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第17話

愛乃が顔を上げ、如月夫人と視線を交わした。


彼女の微笑みを湛えた顔は一見温和に見えるが、その目には針のような鋭さが秘められていた。誰が見ても、これが警告であることは一目瞭然だった。


愛乃は唇を噛みしめ、しばらくの沈黙の後、ようやく言葉を搾り出した。

「瑛士の結婚式……私は参加しません」


「そう」


如月夫人はそっけなく答えると、それ以上触れずに話題を変えた。


「瑛士がフランスでオーダーしたウェディングドレスが届いたわ、紗英ちゃん。明日、時間があれば瑛士に付き添ってもらって試着してみて。何か手直しが必要なら、その場で調整してもらえるわ」


紗英は穏やかに微笑みながら瑛士を見た。


「瑛士が時間があるなら、私はいつでも大丈夫です」


如月夫人は即座に言った。


「瑛士はもちろん時間があるわ」


瑛士は一瞬顔を上げ、紗英をじっと見つめた。やがて何も言わずに再び食事に視線を戻した。拒絶する素振りも見せなかった。


愛乃は目を伏せ、美しく整った器に盛られた白いご飯を見つめていた。その手は力なく膝の上に置かれているが、その心中には逃げ出したい衝動が渦巻いていた。このような屈辱は彼女にとって初めてではない。


しかし、五年前とは状況が違っていた。あの頃、彼女は主人公だった。そばには彼女を守る男性がいて、自分が世界の中心にいると信じていた。だが今、この食卓で彼女はただの傍観者であり、口を挟むことすら許されない立場にいる。


食事が終わると、瑛士はテーブルの上から車の鍵を取り上げ、自然な調子で言った。

「俺が送るよ」


紗英が口を開く前に、その視線を受け取った愛乃は、まるで合図を受け取ったかのようにぎこちなく立ち上がり、微笑みを浮かべながら断った。

「いえ……大丈夫です、自分でタクシーを拾いますから。瑛士は西園寺さんを送ってあげてください。まだ早いから、デートでもしてから帰られたらどう?」


瑛士は鍵を指に引っ掛け、低い声で答えた。

「このあたりタクシーはほとんど捕まらない」


この地域は高級別荘地として有名で、どの邸宅にも車が備わっているのが当たり前だった。タクシーが通ることは滅多にない。


それでも愛乃は首を横に振った。

「本当に大丈夫です。少し歩けばバス停がある。バスで帰るのも簡単ですから、心配はいらない。」


紗英は二人をちらっと見て、笑顔で言った。

「大したことではありませんよ。ついでですから、行きましょう」


愛乃は紗英の笑顔を見つめ、ついには軽く頷いて返事をした。

「……それじゃあ、お願いします」


ーーーーーーーーーー


車が別荘地を抜けると、後部座席に座る愛乃は、小さな声で言った。

「瑛士、私を借りているアパートまで送ってください」


運転席の瑛士は、眉間にシワを寄せ、低い声で応じた。

「病院に行こう。医者がまだ入院が必要だと言っている」


「病院には戻りたくない」


愛乃の声は震えていたが、その中には確かな拒否の意志が込められていた。


瑛士の表情はさらに険しくなり、冷たい声で言い放つ。

「愛乃、わがままを言うな」


車内には重苦しい沈黙が広がる。愛乃は視線を膝の上に落とし、瑛士は前方を睨むように見つめたまま、無言で運転を続けていた。


愛乃は意を決したように、静かに言葉を絞り出す。

「それなら、前の交差点で降ろして。そこから歩きます」


バックミラー越しに彼女の顔を見る瑛士の瞳には、憤りと迷いが入り混じっていた。その手はハンドルを強く握り締め、青筋が浮き出ている。

しかし、彼は何も言わず、車の速度を上げ、病院の方向へと向かい続けた。


「止めて!」


愛乃は後から叫んだ。


「止めて、瑛士!病院には行かないって言ってるでしょ!」


彼女の叫びにもかかわらず、瑛士はブレーキを踏む様子を見せず、無言でハンドルを握り続けた。やがて、車は病院の駐車場に止めた。


車が止まった瞬間、愛乃は勢いよくドアを開け、足早に車を降りた。

瑛士は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにシートベルトを外し、彼女を追いかけるように車を降りた。


