紗英がまだ返事をしないうちに、バッグの中のスマホが鳴った。
彼女はスマホを取り出し、画面を見て一瞬動きを止めた。「如月夫人」と登録された名前が表示されていたからだ。
ためらうことなく通話を受け、甘い声に変えた。
「如月夫人、おさしぶりです」
「紗英ちゃん、こんばんは、今日時間ある?」
「何かご用事でしょうか?」
「特にこれといった用事があるわけじゃないの。ただ、今日は久しぶりに料理を作る気になってね。もし予定がないなら、家に来て一緒にご飯でもどう?」
瑛士の母について、紗英はそれほど詳しくなかったものの、彼女が表面上は穏やかで優雅でありながら、裏では非常に計算高い女性であることは知っていた。このタイミングでの招待は、きっと糸瀬愛乃に関する話があるに違いない。
紗英は笑顔を含みながら答えた。
「予定はありません。すぐにお邪魔します」
電話を切ると同時に、誠司が無言でハンドルを切り、車を反転させた。
「その前にショッピングモールに寄って。何か手土産を買わないと」
紗英はスマホをバッグにしまいながら指示を出した。
ーーーーーーーーーー
車が如月家の屋敷の前に静かに停まった。豪奢な門構えの向こうに広がる庭と建物は、夕焼けに照らされて温かな輝きを放っていた。まるで絵画のように美しい光景。
玄関を抜け、紗英がリビングに入ると、予想通り瑛士がそこにいた。しかし、紗英の視線がその隣に座る人物を捉えた瞬間、思わず目を見張った。そこには糸瀬愛乃がいたのだ。
薄紫色のセーターに身を包み、長い黒髪を肩に流す彼女の頭には白い包帯が巻かれていた。手は落ち着かずに膝の上で動き、顔を伏せた姿はどこか頼りなく、弱々しい印象を与えていた。
紗英が部屋に足を踏み入れた瞬間、瑛士が眉をひそめ、冷たい声で言い放った。
「どうしてここに来た?」
紗英は手に持っていた手土産から視線を上げ、表情を変えずに答えた。
「あなたのお母さんに夕食に招かれたから」
その声に反応して、愛乃が驚いたように顔を上げた。控えめな声で、「西園寺さん……」と紗英の名前を呼んだ。
紗英は彼女の顔を見た瞬間、息を呑んだ。
前回会ったときは、彼女の頬には少しのアザが目立つ程度だったが、今の愛乃はさらに痛々しい姿だった。目尻には深い紫色の痣、唇の端には裂けた跡、額や頬には新たな傷が加わっている。
紗英は眉を寄せ、糸瀬のこの姿自分から見ても可哀そうと思っているから……瑛士はなおさら彼女を哀れに思うに違いないと心の中で考えた。
愛乃は申し訳なさそうに小さな声で謝罪の言葉を口にした。
「昨夜のこと、本当に申し訳ありません、西園寺さん」
紗英は手土産をテーブルに置き、淡々とした口調で応じた。
「あなたはあなた、あなたの夫はあなたの夫。もしあなたが彼にそうさせたのでなければ、昨日のことに関して謝罪する必要はないわ」
その言葉に、愛乃は何か言おうとしたが、結局言葉を飲み込み、再び視線を落とす。
一方、瑛士は一人掛けのソファに腰掛けたまま、冷たい目で紗英をじっと見つめていた。その視線には、明らかな敵意と疑念が込められているように感じられた。
紗英は執事が運んできたお茶を受け取り、ソファに腰を下ろすと、カップに軽く息を吹きかけた。まだ熱いことを確認してから、カップをテーブルに置き、リラックスするように背中をソファに預ける。
そのまま、瑛士をまっすぐ見つめ、微笑を浮かべた。
「そんなに私を見てどうしたの? まさか私があなたのお母さんに彼女を呼んでもらったとでも思ってる?」
紗英の明るい笑顔に、瑛士の眉間がわずかに寄り、冷ややかな嘲笑が口元に浮かぶ。
「違うとでも言うつもりか?」
「私ではない。まだあなたのお母様を巻き込む段階ではないと思っている。それに、あなたと彼女のスキャンダルも私とは無関係よ」
彼女の言葉に瑛士は一瞬黙り込む。その沈黙の重さを感じながら、彼は深い声で問いかけた。
「本当にお前じゃないのか?」
