「クララちゃん……」
ひかるも目を開け、まぶしそうにしばたかせた。空には太陽が輝いている。その青空は、どんどん夜空を塗り替えていった。スマホから、アラームとバースちゃんの声がした。
「シュレディンガー領域発生! 範囲は、東京、千葉、神奈川といった南関東全域! 半径約五十キロメートル……過去最大の規模で広がっています!」
わたしはひかると目を見合わせた。
「すごいタイミングできちゃったね」
「ええ。しかも、過去最大の規模って」
スマホの画面を見た。マップには関東全域が映し出されているが、その中で半分くらいの領域を囲む赤い線ができている。その中が、シュレディンガー領域だ。今までの襲来では、範囲はせいぜいお台場の周辺だったから、桁違いの規模だ。
「敵性インタラクター、三か所で出現! 東京、千葉、神奈川に分散して、アナザーバース領域を拡大中」
地図の離れた場所に、複数の点が打たれた。そこから、徐々に赤く塗りつぶされた領域が広がっている。それはアナザーバースに支配された領域を示している。線の中が完全に赤くなったら、敵の侵略を許すことになる。
「アナザーバース侵略率、二十パーセント、三十パーセント! 領域拡大加速中です!」
もはや一刻の猶予もない。焦りが生じてくる。いまはわたしたちは東京の西端にいる。急いで、敵性インタラクターのいる都心まで戻らなければならない。
「まずいわね、早くしないと……」
「行こう、クララちゃん!」
ひかるはわたしの手をつかんだ。
「ソニックライト!」
体が輝き始めた。彼女のインタラクションを応用した、加速の技だ。
「え……それ、本当にやるの?」
「うん。クララちゃん。練習したよね?」
ひかるは笑った。わたしは不安になる。
「……ソ、ソニックライトって名前おかしいわよ。音速の光って意味じゃない。音速は秒速三百四十メートル、光速は秒速三十万キロメートルで全然桁が違うし、光速はどんなときも一定で……」
「行くよっ!」
そして、彼女は飛び立つ。
「きゃあああ」
わたしはそれに巻き込まれ、宙を舞った。
景色が瞬くように過ぎ去った。インタラクターはシュレディンガー領域だと通常より丈夫になる。光の速さで動いても、体は壊れない。
すぐに千代田区・国会議事堂前に着いた。真昼の青空が広がり、人も車も動かない。シュレディンガー領域を認知し、その中で動けるのは、インタラクターだけだ。なおインタラクターは、他の人間に知覚を分け与えることもできる。アイザックルームの星海博士と話せるのはそのためだ。
「いた、インタラクター!」
ひかるが交差点のど真ん中を指さした。分厚い防護服を着た人が、道路の真ん中に立っていた。ガスマスクをして、ライフルを構えている。領域内で動けるのはアナザーバースからの刺客だけだ。彼は銃をこちらに向けた。
「よけて!」
ひかるがわたしの手をつかむが遅い。わたしは手を前に出し、ダークマターで守ろうとする。しかし、敵の銃弾がわたしたちを襲うことはなかった。
「あれ?」
手痛い反撃を食らったと思ったわたしたちは、拍子抜けした。不気味なことに、敵は銃を撃って来ない。
「……よくわからないけど、やっちゃえ!」
ひかるが言った。
「指図するんじゃないわよ」
ちょっと頭に来たが、ひかるに捕まっていないほうの手を前に出した。
「インタラクション」
黒い塊が噴き出した。もちろん、気絶しない程度にセーブした分量だ。交差点を埋め尽くす程度の量が飛び散る。防護服を着たインタラクターは跡形もなくなった。
「まず、一か所ね」
「よし、次!」
わたしが手を出すと、ひかるが握った。風景が通り過ぎる。
アイザックハウスでの連日の特訓で、星海博士のアイデアをもとに、連携を何度も練習していた。ひかるは機動力があるけれど威力には欠ける。わたしは物量はあるけれど、機動力はない。そこで、ひかるが高速移動でわたしを引き連れ、敵の近くでわたしが暗黒物質を使うことにした。今回のように、複数の戦場がある場合は効果絶大だ。神奈川県の赤レンガ倉庫、千葉県の犬吠埼岬に行く。防護服とマスクのインタラクターが銃を撃ってくるが、弾丸は発射されない。ダークマターで倒す。
「はあ……これで全員を撃退できたわね」
わたしは、胸をなでおろした。連携はうまくいった。複数の場所に現れる敵は珍しかったが、どうにか切り抜けられた。
「バースちゃん、これで勝ちだね!?」
