第一章 リプルシブバース
ひかると初めて話したのは、彼女が転校してきた初日の昼休みだった。
「宇宙、好きなの?」
大嫌いだ。
「あなたも宇宙好きなの?」
こんな宇宙、滅びてしまえばいいのに。
「影山さん。クララちゃんって呼んだほうがいい?」
スルーを諦めて本から顔を上げ、コンビニのサンドイッチを食べるのもやめた。そこには純粋そうな、きらきら輝く目があった。
転校初日からひかるは人気者だった。先生に紹介されて、笑いを取りながら明るく堂々と自己紹介したときから、全く違う人種だと思った。わたしが教室の隅っこで本を読んでいるとき、ひかるはクラスの女子たちに取り囲まれ、賑やかに話していた。そんなひかるが、腫れもののわたしに話しかけたのだから、教室は騒然とした。
ひかるに、女子たちはこそこそ耳打ちする。
「ねえ、星海さん。影山と話すのは、やめたほうがいいよ」
「こいつ、『ネクララ』だから」
クラス委員の寒川真冬とその取り巻きたちだ。あざけるような言葉の意味を、わかっているのか、いないのか。ひかるは目を輝かせて話を続ける。
「そんな難しそうな本いつも読んでるの?」
「……そう、だけど」
「すごいねー! 宇宙のこと詳しいんだ!」
わたしの手を取ってきた。やはりわかっていないらしい。わたしのクラスでの立場も、わたしが宇宙をどう思っているかも。
「宇宙って素敵だよね。いっぱい星が輝いてて、すごくきれい。満天の星空を見ると、あの光のほうに行ってみたいと思うんだ」
楽しそうなひかるを見て、わたしはいらいらしてきた。周りの刺すような視線にも気づかず、無遠慮に人の空間に踏み込んでくる。こういう手合いが一番いやなのだ。
「宇宙なんて大嫌いよ」
「え?」
「宇宙は光にみちてなんかいない。ほとんどが何もない暗闇の世界よ。宇宙にある物質のうち、目に見える物質は五パーセントほどしかない。約二十五パーセントは目に見えない正体不明の暗黒物質によって満たされている。暗黒物質の重力によってとどめられなければ銀河は形を保てないのよ」
わたしはひかるを指さした。
「残り約七十パーセントは斥力を起こす暗黒エネルギー。この暗黒エネルギーによって空間は膨張を続けている。宇宙はあなたが思っているようなきれいなところじゃない。夢も希望もない、暗闇だらけの世界なのよ!」
「はあ……」
彼女はぽかんと口を開けている。教室全体も静まりかえっている。空気が凍っている。ああ、また、やってしまった。
くすくすと笑いが起こった。あざけるような笑いだ。
「うわ、空気読めねー……」
「やっぱりネクララは宇宙人だ」
彼らは声を揃え、唱えた。
「宇宙人、宇宙人」
教室は、わたしを見下す目線で満ちていた。頭が重くなって、手の先に汗が滲み出て、震える。くらくらと視界が揺らぐうちに、一人の女子と目が合った。気弱そうな小柄な女子だ。わたしの唯一の友達だった、桜井小春。彼女はわたしを見るなり、怯えた顔をして、目を逸らした。
前は友達だったのに、今は彼女もわたしを攻撃する側だ。教室の中には敵しかいない。これは全てわたしが悪いのだ。居ても立ってもいられなくなり、机を叩いて教室の外に駆け出した。
「クララちゃん!?」
ひかるの声が聞こえたが、振り向かなかった。
海沿いの道を、歯を食いしばりながら走った。
わたしはいじめられていた。上履きには『宇宙人』、机には『ネクララ』と書かれ、何か言うたびにくすくすと笑われる。教科書やジャージを隠されたり、グループ作りで外されたりも日常茶飯事だ。入学してすぐに真冬に目をつけられた。一年の春には嫌がらせが始まって、一年以上この仕打ちを受け続けた。真冬は目立たないようにうまくやる。先生にばれず、大事にならないレベルの陰湿な嫌がらせを繰り返してきた。
