学校終わりに、わたしはアイザックハウスに連れていかれた。ガラス張りの建物の裏に回り、通用口から入る。ひかるが通行証を出してエレベーターで上がり、普段歩かない廊下を進んで扉の前に立った。『星海宇宙論研究室』と書いてある。科学館には大学や企業の研究室もあると聞いていたが、まさか自分が入るなんて。
扉を開けると、ごみごみした小さな事務所があった。机の上には英字の紙が散乱していて、ホワイトボードには数式や図形が書きなぐってある。白髪の壮年の男性が、本棚に並ぶ分厚い本を読んでうなっている。
「博士!」
「おお、ひかる君。クララ君を連れてきてくれたか」
星海博士は振り向いた。
「クララ君、改めて、アイザックルームへようこそ。これからよろしくな」
手を差し出してきたので、受け取って握手する。
「ここが全部なの?」
「そうだよ! これがアイザックルームの基地で、全メンバーだよ!」
ひかるが自慢げに言う。
「二人で、アナザーバースの侵略を防いできたの?」
「うん!」
アイザックルームは、星海博士を室長とする、対アナザーバース防衛組織だ。二年前のファーストバース襲撃を機に星海博士が結成した。目的はアナザーバースを撃退しながら、ファーストバースとの再戦に備えることだ。といっても、メンバーは星海博士とひかるの二人しかいない。
「戦えるのはひかるだけよね。どうやって防いできたの?」
博士は歯を食いしばり、拳を握りしめた。
「私は無力だ。能力がないから、ひかるくんのサポートしかできない」
頭を抱えて嘆く。
「アナザーバース理論を組み立て、監視システムを作り、オペレーションを行い、戦いの際はアナザーバースの攻略法を見つけ指示することしかできない!」
「博士がこれ全部作ってくれたんだ!」
ひかるは、スマートフォンのアプリを見せてくれた。
「このアプリも無力だ。ひかる君の知覚に連動して、シュレディンガー領域の範囲やアナザーバースの侵略率を計測、敵インタラクターの能力を分析……攻略法を導くことしかできないのだ」
指差したパソコンには、大量の数字やグラフが表示されている。
「すごい」
わたしは博士の技術と知恵に感心した。
「もしかしてこの本も?」
わたしは机の上の本を指差した。『インタラクター理論 第一巻』と表紙にある、辞書よりも分厚い本だ。
「うむ。五巻まで来たが、まだ理論をまとめきれていないのだ」
「いやいやすごすぎるわよ」
わたしが試しにめくってみると、目次には『アナザーバースの傾向十種類』『インタラクターの能力の特徴と有効範囲』『シュレディンガー領域の特徴』といった章立てがあり、理論が体系的にまとめられていた。
「完璧に理論化されている……」
「ひかる君が理解できたら、もっとアナザーバースとの戦いも楽になると思うのだが」
ひかるは本を持って満面の笑みで言った。
「この本、鍋敷きに便利なんだ!」
「無理そうね」
わたしは本をひかるから取り上げて棚にしまった。
「でも、こんな理論、どうやって調べたの? 色々試さないといけないと思うけど、インタラクターの力はアナザーバースが来たときしか使えないんでしょ?」
すると、ひかるが待ってましたとばかりにわたしの手を取った。
「よし、じゃあ、クララちゃんも一緒にやろう!」
「うむ。そうだ。理論より実践だな」
星海博士もうなずいている。
「何?」
「とりあえず、外に出よ!」
わたしの手を引っ張って、走り出した。
「ふう、このへんでいいかな」
アイザックハウスを出てしばらく走り、倉庫街の中ほどまで来たら、ひかるはわたしの手を離した。わたしは息が上がっていた。
「なんでそんなはりきってるのよ」
「まだはりきってないよ。これからが本番だよ」
ひかるは手を前に出した。
「インタラクション!」
すると、周りの景色が一瞬で変わった。倉庫街が草原になる。緑の草が広がり、人工物はなく、遠くに山が見える。スマホから声がする。女性のよく通る声だ。