「いいえ」
スマホから声がした。
「敵性インタラクター二体、再度出現しています! 東京の議事堂前、神奈川の赤レンガ倉庫前です!」
「うそお!」
地図には赤い点が現れ、敵の領域が現れた。しかも、さっき倒したはずなのに、範囲は広がっている。
「もうアナザーバース侵食率が八十パーセント、後がないわ!」
このままではシュレディンガー領域がアナザーバースに完全に占有されてしまう。そんな中、バースちゃんの声が天啓のように響いた。
「敵のインタラクションを、タキオンを使って過去に情報を送る能力と推定。アナザーバースを、タキオンバースと命名しました!」
「たきおん?」
ひかるは首をかしげている。理解してもらえなさそうだったが、わたしは一応言った。
「超光速で動く架空の粒子よ。因果関係を書き換えられると言われているわね」
「インガ?」
「原因の前に結果があるとか、未来から過去に移動するとか、そういう感じね」
「タイムマシンだ!」
ひかるは目を輝かせた。
「厳密には違うけど、少し似てるわ。タキオンは過去に向かって動くことができる」
「そうだ。敵は銃からタキオンを発射し、過去に情報を送っている。それを使い、過去から現在を書き換えているのだ」
星海博士が説明した。
「確かに、わたしたちが戦っているときに、何度も銃を撃っていた。何のことかと思っていたけど、それがインタラクションを使った攻撃だと考えるのが自然ね」
星海博士が言うと、スマホに侵食率の時間経過のグラフが表示された。どんどん上がっていっている。
「私たちには、敵を倒した記憶がある。でも、過去のデータを見返すと、アナザーバース侵食率は上がり続けている。客観的な記録は書き換わっているが、主観的な記憶はそのままだ。まだアナザーバースに完全には侵食されていないからだろう」
「だから、倒したつもりがまだ生きてるってことになるのね」
ひかるは手を上げて聞く。
「よくわからないけど、そんなやつをどうやってやっつけるの?」
タキオンを使い、因果関係を崩壊させる敵。倒した過去を書き換えて、なかったことにされてしまう。そんな敵に、とどめを刺すことはできるのだろうか。
「敵の武器を逆に利用する。銃を奪い、こちらも情報を過去に送ることで、事実をさらに上書きするんだ」
星海博士が、地図上の東京都多摩湖付近を指さした。
「この時刻と位置に向かって、タキオンを飛ばす。敵の出現時に情報を与え、過去の二人に倒してもらうのだ」
「やっぱり、タイムマシンだ!」
「違うけど、そういうことにしましょう。さらに上書きされるかもしれないけど、過去のわたしたちがまたやり返す。繰り返して、どっちが最後に上書きをするかの我慢比べになるけど……そこは過去のわたしたちを信じるしかないわね」
「過去のわたしたち……」
星空の下で、二人で話していたひかるとわたし。キスしてほしいと、ひかるは言った。それにわたしはまだ答えられていない。答えるなら、戦いの後だ。
「じゃあ、なんとかなる気がする!」
ひかるはガッツポーズをした。
「すごい自信ね」
でもなぜか、わたしはそれを信じることができた。
国会議事堂の前には、銃を持ったインタラクターがいる。あれを奪い、過去に情報を送る。そして、過去のわたしたちが彼らの勝利する未来を塗り替えるのだ。敵はこちらを向く。ひかるが銃を奪う作戦だが、相手も能力を逆手にとられたらまずいことはわかっているはずだ。
「クララちゃん、わたしは突っ込みたいから、その前にもろもろなんとかして!」
「何その雑な指示!」
「えへへ」
ひかるは、もう一人でなんとかしようとは思っていないようだ。自分の身を捨てて後は任せた、なんていうことはない。だったら、彼女を助けるまでだ。わたし自身のために。
「なんとかするから、わたしを助けなさい!」
「うん!」
わたしもひかるを頼る。助けを求める。助けられるのを待っていたりなんかしない。自分から、必要だと言っていく。わたしはひかるに応えるし、ひかるはわたしに応えるのだ。
「これで、うまいことやるのよ!」
暗黒物質が、周りに霧のように広がり、敵のインタラクターにまとわりついた。一瞬、動きが止まる。
「今だ!」
ひかるが突っ込んだ。一瞬止まった敵の手から、銃を奪い取ることに成功した。西側……わたしたちがいた方向に向かって、銃を撃った。光線や銃弾は見えない。本当に発射されたのだろうか?
