セクション1: 婚約破棄の宣告
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貴族の娘として生まれたレナ・エヴァレットにとって、婚約はただの義務だった。彼女が十歳の頃に両家の間で取り決められた婚約は、彼女にとっては当然の未来であり、夢見る恋愛や純粋な愛情とは無縁の話だと思っていた。
その婚約相手、マリオン・アーデル伯爵家の嫡男は幼少期から彼女の隣にいた。無邪気な笑顔でレナを楽しませてくれた彼は、レナにとって少なからず安心感を与える存在だった。しかし、いつしかその笑顔が計算じみたものに変わり、彼女の心を曇らせるようになった。
そして今日、彼女の人生を一変させる出来事が起こった。
「申し訳ないが、この婚約は破棄させてもらう」
夕刻、エヴァレット家の広間に集まった両家の家族と彼女の目の前で、マリオンは無表情でそう告げた。その言葉に込められた冷たさは、彼のいつもの軽薄な微笑みを覆い隠していた。
「…え?」
レナは一瞬、彼が冗談でも言っているのかと勘違いした。しかし、彼の冷たい視線はそれが真剣であることを物語っていた。
「マリオン様、一体どういうことですの?」母であるエヴァレット侯爵夫人が憤りを抑えつつ問いただす。
「ご心配には及びません、伯爵夫人。我が家の事情が変わっただけです」マリオンの父が横から口を挟む。「我々は、より大きな利益を得るために、別の縁談を進めることにいたしました。」
その言葉にレナの体が震えるのを感じた。つまり、自分が「利用価値のない駒」と判断されたのだということだ。彼らにとって婚約とは、取引でしかなかったのだと痛感させられる瞬間だった。
「それではレナがどれほど努力してきたか、お考えになられたことがありますか?」侯爵夫人の声が上ずり、怒りと悲しみが混じる。
「努力には感謝しております。しかし、それだけでは我々の家の未来を保証するには足りません」とマリオンは冷たく言い放った。「それに、私は他の方と新たな婚約を結ぶ予定です。その方が、我々の家の名声をさらに高めることでしょう。」
「新たな婚約者…?」レナが問い返した。
「はい、公爵家の次女です。彼女の家はあなたの家よりも遥かに裕福で、影響力も強い。」
その瞬間、レナの胸の中に何かが崩れる音がした。自分が婚約者として選ばれたのも、そして捨てられたのも、ただ単に家の価値次第だったのだと悟ったからだ。
「……そうですか。」レナは震える声を絞り出した。
その場の空気が一瞬静まり返った。彼女が泣き叫ぶのではないかと誰もが思ったが、レナは涙をこらえ、ただ淡々と受け入れる姿を見せた。
「レナ!」母親が思わず叫んだが、彼女はそっと首を横に振った。
「大丈夫です、お母様。これでいいのです。」
しかし、その目には燃え上がるような決意が秘められていた。この屈辱を忘れることはない。そして、彼らに後悔させてみせる――彼女の心にその強い想いが芽生えた瞬間だった。
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その夜、レナは自室に戻り、暗い空間の中で一人静かに涙を流した。婚約破棄そのものよりも、自分が家の価値とともに切り捨てられたことが何よりも悔しかった。自分自身の努力や人間性が全く評価されていないことが辛かったのだ。
「私はただ…普通に幸せになりたかっただけなのに。」
小さな声で呟くその言葉は、誰に届くこともなかった。
だが、このままでは終わらない。彼女の中で、何かが変わり始めていた。
次の日の朝、父である侯爵から呼び出され、彼女に新たな縁談が持ち上がったことを知らされた。その相手は、隣国の大公爵家の跡取りであるセリオ・クロフォードだった。
「クロフォード公爵家ですって…?」レナは驚きの声を上げた。その名は誰もが知る、隣国でも屈指の名門家だ。しかし、その跡取りであるセリオの評判は芳しくない。冷酷無比で情の薄い人物として知られ、数々の女性を泣かせたという噂もあった。
「お前の力を試す絶好の機会だ。」父はそう告げた。「あの家に嫁いで、我が家の立場を取り戻すのだ。」
再び駒として使われる――そう思った瞬間、レナの胸に怒りが込み上げた。しかし、今度は泣き寝入りしないと決意した。
「わかりました。」冷静な声で返事をしつつ、彼女は心の中でこう誓った。
「私を捨てた者たちに、必ず後悔させてみせる。」
こうして、レナの新たな人生が始まるのだった。
セクション2: 結婚の条件
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エヴァレット家の屋敷から公爵家の馬車で移動する道中、レナの心は重苦しかった。冷酷な夫として悪名高いセリオ・クロフォードと結婚することは、もはや逃れられない運命だった。