「シュレディンガー領域発生。リハーサルバースと接続。占有率五パーセント。敵性インタラクターはいません」
「この声は誰?」
「自動解説AIのバースちゃんだよ。これも星海博士が作ったんだ」
ひかるはウインクする。星海博士の有能ぶりにも慣れたので、もう驚かなかった。
「でもいいの? こんな気軽にアナザーバースに来て。向こうのインタラクターが出てきて、戦いにならない?」
「大丈夫だ」
スマホから星海博士の声がした。
「ここは我々がリハーサルバースと呼んでいる宇宙だ。ひかる君のインタラクターの力によって、人はいないとわかっている。戦いは起こらないから、練習に使って構わない」
「そう、こんな感じにね」
ひかるの周りに、光の弾がいくつも現れた。
「ライト・レーザー!」
手を前に向けると、光線が一直線に飛んでいく。
「ディラック率、五パーセント。ファインマン半径、百メートル」
バースちゃんの声が響く。
「あれ。調子のいいときはもっと出るんだけどなあ」
ひかるは納得いかない様子だった。
「率とか半径ってのは何?」
「それはね、でかいほど偉いんだよ」
「わからないわ」
博士が口を挟んでくる。
「ディラック率は、フルパワーを百としたときの、インタラクターとしての力を使えている割合。ファインマン半径は、インタラクターの力が届く射程範囲だ」
「数値的に計測できるのね。どうやったら、それは大きくなるの?」
「証明はできていないが、宇宙との一体感が大事だと考えている」
「一体感……?」
「うむ。自分はこの宇宙の一部だ、この宇宙は自分のものだと、強く感じるほど、ディラック率やファインマン半径は大きくなる。今までの戦いから、私はそう推測している」
「よくわからないわね」
「まあ、クララちゃんもやってみなよ!」
肩をバンバンと叩かれる。
「やるから、黙ってなさいよ」
わたしも手を出して、見様見真似でやってみる。
「インタラクション!」
すると、体全体から、黒い塊が出てきた。暗黒物質だ。直径一メートルの球がゆがんだような黒い塊がたくさん現れ、周りの空間を埋め尽くしていく。
「ディラック率、二十パーセント。ファインマン半径……百キロメートル……」
まだ、出てくる。止まらない。
「千キロメートル……一万五千キロメートル!」
空全体が真っ黒になった。
「一万五千キロ! すごくでかいね」
ひかるが驚いているが、イメージがあるかは怪しい。一万五千キロは地球の直径以上だ。地球上ならば、どこでも暗黒物質を届かせられる。
「でも、ディラック率は二十パーセントくらいなのね」
「うむ。まだ、可能性を秘めているといえる」
それを引き出すのは、今は難しそうだ。わたしは宇宙なんて大嫌いで、滅びてほしいと思っている。一体感など生まれようもない。
「ひかる君は五パーセントだから、もっともっといけるぞ」
「えへへー。わたし、伸びしろある?」
ひかるは頭をかいた。彼女はほとんど力を出せていないようだ。
「ひかるの操る光子は、電磁気力が働く時に使われる粒子なの。だから、光を出すだけじゃなくて、電気や磁力を操ったり、電磁波で複雑な情報を伝えたりとかいろいろな応用ができるはずよ」
「うーん」
ひかるは首を傾げている。
「もっと言うと、宇宙の始まりでは電磁気力は弱い力と統合されていて、電弱相互作用と呼ばれる一つの力だった。今使える光子の力は、その一部に過ぎない可能性もあるわ」
「とりあえず、すごいってこと?」
「そういうことね……」
興味なさそうなひかるを見て、わたしは説明を諦めた。
「クララちゃんの、ダークインフェルノほどすごくはないけどね」
「ダークマターよ。勝手に物質名を変えないで」
「じゃなくて、クララちゃんの攻撃の技名! 黒いのいっぱい出すやつ!」
「勝手に技名をつけるんじゃないわよ」
「えー? かっこいいのに」
