リュミエール王国の王宮では、季節が進むにつれて空気が徐々に張り詰めてきた。外では夏の陽射しが燦々と降り注いでいるというのに、アコード王子の心はどこか曇りがちだった。
王子の部屋は、代々の王族が使ってきたという重厚な調度品に囲まれている。窓辺の椅子に腰掛け、アコードはふと窓の外を見やった。そこには庭園で楽しそうに遊ぶセリカの姿があった。彼女は侍女とともに花壇の花を眺め、無邪気に笑っている。その様子はまさに幼い令嬢であり、誰もが愛すべき存在だった。
しかし、アコードの胸にはどうしても晴れない影があった。政略結婚という責任を理解しているからこそ、セリカに対する感情は複雑だった。
(彼女を“守るべき存在”として見るだけで、本当にいいのだろうか)
セリカと婚約してから幾度も面会を重ねてきた。最初はまだ幼く、言葉もたどたどしい少女だったが、年を追うごとに彼女の知性と意志は目を見張るものになっていった。
庭園での逢瀬、図書館での語らい、時に王宮の儀式で見せる凛とした態度。
セリカはただ可愛らしいだけの少女ではなかった。将来、領地を担う公爵令嬢としての自覚を身につけ、誰よりも周囲を観察し、何より自分の頭で考えることをやめなかった。
そんな彼女の成長を、アコードは誇りに思っていた。だが同時に、彼の心の中には次第にある疑問が芽生え始めていた。
(本当に、彼女の未来はこのままでいいのか――)
政略婚約は王家とディオール公爵家双方にとって大きな意味を持つ。だが、アコードは次第にその重さを、国と家のためだけでなく、彼女自身の人生に対する責任として感じるようになっていった。
彼女が成長していく姿を見るたびに、愛おしさと共に罪悪感が湧き上がる。
(このまま僕が隣にいることで、彼女の自由を奪ってしまうのではないか。彼女はまだ未来を選ぶ権利がある。僕との婚約がその芽を摘んでしまうのではないか)
そんな自問自答が夜ごと彼を苦しめた。
執務机の上には、未処理の公文書や王室からの手紙が山積みになっている。だが、どんなに仕事に没頭しても、セリカのことが頭から離れなかった。
「彼女にとって、僕との婚約は本当に幸せなのだろうか」
ある晩、アコードは机の上で深く頭を抱えていた。隣には、政務官として仕えてきた老執事が静かに立っている。
老執事は、王子の表情から何かを察したようだった。
「アコード様、今宵もお悩みのご様子ですな」
「……わかるのかい?」
「お顔を見れば、少しは。お嬢様(セリカ様)のことですかな?」
アコードはしばらく沈黙し、やがて小さくうなずいた。
「彼女のことを、誰よりも大切に思っている。けれど、このままでは彼女の未来を縛ってしまう気がするんだ」
老執事は温かく微笑む。
「ご自分の幸せより、お嬢様の未来を優先なさるとは、アコード様はやはりお優しい」
「優しいというより、弱いだけかもしれないよ。……父上に相談しようと思う」
「それがよろしいかと存じます」
翌日、アコードは決意を胸に、王宮奥の謁見の間へと向かった。
父である国王は、厳格であると同時に、息子の成長を静かに見守る人だった。
アコードは深く頭を下げ、自分の心情と、セリカの幸せを第一に考えた結果として「婚約を再考したい」と申し出た。
国王は静かに彼の言葉を聞いた後、重々しく口を開いた。
「セリカ嬢は確かに幼い。お前の気持ちは理解できる。だが、政略的にも、この婚約は国の安定にとって重要なものだ」
「はい、重々承知しております。ですが……僕は、彼女にはもっと自由に、人生を選び取る権利があると考えるようになりました」
「お前はディオール公爵家との信頼が損なわれぬよう、その責任を背負えるか?」
「……はい。どのような結果になろうとも、僕が責任を負います」
国王はしばらく黙考し、やがて静かにうなずいた。
「お前の決断を尊重しよう。人の心こそが国の礎。政略で縛るばかりが、国を強くする道ではない」
アコードは胸の奥に温かなものが広がるのを感じた。
父は自分を見守ってくれていた。
そして何より、自分の決意が間違いではなかったと背中を押された気がした。
だが、最後に大きな山が残っている。それは、セリカ本人に自分の思いを伝えることだった。
彼女の未来を思うからこそ、伝えるべき真実がある。
数日後、アコードはディオール公爵家へと使者を送り、正式な面会を申し込んだ。
その夜、アコードはひとり、王宮のテラスで星空を見上げていた。
胸にあるのは、別れの寂しさと、彼女の幸福を願う強い祈り。
(セリカ……君が本当の意味で幸せになれるように。たとえ僕が隣にいなくても、君の未来を縛りたくない)
自分の決断が彼女にどう響くのか――。
アコードは不安を抱えながらも、彼女の幸せを最優先に考え、次なる一歩へと進もうとしていた。
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