物心がつくというが、その前の段階。世の中を認識したのはその時だっただろう。それまでは空腹でぼうっとしていたのだが、その空腹が限界を迎えた時にはじめてなにかをしようと思った。
場所は山の森の中。後年思い出せば、ぶっちゃけ捨てられたのだろう。むしろわざわざ森の中まで、子供を捨てに行った労力を親が出したことが意外だ。
その時の自分は確実にどうかしていた。やせこけた身でなぜか森の斜面を上りはじめたのだ。子供ながらに戻ってもどうにもならないと判断したのか。
しかしまぁ、死にかけの子どもが文字通り死力を振り絞っても、食べ物がある場所や人がいるところにたどり着けるはずもなく……それなりの距離を稼いだだけで終わった。
もう空腹すら感じない。いっそ穏やかな眠りについた。その努力を神様がちゃんと見ていたことも知らずに。
「おい、人の山で勝手に死ぬな。よそでやれ、よそで。おい……」
なにか聞こえた気がして、次に浮遊感を覚えた。天にものぼるここち……それが山頂に住む【師匠】との出会いだった。
「おい」
「ぐぇ」
納屋の中でわらにまみれて快眠していると、【師匠】に蹴り飛ばされた。体は宙に浮き、キレイな放物線を描いて飛ぶ俺。的確に内蔵が傷まない場所に蹴り入れて来るなぁ、この人! そんなことを思いながら何とか空中で姿勢を整えて着地した。
「おはようございます、【師匠】。出会った時と思しき光景を夢に見てたんですが、走馬灯でしたか」
「無駄に頑丈に育ちやがって。それはともかく、家主より遅く起きるやつがあるか」
「初耳ですね。ここの生活は自由にあふれていると思っていましたが」
「当たり前だ。俺が今、制定した」
空腹で意識がなくなった俺を拾ってくれたのが、この【師匠】だった。大男ではないが筋骨隆々。全身に傷あとがあるらしいのだが、顔まで傷あとだらけで正直、人相が悪い。
ここタムル山の山頂に居を構える、不思議な人だ。【師匠】と呼ぶのは色々教えてくれるのだが、個人的なことはなぜか名前すら教えてくれないからである。
それでも俺を置いているあたり、根は善人なんだろう。たまに来る【師匠】の知り合いの他は人間知らないけど。
納屋に立てかけてある道具の中から手槍を手にして、外の冷気と陽光にあくびを返す。
「んじゃ、飯取りに行ってきます」
「ああ……今日は修行中止にするから、多めに取ってこい。ネスタルが今日来るらしい」
「ネスタルさんが? 珍しいですね。いつもなら前触れもなく現れるのに」
修行というのは大体武術の訓練だ。実戦形式で大抵の場合、俺がボコボコにされる。【師匠】は剣から弓まで何でも使う。自分が強くなるごとに、【師匠】の化け物っぷりを実感させられる。同じように一通り叩き込まれたが、俺は得意な武器に落ち着いた。
家のある土地から一歩出れば森の中だ。食える野草と、動物がいないかどうか森を堂々と分け入りながら進む。普通は潜みながら進んでいくものだ。俺も前はそうしていた。
しかし、この世界には
「おっ、熊だ」
「ゴアォォォ!!」
俺をひと目見た瞬間、森の斜面を下って逃げ出す熊。それを逃がすまいとする俺……そう、【師匠】のデス修行の結果、この森で一番レベルとやらが高いのが俺になってしまったらしい。
もちろん【師匠】のほうがレベルは高いが、あの人はあまり森に入らない。どこか別の場所で自給自足しているのか、もしかすると食う必要すらないのか……後者の可能性がわりと有り得そうな気がするのが恐ろしい。
しばらくの追いかけっこの後、頭部を槍で
「ネスタルさんが来るなら、熊よりウサギとかの方が良かったな。俺と【師匠】の分にしよう」
ネスタルさんは女性だ。色気のある人……だと思う。比較対象がいないのでよく分からないが、世間ではかなりキレイな人に分類されているのではないだろうか。文字やら最低限の常識はネスタルさんから学んだ。
たまにしか来ないが、面倒見が良いと言って良いはずだ。でなければ友人の家にいる居候の指導なぞしてくれない。小さい頃の俺は控えめにいって棒を振り回す猿だった。まぁこの人にも戦闘能力で上下関係を叩き込まれたんだけどな!