「嫌よ、そんな中二病みたいな」
ひかるの技の『ライト・レーザー』も、『光の光線』で意味が被っている。センスがない。
「え? クララちゃん、そういう技名とか好きそうなのに。宇宙が滅びればいいのに……とか言ってるじゃん」
「別にかっこつけで言ってるんじゃないの、それは! 真剣に悩んでるのよ!」
「あはは」
「もう」
ひかるにつかみかかったところで、博士の声がした。
「ははは、仲がいいな」
「うん!」
「よくないわよ」
わたしとひかるは同時に答えた。
わたしとひかるは放課後にアイザックハウスへ通い、インタラクターとしてアナザーバースとの戦いを続けた。そして、来るべきファーストバースとの戦いに備え、力を蓄えた。
学校でのわたしたちへの嫌がらせは続いた。教科書を隠され、足を引っ掛けられ、掃除を押し付けられた。でも、どんないじめを受けてもひかるはめげずに、授業中は机をくっつけてきて、休み時間はトイレについてきて、昼は弁当を食べさせてきた。わたしは、サンドイッチをコンビニで買うことは無くなった。気になるのは小春の動向だったが、彼女はたまにこちらを覗き見るくらいで、真冬に睨まれるとすごすごと引き下がってしまう。
放課後はアイザックルームに行き、インタラクションの練習と勉強をした。何度もリハーサルバースで暗黒物質を操るうち、気絶しないくらいの加減はできるようになった。ただ、ディラック率は二十パーセントより上がらなかったし、ファインマン半径も伸びなかった。操れる分量には限りがあり、その限界は練習によって伸ばすことはできないようだった。練習に並行してわたしはアナザーバース理論を五巻まで読み、博士がまとめた知識を一通り得た。よくあるアナザーバースのパターンがまとめられていたし、インタラクションの使い方もわかった。ひかるに内容を伝えようとしたが、いくら話してもわかってくれず、星海博士の苦労がわかった。
時折アナザーバースが襲ってきた。高次元から攻撃してくるハイディメンションバースもそのうちの一つだ。戦い自体も大変だったが、最中にひかるがやたらひっついてくるのも困りものだった。好きだの一目ぼれだの言ってきたのだ。嫌でも意識してしまう。
「疲れたわ……」
わたしは金曜日、ハードなインタラクター生活を終え、ぐったりとベッドに倒れた。学校で酷い扱いを受け、アイザックハウスで練習や戦いに挑み、くたくただ。
さすがに、明日は休みにしようと星海博士たちと決めていた。体力を蓄えなくては、いざというときに対応できないからだ。
「お疲れー」
ひかるから、メッセージが届いた。いつも付き合っているうちに夜遅くなる。今日こそ早く済ませて、寝よう。
「クララちゃんすごく頑張ってて、偉いよね」
「まったく、ほんとうよ」
疲れはピークだった。なんでこんなに頑張っているのだろう。宇宙を守っている実感なんてないし、危険なだけなのに。宇宙なんて、滅びてしまった方がいいのに。
「疲れもたまってるし、休まなきゃね」
「ええ。休息が必要ね」
「そんなクララちゃんのために、明日は一日一緒に遊ぼう!」
わたしはスマホをベッドに投げつけたくなった。
「あなた、話の流れわかってる? わたし疲れてるの。休みたいの」
「でも、わたし、クララちゃんとまだちゃんと遊んだことないし」
「なんで学校でもアイザックハウスでもひっついてくるのに、休みの日まで一緒にいなきゃいけないの」
「まあまあ、そんなつれないこと言わずにー」
「なんでわたしがわからずやみたいになるのよ」
「明日、お台場駅前に朝九時ね」
「行く流れにはなってないわよ」
「でもクララちゃん、いつも助けに来てくれるから」
「それは、戦闘中の緊急事態だから……今は違うの!」
「じゃあ、おやすみー」
「わたしは行かないからね」
ひかるは眠るスタンプを出してきた。終わりか。そう思ってしまったのがしゃくだった。