車窓から流れる景色は美しくもどこか遠い。子供の頃はこの国が自分の未来そのものだと思っていたが、今となってはそれがただの幻想だったことを痛感する。
「……私は本当にこのままでいいの?」
馬車がクロフォード家の壮大な屋敷へと近づくにつれ、不安と覚悟が入り混じった感情が膨らむ。だが、その想いを断ち切るかのように、豪奢な門が目の前に現れた。見上げるほどに高い鉄製の門の向こうには、広大な庭園と白亜の邸宅が広がっていた。
「ここが私の新しい家……。」
執事の案内で邸宅の中へ通されると、その壮麗さに息を呑んだ。高い天井にかかるシャンデリア、磨き抜かれた大理石の床、壁に並ぶ美術品の数々――どれも彼女がこれまで見たことのないほどの豪華さだった。だが、それは同時に圧迫感をもたらし、彼女の心をさらに重くした。
「こちらへどうぞ。」
案内された先は、応接室だった。そこにはセリオ・クロフォード本人が待っていた。長身で整った顔立ち、鋭い灰色の瞳、深い黒髪。外見だけを見れば誰もが羨むような完璧な貴族だ。しかし、その冷たい表情と言葉に刺さるような鋭さは、噂通りの冷酷さを感じさせた。
「レナ・エヴァレット、と聞いている。」
セリオの第一声は挨拶でも歓迎でもなく、まるで事務的な確認のようだった。その言葉にレナは一瞬怯みかけたが、すぐに気を取り直し、深々と頭を下げた。
「はい、レナ・エヴァレットと申します。以後、よろしくお願いいたします。」
彼女の丁寧な態度にセリオは一瞥をくれただけだった。そして無表情のまま、冷たい声で続けた。
「お前に期待するのはただ一つ。クロフォード家の面目を保つことだ。それ以外のことに興味はない。」
その一言にレナの胸がぎゅっと締め付けられる。夫婦としての絆や愛情を求めることは、最初から無意味だという宣告だったからだ。
「承知いたしました。」彼女は震えを隠して返事をした。
「よろしい。」セリオは淡々と頷き、さらに続ける。「この結婚は政略の一環だ。お前もそれを理解しているだろう。私はお前に何も期待しないし、口出しもしない。その代わり、私の邪魔をしないことだ。」
その言葉にレナは思わず拳を握りしめた。だが、感情を表に出すことは許されない。ここで逆らえば、さらに立場が悪くなるだけだ。
「……はい。」
セリオはその返事を確認すると、冷たく頷き、背を向けた。
「執事がお前に部屋を案内する。今日からここで暮らす以上、クロフォード家の一員として振る舞え。それ以外のことは期待するな。」
それだけを言い残し、セリオは部屋を出て行った。
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その日の夜、レナは案内された自室で一人、深い溜息をついた。室内は広く、美しく整えられていたが、どこか寒々しい印象を受けた。まるでここが「家」ではなく、ただの「居場所」に過ぎないと感じさせるような空間だった。
彼女は窓辺に座り、月明かりに照らされる庭を眺めた。
「私はただの飾り物……。」
セリオの冷たい言葉が何度も頭の中をよぎる。彼の態度に怒りや悲しみを感じながらも、それを超えて、彼の本心に触れたいという思いが芽生えている自分に気づき、戸惑った。
「あの人はどうしてあんなに冷たいの?」
ふと、義妹のリリアンの存在を思い出した。彼女は兄とは正反対の明るく社交的な人物だと噂されている。もしかしたら、彼女ならセリオの過去や本心を知っているかもしれない。
「リリアン様に会えたら……少しでも手がかりを得られるかもしれない。」
レナはそう思いながら、自分の心の中にある不安と期待が入り混じる感情を抱えたまま、その夜を過ごした。
これから始まる新たな生活――それが何をもたらすのかは、まだ誰にも分からない。だが、レナはこの冷たい運命を受け入れるだけではなく、自分自身の力で切り拓いていく覚悟を固めていた。
「負けるものですか……。」
そう静かに呟いた彼女の瞳には、かすかに光る決意の炎が宿っていた。
第1章: 冷酷な契約
セクション3: 新生活の始まり
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翌朝、クロフォード公爵家での新生活が始まった。冷淡な夫との政略結婚という現実に向き合いながら、レナは自分の居場所を見つける覚悟を決めていた。
朝早く起きたレナは、用意されたドレスに身を包み、使用人の案内で広間へ向かった。クロフォード家は豪華絢爛な屋敷で、廊下に飾られた絵画や彫刻のひとつひとつが歴史と富を物語っている。しかし、それらの美しい装飾品も、どこか冷たく無機質に感じられる。