紗英は助手席に座ったまま、ガラス越しに二人の様子をじっと見つめていた。

彼女の指はぎゅっと握り締め、その爪が手のひらに食い込む痛みすら、今の彼女には気づけなかった。


車の外で繰り広げられる光景は、紗英の胸に冷たい鋭利な刃を突き立てるようだった。

瑛士の目に愛乃への強い保護欲が感じ、まるで彼女を守ることが彼自身の使命であるかのようだった。

紗英は助手席に座ったまま、どれほど目を逸らそうとしても、その二人の姿が視界に焼き付いて離れなかった。


(これが……彼が愛する人を守る姿なんだ……)


胸の奥に湧き上がる痛みに、紗英の脳裏に親友である美玖の言葉がよぎる。

「紗英ちゃん、あなたたち結婚するんでしょ……でも彼の今の態度で、本当に幸せになれるの?」


視界が次第にぼやけていく。涙が込み上げ、彼女は必死にそれを飲み込もうと唇を噛み締めた。


車外では、さらに騒がしくなっていた。いつの間にか見慣れない若者たちが集まり、その手には何かを持ち、瑛士と愛乃に向かって怒りを上げていた。


紗英は車のドアを開け、片足を地面に降ろしたその瞬間、不意に投げつけられた卵が、紗英の額に直撃した。


ーーーーーーーーーー


夜の闇が静かに病院の駐車場を包み込み。


薄暗い光の中、紗英は額に直撃した卵の痛みに顔をしかめながら、手で額を押さえた。そのゆえ、誰も彼女の顔をはっきりと見ることはできなかった。


暗がりから突然現れたのは、若い女性たちのグループだった。彼女たちは、どうやら長い間ここで待ち伏せていたらしい。


「恥知らずな女!」

「叩け!」

「自分の夫がいるのに他人の婚約者を誘惑するなんて、いやらしい!」

「糸瀬愛乃!紗英ちゃんの婚約者から離れない限り、お前を許さない!」


叫び声が飛び飛び交い、手に持った物が愛乃に向かって投げつけられた。


そのいくつかは紗英にも飛んできて、車のドア付近に立つ彼女の体を直撃する。


紗英は叫び声と投げつけられる物の衝撃を受けながらも、状況をすぐに察した。口を開いて制止しようとしたその瞬間、低く冷たい怒声が辺りを震わせた。


「これ以上投げてみろ!どうなるか分かっているのか?」


額から流れる卵の白身で視界がぼやける中でも、紗英は瑛士の怒りに満ちた冷酷な表情をはっきりと捉えた。

彼のスーツは、投げつけられた卵や異物で汚れ、形も崩れている。それでも、その圧倒的な威圧感は微塵も損なわれていなかった。


その一言で、女性たちは一瞬沈黙した。


如月家の跡取りである瑛士を敵に回すことの意味を、彼女たちは十分に理解している。

だが、その沈黙を破る声が上がった。


「如月瑛士、こんなことして紗英に申し訳ないと思わないの?」

「そうよ!そもそも浮気してるのはあんたたちじゃないか!」

「最低だ!」


再び騒ぎが大きくなり、最初に声を上げた女性が卵を投げつけた。

「如月瑛士、確かにお前は偉いかもしれない!でも、紗英のためなら怖くない!」


その卵が火をつけたかのように、乱暴に投げられる物が雨のように飛び交い始める。


紗英は口を開けば、この騒ぎを収めることができることを知っていた。彼女のファンたちなのだから、たった一言で全てを止められる。


だが、彼女はその言葉を飲み込んだ。視界の中で、瑛士が愛乃をしっかりと腕の中に抱き込み、糸瀬を守る姿を見てしまったからだ。まるで彼女を全ての危険から隔絶するようだった。


愛乃は涙を浮かべながら彼を見上げ、その目には瑛士への愛が映し出されている。

紗英は自分がこの混乱の中で忘れ去られた存在であることを、痛感させられる瞬間だった。


その時、病院の階段の上から、二人の男性がその光景を見下ろしていた。

一人は整った顔立ちのセクシーな男で、嘲笑いながら言った。


「あれは西園寺紗英のファンか?本当に恐ろしいな」


その隣に立つ誠司は駐車場を見下ろしていたが、やがて冷たい瞳が一角に留まった。そこに小さな女性の姿を見つけると、彼は何の迷いもなく階段を降りた。

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