標的になったのは、わたしが宇宙のことばかり話し、悪目立ちしていたからだ。いつも何も話さず、教室の隅っこで宇宙の本を読んでいる。何か話しかけられても、さっきみたいに宇宙の話で返してしまう。いつも黙っているのに急に長々とダークマターやブラックホールの話をするから、気味悪がられる。人気の動画や俳優、アニメの話を振られてもわからないし、恋の話もできない。友達もできず、一人ぼっちのわたしは、真冬の格好の的だった。宇宙の本を捨て、宇宙の話をやめない限り、ずっといじめは続くだろう。
それでもわたしは、また『ここ』に来てしまった。拓けた土地に、流線型の大きな建物がある。二年前、わたしが襲われたときに駆け込んだのと同じ建物だ。
科学館・アイザックハウス。都内でも有数の科学館だ。七階建ての中は吹き抜けとなった開放的な空間が広がり、一面ガラス張りの壁から光が差し込む。三階や五階にはロボットや生命科学の展示があるが、目指すのは一番上の七階だ。平日の午前中だから、ほとんど人はいない。がらんどうの建物を、エスカレーターに乗って上まで登っていく。
吹き抜けの空間の中にある、大きな球体が近づいてきた。アイザックハウス自慢のプラネタリウムだ。わたしはスタッフに年間パスポートを見せた。
「一時からの回はすぐ開演しますのでお席におつき下さい」
中に入ると、暗い半球の空間が広がっていた。ほかに客はいない。席につくと、頭上三百六十度に満天の星空が広がった。白い光があたりに散らばっている。
「今から百五十億年ほど前に起こったビッグバンとその後のインフレーションにより、宇宙の物質は作られました」
何百回も聞いた話だ。光の中で静かにしていると、気分が落ち着いてきた。ここだけがわたしの居場所だ。学校で嫌なことがあるたびに、ここに来てしまう。脱走を繰り返せば、余計に学校で浮いてしまうのに。わかっていても、離れることはできなかった。
「やっぱりクララちゃん、宇宙好きなんじゃないの?」
突然、耳元でこそこそと声がした。
「わっ……」
わたしは慌てて口を押さえる。転校生が、隣に座っていた。
「ほ、星海」
「えへへ、来ちゃった」
さっきと同じ能天気な声と、屈託ない笑顔がそこにはあった。
「なんでいるのよ」
「だって、話の途中だったからね。気になって、追ってきたんだ」
信じられない。あの凍った空気の中、わたしについて教室を出て、アイザックハウスまで来て、プラネタリウムに入ったとでもいうのか。
「……わたしと関わらないほうがいいわよ」
プラネタリウムの穏やかな音楽と解説が流れる中、こそこそ話す。
「なんで?」
「なんでって、わかったでしょう、わたしの扱いは。いじめられてるのよ、真冬に。悪目立ちすると、あなたまで標的になるわ」
「でもわたし、あの子達より、クララちゃんと仲良くなりたいなって思った」
「わたしと、仲良く?」
「クララちゃんと宇宙の話がしたいな」
「宇宙の話?」
何を言っているんだろう。わたしの話をわかっていないのか、それともわかったうえでなのか。ひかるは話を続けてきた。
「だってクララちゃん、宇宙が嫌いって言ったけど……」
星空が頭上で輝き、わたしたちを包み込んでいる。
「全然そうは思えなかったから」
「どういうことよ」
「だって、宇宙が嫌いな人は暗黒魔法の話をしないよ」
わたしは思わず言ってしまった。
「暗黒魔法じゃなくて、暗黒物質よ。ファンタジーの話じゃないわ。あと、暗黒エネルギーもあるし」
「そう。そんな話はしないよね?」
わたしは慌てて訂正したのが、恥ずかしくなった。だから宇宙人などと呼ばれてしまうのだ。でもひかるは笑うことも、宇宙人呼ばわりすることもなかった。
「それに、学校から逃げ出して、プラネタリウムなんかに来ない」
