リュミエール王国の王宮庭園は、春の訪れとともに色とりどりの花が咲き乱れ、鳥たちのさえずりが静寂を優しく満たしていた。広大な庭園をゆっくり歩く二人の姿――それは第一王子アコードと、幼い婚約者セリカだった。
初めて庭園を歩いた日、アコードはどこかぎこちない気持ちだった。自分の隣を歩く小さな少女が、今後の人生を結ぶはずの相手だとは、どうしても実感が持てなかったからだ。しかし、そんな思いは次第に薄れていくことになる。
セリカは季節の花々に興味を持ち、屈託なくアコードに話しかける。
「アコード様、このお花は何ていう名前ですか?」
「それはラナンキュラスだよ。春に咲く花で、王宮の庭師たちが毎年大切に育てている。」
「わあ……。たくさんの色があって、見ているだけで楽しくなります。」
セリカは目を輝かせ、色鮮やかな花々に手を伸ばす。その無邪気な仕草に、アコードは思わず微笑んだ。しかし、その笑顔の奥には複雑な感情も渦巻いていた。
(彼女はまだ四歳の子供だ。それなのに、僕は――)
セリカの純粋な好奇心は、花や動物だけにとどまらなかった。ある日のこと、二人で東屋に腰掛けていると、セリカがふと真剣な顔で問いかけてきた。
「アコード様、領地の税金って、どうやって決めているんですか?」
一瞬、アコードは耳を疑った。自分の妹でさえ、こんな話題を振ってきたことはない。だが、セリカは瞳をまっすぐに向けていた。
「税金はね……領地や国の運営に必要なお金を、民から集めるんだよ。用途は領地によって少し違って、農業を支援したり、町の安全を守ったりするのに使われることもある。」
「領主さまが自分で決めるんですか?」
「そうだ。けれど、その使い方には公平さや正しさが必要なんだ。」
「……難しそう。でも、みんなが幸せになる使い方を選ぶのが一番ですね。」
アコードは驚いた。まだ幼いはずのセリカが、国の仕組みや領地経営にまで関心を示している。その知性と真剣な表情に、思わず心を打たれる。
(この子は、やはりただの幼い少女ではない……)
季節が進み、二人は庭園だけでなく、王宮の図書室を訪れるようになった。歴史書や領地の記録に興味を示すセリカは、分からない文字や単語があるたびにアコードに質問する。最初は子供向けの本を読んでいたのに、いつの間にか難しい本を開くようになった。
「アコード様、この本に書いてあること、昔は領主がもっと自由に自分の領地を動かしていたみたいです。今と全然違いますね。」
「昔は封建的な社会だったから、領主ごとにやり方も違った。でも今は、国全体で調和を大切にしているんだ。」
「でも、その土地のことを一番よく知っているのは、やっぱり領主さまなんじゃないでしょうか?中央の決まりだけに従うより、自由があった方がいいこともあるのかも……」
セリカの意見は、大人顔負けの鋭さだった。アコードは彼女の話に真剣に耳を傾け、現実的な課題も交えながら丁寧に説明した。
「自由には責任が伴うんだ。けれど、君の考えは正しいと思うよ。将来、君が領地の運営に関わることがあれば、今日の考えを大切にしてほしい。」
「はい、がんばります!」
セリカはにこりと微笑む。まだ小さな手で本を抱えながら、その姿はどこか誇らしげだった。
こうして逢瀬を重ねるうちに、アコードの中でセリカへの感情は大きく変化していく。彼女は政治の駒ではなく、未来を自分で切り開ける強い意志を持った一人の人間だ。
会話を重ねるごとに、年齢差や政略といった壁が少しずつ消えていく感覚があった。
だが――
(本当に、僕はこの子の隣にいていいのだろうか……)
アコードの心には、どうしても消せない影が残る。セリカの知性と純粋さに惹かれれば惹かれるほど、自分が彼女の未来を縛ってしまうのではという罪悪感が膨らんでいく。
「私は彼女を幸せにできるのだろうか。十六歳の彼女の隣に、三十歳を超えた僕がいて、本当に彼女は笑顔でいられるのか?」
夜、執務室で窓の外に目をやるアコード。月の光が差し込むなか、彼はただ黙ってセリカのことを考えていた。彼女の純粋なまなざし、難しい話題にも自信をもって臨む聡明さ、そして子供らしい無邪気な笑顔――そのすべてが、彼の心を締め付ける。
(この子が自分で未来を選び、羽ばたくために、僕ができることは何だろう)
庭園に咲く花々が春風に揺れていた。
その美しさは、まるでセリカがこれから歩むであろう未来のように輝いている。
アコードは悩み続ける――自分の感情と、彼女の幸せと、王家の責任と。
逢瀬を重ねるごとに彼の中で芽生えた新たな想いは、やがて大きな決断を導くきっかけとなるのだった。
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