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第5話 別れの決意と新しい絆


 夏も終わりに近づいた頃、王都に涼やかな風が吹き始めた。アコード王子は、ディオール公爵家の客間で静かに待っていた。今日は、どうしても自分の口から伝えたいことがあった。

 心に決めてから数日間、何度も言葉を練り直し、夜も眠れぬほど自問自答を繰り返した。それでも、彼の胸の奥には迷いが残っていた。けれど、セリカのため――その幸せのために、自分が決めた選択を誠意をもって伝えなければならない。


 応接間の扉が開く。小さな足音が絨毯の上を歩いてくる。その先に現れたのは、淡いドレスに身を包んだ幼い令嬢、セリカだった。四歳という年齢には似つかわしくない落ち着きと、知的なまなざし。その凛とした佇まいに、アコードは胸が少しだけ痛んだ。


「こんにちは、アコード殿下」


「こんにちは、セリカ嬢。今日は、わざわざ時間をもらってありがとう」


 セリカは静かにうなずき、彼の正面の椅子に座った。まだ身長が低く、椅子の縁に足が届かない。その様子が子供らしく愛らしいのに、彼女が見せる大人びた仕草と受け答えは、アコードの決意を何度も揺らしそうになる。


 侍女が紅茶とお菓子を運び、二人だけになると、アコードは改めて深く息を吸い込んだ。


「セリカ、今日は君に、大切な話があるんだ」


「……はい」


 彼女の瞳が、不安と期待の色を帯びてアコードを見つめる。その視線から目をそらさぬように、彼は自分の心に正直であろうと努めた。


「君と初めて出会ったとき、僕は“王子”としての責任に戸惑っていた。けれど、君と何度も会って話をするうちに、君の知性や優しさ、強さに何度も驚かされ、惹かれるようになった」


 セリカは静かに耳を傾けている。アコードはゆっくりと言葉を継いだ。


「だけど、僕は考えるようになったんだ。君はとても聡明で、たくさんの可能性を持っている。君がこれからどんな大人になるのか、どんな未来を選ぶのか……その自由を、僕の隣にいることで縛ってしまうのではないか、と」


「……私が、子供だから?」


「それもある。だけどそれ以上に、君には君だけの未来を選ぶ権利がある。僕との婚約が、君の自由を奪うことになるなら、それは本意じゃないんだ」


 しばらく沈黙が流れた。セリカは小さく首をかしげ、少しだけ口元を尖らせた。


「殿下は、私のことが嫌いになったんですか?」


 その問いに、アコードは思わず微笑みを浮かべた。


「まさか。むしろ、君が好きだからこそだ。大切な人だから、幸せになってほしいんだよ。僕が君の未来を決める存在になりたくない。君が本当に望む道を、自分で選んでほしい」


 セリカは何も言わず、窓の外の青空を見つめた。庭の木々が風に揺れ、陽射しが彼女の頬に落ちる。その横顔は年齢以上に大人びて見えた。


 しばらくして、セリカが静かに口を開いた。


「……殿下は、とても優しい方ですね。でも、私は今まで婚約のことを深く考えたことがありませんでした。結婚なんて、遠い未来のことだと思っていたから。けれど、殿下の言葉で、私も自分の未来について考えてみたくなりました」


「それでいい。君がどんな未来を選んでも、僕は応援するよ」


 セリカは彼の顔をじっと見て、ほんの少しだけ微笑んだ。その笑顔に、アコードの胸の痛みが少しだけ和らぐ。


「殿下は、これからも私のことを見守ってくれますか?」


「もちろん。君が困ったときは、いつでも力になる。君が自分の道を選んで歩んでいくのを、心から応援したい」


 静かな時間が流れた。幼い少女と、青年王子――二人の間にはもう“婚約”という枠組みを超えた新たな絆が生まれていた。


「殿下も、ご自分の未来を選んでくださいね。王子様だって、きっと色々悩むことがあるんだと思います。……私は殿下の幸せも、願っています」


「ありがとう、セリカ。君がそう言ってくれて、本当に嬉しい」


 二人は最後に、そっと手を重ね合った。まだ小さなセリカの手は温かく、しかしどこかしっかりとした力強さを感じさせた。


 別れの時は、涙でもなく、悲しみでもなく、ただお互いの新しい未来を信じる静かな希望の時間だった。


 アコードは王宮に戻る途中、馬車の窓から流れる景色をぼんやりと眺めていた。胸の奥に寂しさはあったが、どこか晴れやかだった。セリカが自分の道を選び、歩み出す姿を、きっとまたどこかで見ることができる――そう信じていた。


 それからの日々、セリカはより一層勉学に励み、ディオール公爵家の人々からも一目置かれる存在となった。王宮でも、アコードが彼女の成長を噂で聞くたびに、心から誇らしい気持ちになった。


 二人は“婚約者”ではなくなった。しかし、お互いの幸せと未来を心から願い合う、かけがえのない友となったのだった。


 王国の空は澄み渡り、新たな季節の始まりを告げる風が吹いていた。

 それは、アコードとセリカ、二人がそれぞれ自分の人生を歩き始める、希望に満ちた新しい章の始まりだった。



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