しかし、同時に気まぐれな人でもあった。先触れを出して来るなどということは一度もなかったはずだ。なにか大事なことでもあるのか……それこそ気まぐれだからか?
「熊を置いて来て、半弓とナイフを借りてこよう」
熊料理も俺は好きだが、ネスタルさんが食べるには似合ってない気がする。ウサギをシチューにして、鳥を香草焼きにしよう。
こうして俺は山頂と森を行き来して、目当てのものを揃えるのであった。
解体して、料理に使えるようにするまでで結構時間をくってしまった。急いで解体場を片付けると、丁度ネスタルさんが現れた。時刻はまだ日が落ちる前。夕食までには時間がある。
「ネスタルさん! 早かったですね!」
「あら? 来る時間は伝えていたはずだけれど……」
「それを【師匠】が俺に教えてくれるかという話です」
「あらあら、それは考えていなかったわ。もういい年なんだから、尖った部分が削れても良いでしょうに」
モカブラウンの髪を三角帽子に入れて、危険なスリットの入った長いドレスローブをまとっている。その格好でどうやって山頂まで汚れずにやって来たのか。【師匠】の知り合いだけあって、謎が多い人だ。
長煙管を手に取ると、先端に勝手に小さな火がついて、煙をくゆらせはじめた。魔法という技術らしい。煙を犬の形にしてくれたりして、遊んでくれた頃を思い出す。
「【師匠】なら母屋の中にいますよ。俺は裏口から入るので、正面玄関からお入りください」
「いつも通り、ね。勝手知ったる他人の家といかせてもらうわ。ねぇ、まだ料理番とかまでしてるの?」
「最近は自分の分だけ、ということも多くなってきましたね。今日みたいに頼まれれば従いますが……あの、今日ってなにかあるんですか?」
「うふふ……ヒ、ミ、ツ。でも大事なことは確かよ。あの堅物を説得しなければならないのが難点だけれど」
「ネスタルさんすげぇ! 俺なら【師匠】を説得しようとか考えつきもしません!」
説得ということは今は意見が完全に一致はしていないということだ。そんな状態の【師匠】と意見を戦わせようとすれば……俺なら物理的な戦いに持ち込まれて、地面に埋められて朝を迎えるだろう。
ネスタルさんは意味深に笑って、【師匠】の屋敷に入っていった。なんだろう、今の笑みは?
いつもと違う空気を感じ取りながら、俺は食材を持って裏口から入って、調理の準備をはじめる。遠くに聞こえる会話は気になるが、聞き耳をたてなどしたらどんな目にあわされるか分かったもんじゃない。その日は徹底して料理番と給仕人に徹した。
ネスタルさんは珍しく泊まっていくようだ。納屋に戻った俺は明かりの消えない母屋を見ながら寝る準備をはじめた。
『貴方が弟子を取ったときは、ただ安心していられたのだけれどね。後継者を育てる気があるんだなって』
『……アレはただの雑用係だ』
『その割に、随分と仕込んでいるじゃない。私は気配でしか戦士の強さは判断できないけど、そこらの近衛騎士団なんて天秤にも載せられないように見えたわ』
『教えてみたら筋が良かったので、教えすぎた。それだけだ』
『貴方の愛情はいびつよ。自分でも分かっているでしょう? そこまで鍛えた戦士を独り立ちさせない。なのに
『なにをそんなに急いでいる』
『アルネスティが死んだわ。後継者は無し。世界には次の世代の英雄が必要なのよ』
『そうか……だが、英雄は狙ってなれるものではない』
『それでも腐らせておくよりは確率があるわ。私の弟子はもう旅に送り出したわ……貴方はどうする?』
『……』