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第19話

誠司との距離があまりにも近すぎて、彼の息が肌に触れるたび、思わず痒さに耐えきれず後ろに下がろうとした紗英。しかし、顔は彼の手に固定され、動けなくなった。


「動くな」


ボックスティッシュは二人の間に置かれ、誠司は片手で紗英の顔を上げ、もう片方の手で、彼女の顔に付いた汚れをひとしきり拭い取った。


紗英は黙ってそのまま動くことなくじっとしていた。


高級車の中に置かれたティッシュはもちろん特別で、柔らかく、香りすらも無い。たとえ香りがあっても、彼女はそれを感じ取ることができない。それよりも、誠司の体から漂うシャンプーの香り、ボディソープの香り。

それらが、いつの間にか紗英の周囲を支配し、心地よい安心感を与えていた。


拭っても、どうしても落ちない汚れがあった。誠司は眉をひそめ、やっと紗英に問いかかった。

「ウェットティッシュはあるか?」


紗英はバッグを開け、中からウェットティッシュを取り出して誠司に渡した。

彼はそのティッシュで更に何回か顔を拭き、額にできた小さな傷を除けば、ようやく紗英の顔はきれいになった。


最後に、使い終わったティッシュをゴミ箱に捨てた後、誠司は初めて彼女の目をじっと見つめた。

「お嬢様、今なら教えてくれるますか? どうしてあんなところでボーっとして、ファンに投げられていたのかを」


何年も紗英を守ってきたから、誠司は彼女の性格をよく分かっているからこそ、あの時何も言わず、ただ彼女を抱きかかえてその場を離れた。

紗英の見た目は華やかでプライド高いように見えるけど、裏はそうではなかった。


紗英は唇を噛んだまま、少し落ち込んだ声でつぶやいた。

「私……ファンの誰にも気づかれなかった」


その言葉が紗英の心から出てきた瞬間、車内の空気が一瞬重くなり。誠司は言葉を返すことなく、ただ黙って彼女を見つめていた。


「誠司は……どうして、そんなに遠くから私だと分かっていたの?」


誠司は少し唇を引き上げた。

「彼女たちには気づけないも無理はない。だって、お嬢様の身長はファンの中で166センチ以上のはずだから。今日はヒールも履いてなかったから、小柄な女があの場所に立ってる姿が、彼女たちには見えなかったんだろう」


「……」


(ふん!高いからって偉そうに……!)


紗英は心の中でそんな思いを抱えつつ、落ち込んだ気分をそのまま車の窓に押し付け、外の夜景を見つめた。


ほんの一瞬、その華やかさは自分とは無縁の世界のように思えて、急に孤独感が込み上げてきた。

病院での出来事が思い出され、無意識に目を閉じ、唇を噛みしめた。


ーーーーーーーーーー


車は高級アパートの前に静かに止まった。


誠司はドアを開け、無言で彼女に手を差し伸べた。紗英は汚してしまった彼の服を抱えながら、車を降りた。


「私一人で上がるから、誠司は友達と一緒に帰って」


紗英は口を尖らせ、ムッとした表情を浮かべながら言った。彼女の言葉には、誠司に対する一抹の気まずさが混じっていた。


「あなたの服、どうするの? 私が家政婦に頼んで洗う?それとも後で同じ服を買って送るの?」


(絶対、この男、汚れた服を嫌がっているわ!)


誠司は、片手をポケットに突っ込み、無表情で彼女の額にある小さな傷をじっと見つめた後、冷静に尋ねた。

「自分で薬を塗れる?」


「大した傷じゃないわ」


誠司は少し考え込み、そしてゆっくりと助手席の方に歩み寄り、軽く窓をノックした。

「先に帰れ」


運転席に座る男が笑いながら言った。

「どうした? まさか雇い主の家に泊まる気か?」


「彼女の額の傷は処置する必要がある」


男は頭を振りながら、ニヤリと魅惑的な笑みを浮かべた。

「もし俺の女のそばにお前みたいな男がいるなら、絶対そいつを始末してやる」


「前提は、そんな女性がいることだろう」


男の表情が一瞬固まり、誠司はその反応を無視して振り返り、紗英の元へ行った。


紗英は何も言わず、誠司が自分の家に行くことを拒否することはなかった。ただ、無言で顎に手を当て、車が去って行くのを見送った。その後、彼女は近づいてきた誠司をじっと見つめた。