「こちらが朝食会場でございます。」
案内された広間には、大きなテーブルが中央に置かれ、その先に座っている人物が目に入った。夫であるセリオだった。彼は新聞を広げながら、静かにコーヒーを飲んでいた。その姿は完璧に整い、どこか威圧感すら感じさせる。
レナが軽く頭を下げて挨拶をすると、セリオはほんの一瞬だけ視線を向け、すぐに新聞に戻った。
「おはようございます。」
彼の声は低く抑えられており、挨拶というよりも形式的な反応に過ぎない。レナは微笑みを浮かべながら、用意された席に腰を下ろした。
食卓には美しい盛り付けの料理が並んでいたが、その場の空気は冷たいままだった。レナは何とか会話を始めようと考えたが、セリオの態度は壁のように固く、言葉を発する余地を与えない。
「……こちらの庭園はとても美しいですね。これほど手入れが行き届いているのは、庭師の方々が優秀だからでしょうか?」
ぎこちないながらも声を絞り出したレナだったが、セリオは新聞から目を離すことなく短く答えた。
「そうだな。」
その素っ気ない反応に、レナは心の中でため息をついた。これでは夫婦の会話など夢のまた夢だ。
食事を終えると、セリオは席を立ち、再び冷たい声で告げた。
「私はこれから執務室に向かう。お前は好きに過ごせばいい。」
それだけを言い残し、彼は去っていった。
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その後、レナは義妹のリリアンと初めて顔を合わせた。リリアンは兄とは対照的に明るく親しみやすい雰囲気を持つ女性で、初対面のレナにも笑顔を向けた。
「あなたが兄嫁様ですね!私はリリアンです。よろしくお願いします!」
その元気な挨拶に、レナは少し戸惑いながらも微笑み返した。
「初めまして、リリアン様。こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
「そんな堅苦しい呼び方はやめてください!リリアンでいいですよ。私、ずっとお兄様にお嫁さんが来るのを楽しみにしていたんです!」
その言葉にレナは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。少なくとも、この屋敷には自分を歓迎してくれる人がいるのだ。
リリアンはレナの手を引き、庭園を案内してくれた。そこには色とりどりの花々が咲き誇り、小川が静かに流れている。
「ここは私のお気に入りの場所なんです。兄が忙しいとき、私はよくここで本を読んだり、刺繍をしたりして過ごしています。」
レナもその静かな美しさに心を奪われ、少しだけ肩の力が抜けた。
「本当に素敵な場所ですね。ここなら心が安らぎます。」
「そうでしょ?兄はあんな性格ですけど、この庭園だけは昔から大切にしているんです。あまり知られていませんが、設計にも関わったそうですよ。」
「……セリオ様が?」
驚きの表情を見せるレナに、リリアンは頷いた。
「ええ。兄は冷たく見えるかもしれませんが、本当は繊細なところもあるんです。ただ、それを人に見せるのが苦手で……。」
その言葉に、レナはセリオの新たな一面を知った気がした。確かに冷淡で無愛想だが、その裏に隠された何かがあるのかもしれない。
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夜、レナは自室で一人、昼間のことを思い返していた。セリオの態度は依然として冷たいままだが、リリアンの言葉が心に引っかかっていた。
「セリオ様の本当の姿……それを知ることができれば、何か変わるのかしら。」
考え込むレナの耳に、ノックの音が響いた。
「失礼します。」
入ってきたのは執事だった。彼は一通の手紙を手渡しながら、丁寧に頭を下げた。
「旦那様からのお言葉です。」
手紙には、セリオの無駄のない筆跡でこう書かれていた。
「明日、午前中に一緒に公爵領内の視察に行く。準備を整えておけ。」
短い文面だったが、それはレナにとって大きな一歩だった。セリオが自分に関心を持つわけではないにしても、少なくとも一緒に行動する機会を与えられたのだ。
「……この視察を通して、彼と少しでも話すきっかけが掴めるかもしれない。」
レナは手紙を胸に抱き、静かに微笑んだ。そして、自分の中に芽生えた微かな希望を確かめるように、明日のための準備を始めた。
冷たく始まった新生活だったが、彼女の心には確かな変化が生まれつつあった――それは、セリオとの未来を自らの手で切り開こうとする決意だった。
第1章: 冷酷な契約
セクション4: 隠された優しさ
