リュミエール王国の王宮は、季節の移り変わりとともに光をその身に纏い、今朝も大広間には柔らかな朝陽が差し込んでいた。その光は大理石の床に金色の模様を描き、重厚で華やかな天井画を一層引き立てている。
広間の一角、深紅の絨毯の上に立つ青年が一人。彼こそが、王国の第一王子、アコードであった。十八歳の彼はすでに王位継承者としての風格を身につけ、端正な横顔に重い責任感を滲ませていた。
けれど、その肩にのしかかるのは王家の宿命だけではない。今朝、彼の心には妙な重苦しさが広がっていた。
(今日、俺の婚約者が決まる……)
思わず、ため息が漏れる。
王家とディオール公爵家の縁談――それはこの国の安定と繁栄を約束する、極めて重大な結びつきだ。ディオール家は広大な領地を有し、資源も経済力も王国の柱となる存在。王子であるアコードにとって、彼女との婚約は避けて通れぬ運命だった。
しかし、頭の隅ではどうしても納得できない感情が渦巻いている。
(よりによって、まだ四歳の幼子と……本当にこれが正しいのか?)
年齢差は十四。政略結婚が常識のこの世界でも、さすがに四歳児との婚約は異例だ。
重い空気が漂う中、広間の扉が静かに開かれる。その音が、アコードの胸に緊張を走らせた。
扉の奥から現れたのは、威厳に満ちたディオール公爵夫妻と、その後ろに控えた小さな少女だった。金色の髪がふんわりと揺れ、淡い水色のドレスに包まれた幼い姿――これが、彼の婚約者となるセリカである。
「アコード王子、ディオール公爵家の令嬢、セリカ様をご紹介いたします。」
王宮の執事が恭しく声を張る。アコードは一瞬、どう言葉を返せば良いのか戸惑った。
彼はこれまで数多の政務や社交の場を経験してきたが、これほどまでに言葉を選ぶのに困る相手は初めてだった。
セリカは、小さな手でドレスの裾をつまみ、きちんとしたお辞儀を見せる。
「初めまして、アコード王子様。」
透き通る声。大きな青い瞳がアコードを見上げている。
彼女の姿は愛らしく、その仕草ひとつひとつが完璧な淑女のものだったが、やはり幼い少女であることに変わりはない。
「初めまして、セリカ嬢。」
アコードは膝を折り、できるだけ彼女の目線に合わせて優しく声をかけた。だが、その微笑みの裏で、自分の中にどす黒い不安がうねり始めるのを感じていた。
(この子と本当に結婚するのか……?)
周囲の大人たちは微笑み、ディオール公爵も誇らしげに娘を見守る。
だが、アコードの心のなかには“王子”としての責任と“ひとりの青年”としての戸惑いがせめぎ合っていた。
「結婚は、セリカが十六歳になった時。私はそのとき三十歳を過ぎている……本当に、これが彼女の幸せなのか?」
アコードは、執事の案内でセリカとふたりきりの面会を許された。
王宮の静かな応接間に、少しばかりの緊張感が漂う。セリカはまだ人見知りをする年頃らしく、時折彼をちらりと見上げては、すぐに視線を伏せた。
「セリカ嬢は、お花が好きなのですか?」
「はい……お庭のお花を、見るのが好きです。」
小さな声で控えめに答えるセリカ。その純粋な瞳に、アコードは思わず微笑む。
「この王宮の庭園には、珍しい花がたくさんあるんだ。今度、一緒に見に行きませんか?」
「……はい。」
まだ打ち解けきれない空気の中、アコードは少しずつセリカの心に寄り添おうとした。
数日後、二人は王宮庭園での散歩に出かけることとなった。春風が優しく吹き抜け、色とりどりの花々が揺れている。セリカは慎重な足取りで花壇に近づき、目を輝かせて花を見つめていた。
「このお花、すごくきれいですね。でも、もっといろいろな花があったら、もっと素敵になると思います。」
年齢には不釣り合いな観察眼。アコードは、その言葉に驚きと同時に新鮮な感動を覚えた。
「君の言う通りだね。もし君が望むなら、庭師に頼んでもっと色とりどりの花を植えてもらおう。」
「本当ですか?」
「もちろん。君のような素敵なお嬢様が王宮に来てくれて、みんな嬉しいんだ。」
セリカは初めて少しだけ無邪気な笑顔を見せた。その表情が、アコードの胸にぽっと温かな火を灯す。
その後も面会は続き、セリカは年齢に似合わぬ礼儀正しさや、知識の深さを見せ始める。
彼女の純粋さや好奇心に触れるうちに、アコードの中にあった「政略結婚への違和感」は、少しずつ別の感情に姿を変えていった。
(この子は、ただの政治の駒ではない。ひとりの人間として、もっと自由で、豊かな未来を歩むべき存在なのかもしれない……)
面会を重ねるごとに、アコードは自分の心の変化に気づき始める。
しかし、彼の肩には依然として王家の宿命と責任が重くのしかかっていた。
「彼女が十六歳になるとき、私は本当に彼女を幸せにできるのだろうか?」
幼い少女に託された未来。その重さと、それを抱えきれない自分自身への葛藤。
アコードはこの時まだ、その疑問の答えを見つけられずにいた。
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