「それは……」
わたしはうまく返せなかった。
「いつもここにきてるの?」
「まあ、そうね」
「いつから?」
「二年前からよ」
「ずっとなんだね」
プラネタリウムの解説をBGMに、わたしはひかるに話していた。
二年前、小学六年生の頃。近くの倉庫街で火災があって、大きな騒ぎになった。
もともと学校で孤立しがちだったわたしは、いつも一人ぼっちで寂しく過ごしていた。今のようにいじめられることはなかったけど、仲の良い友達もいなかった。学校帰り、わたしは落ち込んで、あてもなく一人で街をさまよっていた。そしてたまたまこのアイザックハウスの前を通りかかり、引き寄せられるように中に入った。それは、ただの気まぐれだったのかもしれない。ただ、わたしは、変化を求めていた。寂しい自分の心を助けてくれるような何かを求めて、ふらふらとプラネタリウムの中に入った。
それが、宇宙との出会いになった。映し出された星空を見て、その光景のとりこになった。理屈で説明できるものではなく、ただただ魅了された。なぜだか、宇宙のことを考えていると落ち着いて、安心できたのだ。わたしはその日の内に宇宙の本を買い、動画やウェブサイトなども見まくった。クエーサー、ブラックホール、ダークマター。宇宙の姿や、成り立ちについて調べるうちに、その壮大さと美しさだけでなく、背景にある理論の巧みさや歴史の不思議さにも惹かれるようになっていった。
こんなに一つの物事にのめりこんだことはなかった。わたしは生まれて初めて自分の意思をもって、何かに熱中した。その日から、毎日の記憶は強く刻み込まれるようになった。でも、そうやって宇宙にはまり、宇宙のことを考えれば考えるほど……わたしは一人になっていったのだ。
学校では孤立し、真冬にいじめられ、小春も友達ではなくなった。そして、家でもーー。
「このように、私たちの宇宙は、奇跡のような確率でここに存在しているのです」
解説が終わり、星空も消えて明かりがつく。同時にわたしの話も終わった。
「やっぱりクララちゃん、宇宙のこと好きなんだ」
「……嫌いよ」
「なんで?」
そのとき、スマホが鳴った。お母さんからの着信だ。
「ちょっと待って」
わたしはひかるに言ったが、出るなり厳しい声がまくしたてる。
「先生から連絡が来ました。また逃げ出したって聞いたわよ!」
わたしは電話を耳から離し、やっと答える。
「お母さん」
「まさかまた、アイザックハウスに行ってるんじゃないでしょうね」
厳しい声が続く。
「これで何回目? こないだお父さんが呼び出されたばっかりじゃない。お母さんもお父さんも仕事で大切な時期なの。迷惑かけないで」
「その」
声が出てこない。当たり前だ。わたしが何を話しても、聞いてくれないのだから。
「小学校のころは聞き分けのいい子だったのに、アイザックハウスに行くようになってからこれよ。宇宙宇宙ってばかみたいに」
「わたし……」
「いいから早く学校に帰りなさい。とにかく、仕事の邪魔しないで!」
お母さんは電話を切った。
「クララちゃん」
ひかるが心配そうに見てきた。会話は聞こえていたようだ。
「今のでわかったでしょう。お母さん、わたしがいじめられてることに気づいてないの。話そうとしても、仕事仕事って言って聞かないのよ」
話していて、空しくなってきた。お母さんもお父さんも仕事に集中して、わたしのことは考えない。学校での生活に興味を持ちもしないのだ。
「わたしは学校にも家にも居場所がない。それは宇宙のせいなの」
「宇宙のせい?」
「そうよ。宇宙のことばかり考えているせいで、真冬にいじめられるし、お母さんにも嫌われる。それで、現実逃避でアイザックハウスに来ると、また学校で問題になって、家でも責められる。堂々巡りの、悪循環よ」