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翌朝、レナは指定された時間に準備を整え、屋敷の前でセリオを待っていた。視察の同行を命じられた手紙を受け取ってから、一睡もできなかった。冷たい態度のセリオとどう接するべきかを考え続けたからだ。
「お待たせしました。」
低く響く声に振り返ると、セリオが歩み寄ってきた。いつも通りの冷静な表情に隙はない。豪華な馬車が二人を待っており、セリオは無言で扉を開けてレナを先に促した。
「ありがとうございます。」
レナは静かに頭を下げ、馬車に乗り込んだ。セリオも続いて座るが、その目は一切彼女に向けられることなく、ただ外の景色を見つめていた。
馬車が動き出してからしばらく、二人の間に会話はなかった。気まずい沈黙に耐えかねたレナが話題を探し、意を決して口を開いた。
「今日はどちらへ向かうのですか?」
「北部の村だ。収穫の報告がある。」
それだけを答えると、再び黙り込んでしまうセリオ。レナはため息をつきたい気持ちをぐっと堪えた。夫婦としての絆を築くどころか、ただの仕事の同行者としか見られていないのだと痛感させられる。
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馬車が目的地に着くと、セリオは迅速に村人たちとの会合を始めた。村長や農民たちが彼に深く頭を下げ、敬意を払っている様子を見て、レナは驚いた。
「公爵様、今年も豊作です。この恩恵はすべて、公爵様のご指導のおかげです。」
「感謝する。しかし、それはお前たちが努力を続けたからだ。」
冷静な声で応えるセリオだったが、その言葉の端々に、彼が村人たちを真剣に思いやっていることが感じられた。レナは意外だった。彼の態度は冷徹だと思っていたが、少なくとも領民には公平で、彼なりの優しさを持っているように見えた。
「これが……セリオ様のもう一つの顔なのかしら。」
村人たちとのやり取りを見つめながら、レナはそんな思いを胸に抱えた。
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その日の帰り道、馬車の中で再び沈黙が続いていたが、レナはどうしても彼に聞きたいことがあった。勇気を振り絞り、口を開いた。
「セリオ様は……村のことを本当に大切にしていらっしゃるのですね。」
彼は少し驚いたように視線を向け、短く答えた。
「当然だ。」
その一言は淡々としていたが、その中に揺るぎない信念が感じられた。
「ですが、村の方々はそれ以上の感謝を抱いていらっしゃるように思いました。私には、セリオ様がただの冷徹な方とは思えません。」
レナの言葉に、セリオはしばらく沈黙した。そして、ぽつりと呟くように言葉を放った。
「冷徹で構わない。余計な感情は物事を乱すだけだ。」
その言葉には、まるで彼自身を守るための鎧のような響きがあった。レナはそれを見逃さなかった。
「感情を持つことは、必ずしも弱さではないと思います。」
レナの言葉に、セリオは一瞬だけ眉をひそめたが、それ以上何も言わなかった。その横顔を見つめながら、レナは彼の心の奥深くには何か隠されたものがあると確信した。
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屋敷に戻ると、執事がセリオに一通の手紙を手渡した。それを読み終えた彼はすぐに執務室へ向かおうとしたが、途中で足を止め、レナに振り返った。
「今日は疲れただろう。早めに休め。」
その言葉に、レナは一瞬耳を疑った。彼が自分を気遣うような発言をするとは思ってもみなかったのだ。
「ありがとうございます。セリオ様もお疲れにならないように。」
彼は短く頷き、そのまま部屋を去った。その背中を見送りながら、レナは胸が温かくなるのを感じた。
「少しずつだけど、私たちは歩み寄れるかもしれない……。」
それはほんの小さな変化だったが、冷たく閉ざされた日々の中での一筋の光に思えた。
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その夜、レナはベッドに横たわりながら、彼の短い言葉を思い返していた。「早めに休め」という何気ない一言。しかし、その中には確かな優しさがあった。
「セリオ様も、きっと自分だけのやり方で誰かを守ろうとしているんだわ。」
彼の心を理解したいという思いが強くなり、彼女の決意はさらに深まった。この結婚がただの契約ではなく、本物の絆に変わる日を目指して。
外には静かに夜が更け、星が輝いていた。その光が、彼女の未来を照らすかのように。
