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第6話 自由への扉



リュミエール王国の王宮――

その壮麗な回廊に、まだ幼いセリカ・ディオールの小さな足音が静かに響いた。アコード王子の前に進み出たセリカは、堂々とその場に立つ。周囲には王家の重臣や公爵家の使者たちが居並び、皆が固唾を呑んで二人のやりとりを見守っている。


アコード王子が、やや硬い表情で口を開いた。


「セリカ嬢、この度の婚約は、国の事情により解消せざるを得ない。どうかご理解いただきたい。」


その声には、責任感と申し訳なさ、そして痛みがにじんでいた。しかし、セリカは動じなかった。その目は澄んで落ち着き、ほんのわずかに口元が緩む。


「かしこまりました。王国のご判断に従います。」


静かな声には、幼さを感じさせない凛とした響きがあった。

重臣たちは一様に目を見張る。

幼い少女が、これほどまでに冷静かつ毅然とした態度を見せるとは思いもしなかったのだ。


婚約破棄――それは貴族の令嬢にとって、時に人生を大きく左右する出来事だ。名誉や家の立場に傷がつくこともある。ましてや、リュミエール王家との婚約は、ディオール公爵家にとっても名誉の象徴だった。しかし、セリカは悲しみも怒りも表に出さず、ただ静かに受け止めた。


その場にいた誰もが、彼女の本心を測りかねていた。だが、セリカの心にはもう、迷いも涙もなかった。


(これで、ようやく私は自由になれた――)


ほんの一瞬だけ、胸の奥にほのかな安堵の光が灯る。

前世の記憶を持つセリカにとって、この異世界の宮廷でのしがらみは、時に自分を縛りつける鎖でもあった。婚約破棄という事実は、むしろ新しい可能性への扉を開くものに思えた。


式典が終わり、セリカは王宮の石段を降りる。眩しい夏の陽光が彼女の金色の髪を照らし、軽やかなドレスの裾が風に揺れる。


ディオール家の馬車に乗り込むと、侍女が心配そうに声をかけた。


「お嬢様……大丈夫でいらっしゃいますか?」


セリカは穏やかに微笑む。


「ええ、大丈夫よ。むしろ、今はとても気持ちが軽いの」


その言葉に、侍女はますます戸惑う。しかし、セリカの目には決意の色が宿っていた。


馬車が王宮を離れ、ゆっくりとディオール領への道を走り出す。セリカは窓の外の景色を眺め、思索を巡らせた。


(婚約がなくなった今、私はディオール家の令嬢としてだけでなく、一人の人間として何ができるかを考えなければならない)


彼女の胸には、幼いながらも強い使命感が芽生えていた。父である公爵が誇るディオール領は、豊かな土地と人々の勤勉さに支えられている。しかし、それだけでは満足できない。セリカは前世の知識――現代日本での社会経験や効率的な組織運営、経済学の基本――を活かし、この領地をさらに発展させることを新たな目標に据えた。


「父上は素晴らしい領主だけれど、まだまだ伸ばせる部分がある。私が力になれるはず……」


自室に戻ったセリカは、さっそく領地の資料を読み返し始めた。収支報告書、作物の生産統計、各村の人口推移――幼い少女が読みこなすには難しい数字の羅列も、彼女にとっては興味深いパズルのようだった。


(何よりも、まずは現状を知ることが大切。今のディオール領に足りないものは何か、どうすれば人々がもっと幸せになれるのか――)


セリカは、小さな手でペンを取り、ノートに自分なりの気付きをメモしていく。


「婚約がなくなった今、私にはもっと多くの自由な時間がある。この時間を、無駄にせず役立てたい」


その夜、夕食後に父であるディオール公爵と向き合ったセリカは、自ら申し出た。


「お父様、私に領地経営のお手伝いをさせていただけませんか?」


公爵は一瞬、驚いた表情を浮かべた。だが、すぐに柔らかい笑みを浮かべて娘の頭を撫でる。


「セリカ、お前はまだ小さいんだぞ? 領地の経営は簡単なことではない」


「それでも、やってみたいのです。お父様のご指導があれば、きっと私も成長できます」


セリカは真剣な眼差しで父を見つめる。ディオール公爵はしばらく黙って彼女を見つめ返した後、静かに頷いた。


「わかった。最初は簡単なことからでいい。お前の意欲に免じて、任せてみよう」


「ありがとうございます!」


セリカは小さく拳を握る。これが彼女の新たな第一歩だった。


翌朝から、セリカはさっそく執務室に顔を出し、使用人や役人たちから情報を集め始めた。彼女の質問は的確で、相手が驚くほど大人びていた。


「村の水路の整備状況はどうですか?」 「今年の麦の収穫量の見通しは?」 「新しく始まった商隊との取引は順調ですか?」


役人たちは最初こそ戸惑ったが、次第にセリカの真剣な様子に感心し、協力を惜しまなくなった。


ある日、村の灌漑問題についての報告を聞いたセリカは、現地まで足を運ぶことを提案した。小さな馬車に揺られ、田園を抜けて村に着くと、現場の人々は思いがけず公爵令嬢が自ら訪れたことに驚きつつも、彼女の質問に丁寧に答えた。


「実際に現場を見ると、やっぱり書類だけでは分からないことがたくさんあるわね……」


セリカは土を手に取り、作物の葉を観察し、農民たちと会話を重ねる。


その夜、公爵家に戻ったセリカは、現地で得た情報を整理し、父に報告書を提出した。


「土壌の水はけが悪くなっているようです。新しい灌漑の導入を検討してはいかがでしょうか?」


父は驚きながらも、娘の報告に目を通す。そこには的確な観察と提案が並び、たった一日でこれだけの情報をまとめたことに感心を隠せなかった。


「よくやった、セリカ。お前がここまでやるとは思わなかったよ」


セリカは微笑みながら頷いた。


(私はただの公爵令嬢じゃない。領地の未来を担う一人として、全力で挑んでいく)


幼い少女の小さな背中には、自由と責任、そして新しい時代の風がそっと吹いていた。


こうして、セリカ・ディオールの新たな挑戦が、本格的に始まったのである。



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