追われていた彼女には、いったいどんな「下劣な手段」を使ったというの?



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