セクション4: 隠された優しさ
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翌朝、レナは指定された時間に準備を整え、屋敷の前でセリオを待っていた。視察の同行を命じられた手紙を受け取ってから、一睡もできなかった。冷たい態度のセリオとどう接するべきかを考え続けたからだ。
「お待たせしました。」
低く響く声に振り返ると、セリオが歩み寄ってきた。いつも通りの冷静な表情に隙はない。豪華な馬車が二人を待っており、セリオは無言で扉を開けてレナを先に促した。
「ありがとうございます。」
レナは静かに頭を下げ、馬車に乗り込んだ。セリオも続いて座るが、その目は一切彼女に向けられることなく、ただ外の景色を見つめていた。
馬車が動き出してからしばらく、二人の間に会話はなかった。気まずい沈黙に耐えかねたレナが話題を探し、意を決して口を開いた。
「今日はどちらへ向かうのですか?」
「北部の村だ。収穫の報告がある。」
それだけを答えると、再び黙り込んでしまうセリオ。レナはため息をつきたい気持ちをぐっと堪えた。夫婦としての絆を築くどころか、ただの仕事の同行者としか見られていないのだと痛感させられる。
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馬車が目的地に着くと、セリオは迅速に村人たちとの会合を始めた。村長や農民たちが彼に深く頭を下げ、敬意を払っている様子を見て、レナは驚いた。
「公爵様、今年も豊作です。この恩恵はすべて、公爵様のご指導のおかげです。」
「感謝する。しかし、それはお前たちが努力を続けたからだ。」
冷静な声で応えるセリオだったが、その言葉の端々に、彼が村人たちを真剣に思いやっていることが感じられた。レナは意外だった。彼の態度は冷徹だと思っていたが、少なくとも領民には公平で、彼なりの優しさを持っているように見えた。
「これが……セリオ様のもう一つの顔なのかしら。」
村人たちとのやり取りを見つめながら、レナはそんな思いを胸に抱えた。
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その日の帰り道、馬車の中で再び沈黙が続いていたが、レナはどうしても彼に聞きたいことがあった。勇気を振り絞り、口を開いた。
「セリオ様は……村のことを本当に大切にしていらっしゃるのですね。」
彼は少し驚いたように視線を向け、短く答えた。
「当然だ。」
その一言は淡々としていたが、その中に揺るぎない信念が感じられた。
「ですが、村の方々はそれ以上の感謝を抱いていらっしゃるように思いました。私には、セリオ様がただの冷徹な方とは思えません。」
レナの言葉に、セリオはしばらく沈黙した。そして、ぽつりと呟くように言葉を放った。
「冷徹で構わない。余計な感情は物事を乱すだけだ。」
その言葉には、まるで彼自身を守るための鎧のような響きがあった。レナはそれを見逃さなかった。
「感情を持つことは、必ずしも弱さではないと思います。」
レナの言葉に、セリオは一瞬だけ眉をひそめたが、それ以上何も言わなかった。その横顔を見つめながら、レナは彼の心の奥深くには何か隠されたものがあると確信した。
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屋敷に戻ると、執事がセリオに一通の手紙を手渡した。それを読み終えた彼はすぐに執務室へ向かおうとしたが、途中で足を止め、レナに振り返った。
「今日は疲れただろう。早めに休め。」
その言葉に、レナは一瞬耳を疑った。彼が自分を気遣うような発言をするとは思ってもみなかったのだ。
「ありがとうございます。セリオ様もお疲れにならないように。」
彼は短く頷き、そのまま部屋を去った。その背中を見送りながら、レナは胸が温かくなるのを感じた。
「少しずつだけど、私たちは歩み寄れるかもしれない……。」
それはほんの小さな変化だったが、冷たく閉ざされた日々の中での一筋の光に思えた。
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その夜、レナはベッドに横たわりながら、彼の短い言葉を思い返していた。「早めに休め」という何気ない一言。しかし、その中には確かな優しさがあった。
「セリオ様も、きっと自分だけのやり方で誰かを守ろうとしているんだわ。」
彼の心を理解したいという思いが強くなり、彼女の決意はさらに深まった。この結婚がただの契約ではなく、本物の絆に変わる日を目指して。
外には静かに夜が更け、星が輝いていた。その光が、彼女の未来を照らすかのように。