「誠司、一つ聞いてもいい?」


「うん?」


「さっき私の学校に行った時、運転していた車も、あの男の車だったの?」


「うん」


「へぇ――」

紗英は軽く唇を引き結んで、語尾を伸ばして言った。


「あの人、お金持ちだけでなく、見た目もかなりいいよね」


誠司はその話題には興味なさそうで、ただ淡々と「うん」とだけ返した。


「彼とは、本当にただの友達なの?」


「他に何があると思うの?」


「もしかして、彼に養われているとか?」


「……」


その言葉に、誠司は瞬時に冷ややかな視線を向けた。

「お嬢様こそ、如月さんが糸瀬を養っているかどうか、気を付けた方がいいと思います」


紗英はその言葉に一瞬驚き、顔が固まる。口を閉ざしたまま、何も言わずに歩き出した。

誠司は少し遅れて、静かに彼女の後ろを歩いてついていった。


ーーーーーーーーーー


家に帰ると、紗英は汚れた服を着たままでいるのを嫌がったから、シャワーを浴びてからでないと薬を塗ろうとしない。誠司は眉をひそめながらも、結局何も言わず、リビングで彼女が出てくるのを待っていた。


2時間後、そこから出てきた紗英は寝る服を着ていた。誠司は一目で彼女の目が車の中よりもさらにひどく赤くなっていることに気づいた。どうやらシャワーの間、また泣いていたらしい。


誠司の黒い瞳は冷たく、そしてほんの少しだけ冷ややかな嘲笑を浮かべていた。

紗英は、如月瑛士が自分を好まないことを最初から分かっていた。それでも無理に押し通そうとした結果、今さら泣いてもどうしようもないのだと、誠司は心の中で呟いた。


しかし、紗英は誠司が感じている微細な変化に気づくことなく、無言でソファに座り、抱き枕を抱きしめていた。そのまま、大人しく薬を塗るために綿棒を持つ誠司を待っていた。


2時間も浴室にこもっていた紗英は、ボディソープを何度も塗り直していたらしく、誠司が彼女に近づくたびに、その香りが強く感じられた。


普段なら、誠司はすぐに目をそらすはずだったが、なぜかその瞬間、彼の視線は紗英に引き寄せられ、気がつけば彼女をじっと見つめていた。その視線は、まるで深く脳裏に焼きつけるかのように。


十八歳の頃、誠司は隼人に笑われたことがある。「エロ動画を見ない男は、女性がどうなっているかなんて知らないだろう」と。


その言葉がふと頭をよぎり。喉仏が動き、目の奥で暗い欲望が渦巻く。


目の前にいる紗英は、誠司の視線に気づくことなく、ただ無防備に信頼を寄せている。


どんなに汚れた思考が頭をよぎろうと、誠司の顔には一切感情が表れない。紗英は、その彼の心の中を一切知ることなく、ただ大人しく待っている。


昨夜、彼女の体を見て、今、こんなに近くで彼女の白くて柔らかい肌を見つめると、無意識に衝動が湧き上がってきた。


「九条誠司」


突然、紗英が名前を呼んだ。


予想もしなかったタイミングで彼女の真っ直ぐな目が誠司を捉えた。誠司はその視線を受け止めるが、表情を変えることなく、低く冷たい声で答えた。


「痛かったか?」


彼女は黙って彼を見つめ、唇を噛んで言った。


「瑛士のお母さんが、明日私にウェディングドレスを試着してって言った」


しばらく沈黙が続いた後、ようやく紗英に問いかけた。


「それがどうした?」

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