普段考えているけど、誰にも言わないことだった。だんだんと、頭が熱くなってくるのがわかる。なんで今日会ったばかりのひかるに、こんなことを言っているのだろう。
「こんなのもう止めたいのに。それでも宇宙のことを考えてしまうの。来たくないのに、アイザックハウスに、プラネタリウムに来てしまう。だめだってわかってても、わたしには他にないから、離れられないのよ。わたしにはこれしかないから……やめることなんて、忘れることなんてできない」
「クララちゃん」
宇宙なんて嫌いだ。考えるだけでも辛くなる。でも離れられない。そうしてもっと嫌いになる。話すほど苦しさが増してきて、わたしは胸が痛くなった。ひかるはポケットからハンカチを取り出した。そして、わたしの目を拭った。涙が出ていたみたいだ。
「だったら、これからまた……宇宙のこと、好きになれるといいね?」
わたしはその言葉を聞いて、かっとなった。
「簡単に言うんじゃないわよ!」
きっとそれは、ひかるの言うことが的を得ていたからだ。
わたしの本当の気持ちを、言い当てていたからだ。
「好きになれるわけないでしょう! いじめられているのよ!? 家でも学校でも嫌われているのよ!? 宇宙を好きって言って、皆に認められて……そんなふうにできたら、苦労はない! 人気者で、明るくて前向きな、あなたなんかには、わたしの気持ちは絶対にわからない!」
わたしはポケットからカードを取り出した。アイザックハウスの、年間パスポートだ。常設展はもちろん、プラネタリウムも見放題のお得なパスだ。
「もうこんな場所なんて来ない。宇宙なんて、大嫌いよ!」
わたしは年間パスポートを近くにあるゴミ箱に投げ入れた。そのまま、ひるがえしてエスカレーターを駆け下りる。いい機会だ。こんな場所、もう来るのはやめにしよう。そうすれば、きっといじめも終わる。お母さんも優しくなる。全て宇宙が悪いんだ。
でも、それはできなかった。ひかるが、後ろから肩に手をかけてきたからだ。
「何よ。まだ何かあるの」
「落とし物」
わたしが捨てた年間パスポートを差し出してくる。ゴミ箱の中から拾ってきたのか。
「いらないわよ、それはもう」
ひかるはそのカードを下げようとしない。
「クララちゃん。教室で、光は少ししかなくて、ほとんどは暗黒物質だって言ってたね」
「暗黒物質だけでなくて、暗黒エネルギーもあるわよ。普通の物質が五パーセント、暗黒物質は二十五パーセント、暗黒エネルギーは七十パーセント。宇宙は暗闇だらけなのよ」
この期に及んで、まだこんなことを言ってしまう。わたしはもっと自分が嫌になった。
「でも、私はこうも思ったんだ」
そんなわたしに、ひかるは微笑みかけてくる。
「少ししか光がないんだったら、それはもっと大切に思えるなって!」
相変わらず、何の屈託もない笑顔。
あまりのしつこさに、怒りを通り越して、呆れてしまった。ため息が出てくる。
「……なんであなたは、わたしにそんなに構うのよ」
ひかるは、転校してすぐ人気者になった。なのに嫌われ者のわたしに話しかけてきて、逃げ出したわたしを追ってプラネタリウムまでついてきた。挙げ句の果てに、何度も宇宙が好きかなんて問いかけてくる。なんで、わたしなんかにこんな。
「クララちゃんは、最後の希望だから」
「え?」
最後の希望?
「わたしは、クララちゃんを探してこの学校に来たんだ」
ひかるは何を言っているんだろう。よく考えたら、おかしいと思った。ひかるはわたしを見失ったはずなのに、なんでここがわかったのだろう。最初からわたしがアイザックハウスに入り浸っているのを知っていた? ひかるはカードを差し出してくる。そして言う。
「一緒に宇宙を守ろう?」
「なんのこと……」
そのとき、ガラス張りの向こうで、青空が引き裂かれた。