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第18話

「どこへ行く?俺たちの車はあっちだろう」

誠司は耳を貸さず、無言でその方向へ歩き出した。


紗英は何かに再び打たれ、額から温かい液体が流れ落ちていくのを感じた。

しばらく呆然と立ちすくんでから、ようやくその正体に気づく。

血だ——!

その瞬間、彼女の頭に浮かんだのは、あの滑稽な考え。

(顔が傷ついてはいけない、女優は顔が命)


紗英は声を上げようとしたが、言葉が喉の奥に詰まったまま、全く出てこなかった。彼女はとても不格好な姿をしていた。こんな姿を見せるのは初めてだ。しかも他人の前で、こんなにも惨めになるなんて。


周囲の騒音が全て頭の中で混ざり合い、紗英は一瞬何も考えられなくなった。

そのまま消えてしまいたいという思いすら湧いてきた。

誰にもこの惨めで恥ずかしい自分を見られたくない——!


再び何かに当てられ、彼女は無意識にそれを避けようと手を上げ。そのとき、視界が暗くなり、清冽で慣れ親しんだ香りが彼女の周りを包み込んだ。


「ここでボーっとしてどうする?痛みを恐れないとでも言いたいのか?」


誠司の声に紗英はふと我に返る。

彼は広い背中で彼女を自分の腕の中に引き寄せ、服で彼女を覆った。紗英は誠司と車の間に隠れ、もし注意を払わなければ、誰も彼女だとは気づかないだろう。

だが、誠司が現れると、その威圧感から周囲の視線が自然と彼に引き寄せられた。


誠司は視線を下に向き、紗英の額にある汚れと血をじっと見つめ、次に瑛士と愛乃の方向に視線を移した。顔が一瞬で暗くなった。


「誠司」


紗英はその袖を引き寄せ、小さな声で彼の名前を呼んだ。


誠司は一度うなずき、低い声で「失礼します」と言い、すぐに紗英を横抱きにした。

「怪我をしたから、すぐ病院に治療させましょう」


その動作に、周囲の視線が集まり、ささやき声が飛び交う。

紗英は顔を誠司の胸に埋め、まるで彼の服に隠れてしまいたいかのようだった。


誠司が振り返ると、その冷たい視線は二人を無言で通り過ぎ、無意識に瑛士と目が合った。誠司は皮肉な微笑みを浮かべた。

瑛士の胸の奥に重苦しい感情が湧き上がり、どうにかそれを掴み取ろうとするが、それはまるで風のように消えていった。


紗英はうつむき、誠司のコートを無表情に使って額を拭こうとしたが、痛みが激しくなり、思わず息を呑んだ。涙が目元をぐるぐると回り、ついにこぼれ落ちた。


「大人しくしろ」


誠司は彼女をちらりと見下ろし、紗英を叱った。


「病院に行かないから、家まで送って」


「傷の手当が必要だ」


「こんな傷、たいしたことないわよ」


今回、誠司は一度も彼女を見ようともせず、足を止めることなく、そのまま歩き続けた。


紗英は声を上げた。

「家に送ってって言ってるの、聞こえてないの?」


「さっき、こんな風に叫んだら、そんな目に遭うこともなかったと思います」


「九条誠司!」


「お嬢様のお父さんが言いました。お嬢様の身の安全に関わることには、勝手にはさせないと」


紗英は彼を見つみ、心の中で涙が溢れた。

瑛士の心の中には結婚している人妻しかいない。

自分のファンに怪我をさせられて、不運だと思う自分。

ボディーガードを雇ったのに、全然自分の言うことを聞かない。


そう考えれば考えるほど、ますます悲しくなり、涙が止まらなかった。


最初はぽたぽたと一滴ずつ、次第に涙が止まらなくなり、誠司の肩に顔を埋めると、彼の胸で泣き出した。


誠司は足を止め、紗英が濡らしたコートを見下ろし、自分が着ている薄いシャツが、彼女の涙と鼻水で汚れている。


紗英の泣き顔は、ドラマのような美しい泣き顔ではなく、涙と鼻水を全部彼の服にべったりとついてしまっていて、誠司は目を閉じ、必死に耐え忍んだ。

何が「可愛い系お姫様」だ、度胸もない、そして汚い。


男の声は低く、そしてどこか硬くなっていた。

「もう泣くな」


「家に帰りたい!病院に行きたくないの!」


誠司は目の前の病院を見て、そして彼女の赤く腫れた目、汚れた顔、傷だらけの姿をちらりと見た後、足を踏み替えた。


車の前には、魅力的な男が立っていた。誠司に抱いて近づく紗英を見て、眉を少し上げた。

「西……西園寺さん?」


誠司は冷淡な表情で言った。

「運転しろ」


男はさらに眉を上げ、少し意地悪そうに言った。

「俺はお前の運転手じゃないだろ?」


そう言いながらも、男は後部座席のドアを開け、顎に手を当てて微笑んだ。「西園寺さんはファンに囲まれてるのか?」


誠司は無視し、彼女を抱きかかえたまま車に乗り込み、車外に立っている男を冷たく一瞥した。

「うるさい。暇なら仕事を増やそうか?」


「……」


「ただ鼻水に服を汚れただけで、なんで俺に八つ当たりしてるんだ?」


ーーーーーーーーーー


車の中


前方を運転する男が後ろを見て、汚れた紗英を見つけると、ティッシュを渡した。

誠司はそのティッシュを自然に受け取った。


紗英は手を伸ばしてそれを取ろうとしたが、その前に誠司が先に取って、まさか自分に顔を拭かせようとしていると思い込んだ。

顔にこびりついた涙、鼻水、そして血が混ざり、気持ち悪さがこみ上げてきた。


無意識に目を閉じて待っていたが、しばらくしてもその紙が顔に触れることはなかった。

彼女は目を開け、横に座っている男に視線を向けた。

男は無表情で眉をひそめ、彼女の涙で濡れた肩を拭いていた。紗英はその事実に気づくと、ふと朝のサンドイッチのことを思い出した。


あのとき、彼はコーヒーすら飲まず、ただ無言で彼女の世話をしていた。


自分はそんなに汚いのか、と、紗英は心の中で呟いた。


怒りと悔しさが込み上げてきたが、結局は何も言わず、ただ唇を噛んで車窓の外を見つめる。涙は止まらずに流れ落ちていった。


誠司は自分の服をきれいにすることに集中していて、彼女の気持ちにはまったく気づかなかった。

ただ彼の無言の態度が、紗英の心をさらに痛めるばかりだった。


しかし、前の運転手はそんな誠司を見て、思わずニヤリと笑った。


長年友達でいると、誠司が昔マフィアと傭兵部隊にいたことを知って。だから、こんな潔癖症、どこで身につけたのかは分からないけど、笑えるなと運転手は心の中で思った。


その運転手は後部座席に向かってボックスティッシュを差し出し、低い声で言った。

「西園寺さん」


紗英は少し恥ずかしそうにしていたが、結局は手を伸ばしてティッシュを受け取った。「ありがとう」と言おうとしたその瞬間、誠司はまた手を伸ばして、彼女の手からティッシュを奪った。


紗英は、もう耐えきれなくなり、怒りが込み上げてきた。何も言えずにいたそのとき、顔は誠司に手で優しく上げられ。

丁度その瞬間、誠司の綺麗な顔が彼女の目に飛び込んできた。


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