そう思った次の瞬間、頭に衝撃が走った。かき氷にあたったときの感覚を何十倍にも強めたような痛みだ。気が遠くなり、頭にいろんなイメージが浮かんでくる。ひかるとともに、防護服を着たインタラクターに立ち向かうイメージだ。東京で、神奈川で、千葉で、ひかるが敵に突っ込み、わたしは暗黒物質を操り、戦う。ひかると二人で、声を交わし合い、目線を送り合い、ともに敵に向かっていく。敵から銃を奪い、過去に情報を送る。その光景はまた、最初から繰り返される。
これは、繰り返し行われた戦いの記憶だ。ひかるがタキオンを放ったことにより、過去の自分たちが情報を受け取り、事実を書き換えるべく戦っているのだ。情報を持って再び敵に立ち向かう。また敵に過去を書き換えられる。こちらも過去を書き換え返す。その記憶が、頭の中に蓄積してきているのだ。星海博士の推測通り、過去の書き換えで客観的な記録は変わっても、主観的な記憶は引き継がれるらしい。
何十回、何百回も戦う。幾度も敵に過去を書き換えられ、くじけそうになりながらも、ひかると手を取り合い、過去を書き換え返す。その記憶がどんどん流れ込んできて、気が狂いそうになる。情報の洪水に、頭も心も耐えられない。
「ひかる!」
思わずわたしは叫んだ。
「クララちゃん!」
ひかるも頭を押さえながら、こちらを向いた。ひかるも耐えているのだ。何百回もの戦いの記憶の洪水に。わたしはひかるに駆け寄って、手を取り合った。苦しいが、耐えなければ勝利はない。
「ぐあああ!」
防護服を着たインタラクターが、苦しんで倒れた。ガスマスクを取った。彼も情報の奔流に耐えているのだろう。その下に、顔が見えた。驚いたことに彼は、日本人の普通の少年だった。しかし次の瞬間、彼の顔が全く別のものに変わる。少女となり、老人となり、外国人になる。どんどん別の人間に書き換わっていく。
記憶の洪水にまみれながら、考えた。タキオンバースでは、自由に過去を書き換えることができるのだろう。自分の生涯は変えたい放題だ。でも、そうなったら、何が自分で、どこからどこまでが自分になるのだろう。
彼はこちらに手を伸ばしてきた。ひかるの顔は変わらない。当然、わたしもだ。彼らは、これを求めて侵略してきたのかもしれないと思った。自分の過去が書き換わることのない宇宙を。自分が、確かに自分である宇宙を。
わたしは、ひかると手を取り合って情報の濁流に耐えた。ひかるとともに戦った、何百回もの記憶を感じ取る。そして最後に、わたしが、ひかると抱き合いながら、フルパワーで暗黒物質を放つ記憶が流れ込んできた。それとともに、インタラクターは再び叫んだ。
「ぐあああ!」
そして、彼の姿は、すうっと消えて言った。記憶の更新は、終わった。わたしは、ひかると手の指を絡め合いながら、見つめ合っていた。お互いはあはあと息を荒げている。
「アナザーバース侵食率ゼロパーセント! 敵性インタラクターの撤退を確認! タキオンバース、撃退成功しました!」
バースちゃんの声が響く。
「わたしたち、何百回も戦ったのね」
「ずっと、ずっと、一緒に戦ったんだね……」
わたしの頭の中は、ひかるとともにいた記憶でいっぱいになった。過ごした時間は、誰よりも長い。計り切れない時間、彼女とともに戦った。苦難に耐え、乗り越え、ついにタキオンバースを撃退したのだ。その中で、わたしの気持ちははっきりした。
ひかるへの思いが、恋なのか友情なのかわからない……なんてことはもうない。
今こそ、湖での続きをするときだ。
「ひかる、わたし、答えるわ……」
わたしは、ひかるに顔を近づけた。
口と口が触れあう。ひかるの熱を、水分を、柔らかさを、直に感じる。わたしたちは、強く、唇を押し付け合った。
長いこと、そうしていた。でも、ともにいた時間よりは、ずっとずっと短いだろう。
唇が離れたとき、ひかるは、うっとりとした表情を浮かべていた。
「これが、わたしの答えよ」
その顔に向かって、わたしは言った。
「うん」
「わたしはあなたを必要としてるし、助けてほしい。あなたがわたしを必要とするなら、助けたい。あなたといると、別の自分に変われるから……これからも、ずっとあなたと一緒にいたい」
「うん」
「わたしは、あなたが……好き」
「うん!」
ひかるは、笑った。
そのときピコンとスマホから音がした。わたしとひかるが画面を見ると、そこには『FIRST VERSE 7 DAYS LATER』と映し出されている。
「ファーストバース」
わたしは息を呑んだ。ひかるも、神妙な表情をする。インタラクターの能力で、以前に襲来したアナザーバースなら判別でき、だいたいの日時もわかる。二年前の火災を引き起こした、最初のアナザーバース。ひかるがインタラクターとして目覚め、戦い……両親を失った因縁の宇宙が、一週間後に襲ってくるのだ。
「いよいよ、くるの、ね……」
「クララちゃん!?」
最後に、フルパワーのインタラクションを行ったからだろう。意識が遠のき、力が抜けて、立っていられなくなった。倒れるところを、ひかるに抱き留められ、気を失った。
最後に見たひかるは、とても優しい目をしていた――。