紗英はその問いに対して一切たじろぐことなく、彼の目をまっすぐに見つめ返す。
「そう疑うなら、調べればいいと思う。如月グループの御曹司なら、その犯人を見つけ出すくらいは簡単でしょう?」
その言葉に、隣のソファで静かに座っていた愛乃が反応した。まるで自分がその場にいないかのように振る舞っていた彼女だったが、紗英の発言に軽く息を飲み、無意識に手を握りしめた。
愛乃の視線が瑛士へと向かったけど、瑛士は、紗英の顔をじっと見つめ続けていた。その暗い瞳には何を考えているのか一切読めない、深い陰りが漂っている。
しばらくの間、リビングには重い沈黙が流れた。
その静けさを破ったのは、執事の落ち着いた声だった。
「瑛士さま、西園寺さん、糸瀬さん、奥様がお食事に呼ばれています」
ーーーーーーーーーー
如月夫人がシンプルながらも上品なドレスを身にまとい、優雅で威厳ある佇まいを見せていた。その顔には柔らかな笑みが浮かび、親しげな声で紗英たちを迎える。
「さあ、皆座って、そんなに緊張しなくていいわ」
紗英はその場に馴染むように自然な微笑みを浮かび席に席に座った。隣では瑛士が冷淡な表情を崩さず、眉間にはシワが寄ったままだった。一方、愛乃は肩をすぼめ、控えめにお辞儀をしてから恐る恐る席に着いた。
如月夫人が自らスープを盛り付け、紗英の前に差し出した。
「さあ、紗英ちゃん、これは特別にあなたのために煮込んだスープよ。女性の体に良いから、たくさん飲んで」
紗英は一口すくって味わい、すぐに瞳を輝かせた。
「香りも素敵ですが、味がさらにおいしいです。ありがとうございます」
如月夫人は満足げに笑みを深めた。
「本当によく人を褒める子ね」
「瑛士から聞いたけど、今日はテストだったんですって。どうだったかしら?」
紗英は瞳をぱっと動かしながら、屈託なく答えた。
「教授が厳しくなければ、まあまあ順調だったと思います。最近はずっとテスト勉強を頑張っていたので」
その言葉を聞いた瑛士は、皮肉たっぷりの声で言い放った。
「テスト勉強?夢の中ででやったのか?」
前日、紗英がホテルで彼を呼び出し、さらにグランドクランで友人たちと夜遅くまで盛り上がっていたことを考えれば、テスト勉強をする暇などなかっただろう。
「……」
如月夫人は軽く息をつき、息子を睨むように見やる。
「紗英ちゃんはまだ若いし、遊びたい盛りなのよ。あなたは彼女の婚約者として、そんな冷たい言い方をするべきではないでしょう?それに、演技のテストなんて大したことはないわ。紗英ちゃんの演技力なら、絶対通るはずよ」
愛乃は控えめな笑顔を浮かべながら、小さな声で紗英に向かって話し出した。
「そうですね……私も西園寺さんの出演された映画を拝見しました。本当に綺麗で、演技も素晴らしいです。これからのご活躍が楽しみです」
彼女の声には緊張が滲み、笑顔もぎこちない。如月夫人の優雅な仕草に隠された威圧感に、圧倒されているのは明らかだった。
そんな愛乃に瑛士が視線を送り、眉をわずかに寄せながら淡々と言う。
「愛乃、そんなに緊張しなくていいよ。母さんは最近のスキャンダルで少し誤解しているだけで、君に何かしようなんて思ってない。それにもっと食べた方がいい、君は痩せすぎだ」
その言葉に愛乃はさらに縮こまりそうになり、言葉を出すこともできなかった。
一方で、如月夫人は微笑みを浮かべたまま、眸の奥に冷ややかな光を宿していた。
「そうよね、最近のメディアには本当に困ったものだわ。うちの瑛士はもうすぐ結婚するというのに、浮気だのなんだのと馬鹿げた話ばかり流して。そろそろきちんと教えてあげないと、私たちに手出しできるとでも思っているのかしら」
言葉にわずかな間を置き、如月夫人は続けた。
「あ、そうだ。新聞で見たけれど、糸瀬さんはアメリカで働いてる日本の方と結婚されたそうね。近々アメリカに帰る予定なのかしら?それとも、お友達として瑛士の結婚式に出席するご予定?」