「西園寺紗英、最後の警告だ」
瑛士の声は冷静すぎるほど静かで、それでいて底知れぬ冷たさを帯びていた。
「愛乃があの夫と完全に縁を切るまで、俺は彼女を放っておくつもりはない。もし不満があるなら俺にぶつけろ。ただ、これ以上メディアで彼女を貶めたり、俺の母を利用して彼女を追い詰めたりするなら、婚約を解消することだって構わない」
その一方的な宣告に、紗英が反論する間もなく電話は切れた。
メディアで糸瀬を貶める?
階段に立ち尽くした紗英の脳裏に疑問が浮かび上がった。
彼女は一分ほど深呼吸を繰り返し、何とか気持ちを落ち着けるとすぐに誠司に電話をかけた。呼び出し音が鳴る間もなく、すぐに通話が繋がる。
「学校まで迎えに来て」
淡々とした紗英の声に応えるように、誠司の冷静な声が耳元に届く。
「もう着いています」
「もう着いたの? どこ?」
「10時の方向です。見えますか?」
10時の方向?紗英が視線を向けると、目に入ったのは黒いロールス・ロイス ゴースト。そのタイミングで、まるで誠司の言葉に応えるように車の窓がゆっくりと下がった。
「誠司?」
少し驚きながら車へ向かうと、運転席から誠司が静かに降りてきた。冷徹で端正な顔立ちは、彼の静かな威圧感をさらに際立たせている。
誠司は無駄のない動作で車のフロントを回り込み、助手席のドアを開けた。その一連の仕草は驚くほど洗練されており、周囲の目を引くのに十分だった。
紗英は改めて誠司を見た。車の高級感すらかすませてしまうほどだ。車が誠司を引き立てているのではなく、誠司がその車を完全に支配している。
もちろん、高級車に乗る美男子、それに加えて大スターの紗英という組み合わせは、大学前を通る誰もが一瞬立ち止まるほどの圧倒的な光景だった。
周囲の羨ましい表情を構わず、紗英は彼の前に立ち、顔を上げて尋ねた。
「その車、誰の?」
「お嬢様の車は如月さんのところにいます」
誠司は淡々と訳わからないことを言った。
「で?」
少し静かになって、彼は表情を変わらず説明した。
「友人から借りました」
「へえ……でも、もう少し貧乏そうな友人はいなかったの?」
「彼は僕の親友です」
紗英は考え直した。車を貸すなんて頼みは、普通の関係では到底できない。
「お金持ちって、車庫に高級車が何台もあるんでしょ? もっと目立たない車を借りてきてくれたら良かったのに」
紗英の文句にも、誠司は微動だにせず、片手をドアに置いたまま低い声で答えた。
「他にはパガーニやブガッティのスーパーカーもありましたが、これが一番控えめだと思います」
「……」
紗英は何も言い返せず、ため息をつきながら助手席に座り込んだ。
誠司が運転席に戻り、エンジンをかけると、紗英は思い出したように問いかけた。
「どうしてこんなに早く着いてたの? 瑛士が頼んだの?」
「いいえ」
「じゃあ、なんで?」
「如月さんが来ないだろうと思いました。そして、お嬢様から連絡があると予想していました。ちょうど近くで用事をしていたので、ついでに来ました」
「そんなことまで分かるの?」
車内が一瞬静まり返った後、誠司は淡々とした口調で語り始めた。
「クラブで如月さんと糸瀬愛乃のスキャンダルが話題になっています。彼らの交際が記者に報じられたようです。如月さんはそれをお嬢様の仕業だと思ったのでしょう」
「スキャンダル?」
紗英は驚いた、バッグからスマホを取り出して検索を始めた。「西園寺紗英」というキーワードを入力すると、検索結果は最新のニュースで埋め尽くされていた。
検索結果は、最新のニュースで埋め尽くされていた。
「西園寺紗英の許婚がまさかの浮気!?」「双方不貞行為!?」「元カノ糸瀬愛乃、再登場!」
ーーーーーーーーーー
スマホの画面に映る記事には、糸瀬の名前や正体だけでなく、彼女の写真までもが晒されていた。
さらにSNSのコメント欄は、紗英のファンによる糸瀬への罵倒で溢れていた。当然ながら瑛士も無傷ではいられず、メディアは大企業の御曹司の不倫を名指しで書く勇気こそなかったものの、ファンたちは彼を容赦なく責め立てていた。
紗英は無表情で大まかに記事を眺めると、冷静に口を開いた。
「瑛士は……これ全部私がメディアにバラしたと思っているの?」
「もちろん、そう思っているでしょう。こういうこと、お嬢様は過去にもしてきましたから」
誠司はハンドルを握ったまま、淡々と答えた。
「……」
「じゃあ、あなたも私がやったと思ってるの?」
紗英はムッとして問い返した。
「そんなことはありません」
誠司の答えに、紗英はほんの少しだけ心が和らいだ。
「お嬢様がメディアに連絡を取るよう、僕に指示をしていない限り」
「……」
一瞬、紗英は言葉を失い、少し不機嫌そうな表情を浮かべた。
「そんなに何でもわかるなら、一体誰がこんな事をしたのか、あなたの意見を聞かせてよ」
誠司は前方を見つめたまま、冷静な声で続けた。
「それが誰だろうと、大した問題ではありません。メディアに書かれている内容は、ほとんど事実と一致していますから」
その言葉に、紗英は唇をかみしめ、ぼそりとつぶやく。
「瑛士は今、私が彼の可哀そうな元カノをいじめていると思ってるのよ」
車内が一瞬静まり返った後、誠司は淡々と、しかし深みのある声で答えた。
「それがどうしました? お嬢様が糸瀬をいじめなかったとしても、彼があなたを好きになることもないと思います。彼がそう思った原因は、あなたを愛してないからです」
「……」
その冷徹な現実を突きつけられ、紗英は胸の奥に突き上げる怒りを感じたが、反論する言葉が見つからない。
悔しさを押し殺しながら、誠司に命令した。
「黙って。話しすぎなのよ」
信号待ちで車が交差点に停まると、誠司はふと助手席に目を向けた。
彼女は優しい茶色のバッグを抱え、小さな体をさらに縮めるように座っている。前方をぼんやりと見つめるその姿は、普段の彼女の堂々とした態度とはかけ離れていた。目元が赤くなっているのを見て、誠司はほんの一瞬視線をそらす。
信号が青に変わり、車が静かに再び動き出した。
誠司は慎重な口調で紗英に声を掛けた。
「お嬢様、もしこのことをした人間を突き止めたいなら、僕がメディア関係者に頼んで調べさせましょう。情報は残されていると思います。突き止めるのはそれほど難しくありません」
「誠司。」
「はい」
「あなたの婚約者って、初恋の相手なの?」
助手席から誠司の完璧な横顔を見つめる紗英。しかし、その表情には何の感情も読み取れない。
少しの間があって、彼は一瞥をくれると、冷たく淡々と答えた。
「婚約者はいますが、初恋はいません」
「……」
紗英の驚きにも構うことなく、誠司は淡々とした声で問いかけた。
「そのままアパートに戻りますか? それとも如月さんのところへ?」