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第5話 夜が明けて

烏丸は馬宮に片手を顔の前に一瞬持っていき「ごめん」とジェスチャーすると小部屋から出て近くのトイレに駆けこんだ。個室に飛びこんで我慢していた口の中のものを思いきり吐き出す。何度か吐いても目からあふれる涙が止まらない。


「……仁礼野さん。どうしよう、アタシ……知ってた秘密全部アイツに話しちゃった。怒ってるよね……?」


烏丸は泣きながら、仁礼野に謝る。吐いたものを水に流しても、吐き気がおさまってきても個室からなかなか出られなかった。トイレに設(もうけ)られた小窓から長く感じられた夜が明けていく気配がする。


ーーーーかたり。


烏丸がいる個室の外から小さな物音がして、烏丸はびくりと身を震わせる。こんな時間に誰が来たのだろうか。


(まさか、あの子たちがアタシたちを探しに……?)


烏丸は嫌な予感がして音をたてないようにそっと個室のドアを開けて様子をうかがってみる。手洗い場の鏡の前にキツネのマスコットキャラクターの着ぐるみがぼうっと立っていた。烏丸がFOXだと思って出ていくとこちらを振り向いたのは……《黄色いキツネ》だった。


FOXと同じようなデザインだが胸の毛とお腹についた黄緑色の縞模様のはいった紫色のリボンが解けている。胸から下のあたりは着ぐるみの生地が縦に裂けて、そこから中身が覗けそうだ。


(……嘘。これ、これって)


「に、にれ、仁礼野…………さん、ですか?」


恐怖と焦りでしゃがれたような声しか出ない。問いかけに気づいた黄色いキツネがゆっくりと烏丸のほうに近よってくる。烏丸は後退りする。今閉めたばかりの個室のドアに背中があたる。もう、逃げられない。


『……烏丸サん私……あノ話はしなイでって……前に言いマしたよねエ……』


烏丸が今までに聞いたことがないくらいの低さの仁礼野の声に耳をふさぎたくなるような歪んだ電子音が重なる。烏丸はその場にしゃがみこんだ。両手で耳をふさぐ。そんなことをしても無駄だとわかっているのに。


『烏丸さン……今ここデ、モう一度……約束してクださい』

『他の人ニ、あのコとは絶対に……話さなイと』

「ごっ……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!」


烏丸は耳をふさいだまま、目の前にいる黄色いキツネの着ぐるみに向かって謝罪をし続ける。黄色いキツネは何も言わず、烏丸を上からじっと見つめている。それが不意にすっ、と足元へしゃがみこむ。


『本当に』

『約束……でキますカ……?』


烏丸の頬がひやりとしたもので包まれた。同時に肉が腐ったような耐え難い臭いがする。収まりかけていた吐き気が襲ってくる。烏丸が顔を上げると……着ぐるみの破れた腹から仁礼野の上半身が這い出ていた。土気色を通りこして腐敗しきった体のあちこちから半分だけ黄ばんだ骨が覗いている。


「や……約束、します……!」

「もう二度と言いません‼」

『……わかリました』


仁礼野が嗤う。残った瞼のない左目が満足げに細められた気がした。烏丸の頬から仁礼野の手が離される。烏丸は咳きこんでその場に腰をぬかして倒れこんだ。


『でハ……そろソろ、行きマすね』

『まタ明日の夜……会イましょう』


仁礼野はそれだけ言い残すと着ぐるみの腹にするすると戻っていく。黄色いキツネの着ぐるみは烏丸に深々と頭を下げると、トイレから出て行った。烏丸はなんとか立ち上がり、着ぐるみを追って廊下に出たが、姿はどこにもなかった。烏丸は思わず目をこすった。さっきのは夢だったのだろうか。


「烏丸さん……?どうかしましたか」

「え?ああ……なんでもないよ」


烏丸は小部屋のドアから顔をのぞかせた馬宮に首を横に振って答えた。どうしてもさっきの仁礼野は夢だとは思えなかった。頬に触れられた感触が、あの歪んだ声がまだ耳の奥にはっきりと残っている。


「それより……アタシがいない間、異常なかった?」

「はい。特に何も」

「そう、よかった」


烏丸が小部屋に入るとモニターの前の椅子に座りなおす。画面右端に表示された時間を見ると午前6時になったばかりだった。夜間警備が終わる時間だ。この小部屋には窓がないのでわからないが、外はもう朝日が昇ってきているだろう。


「あの……」

「何?」

「仕事が終わったら、あとはどうすれば……いいんですか」

「翌日の24時まで好きに過ごしてていいよ。一旦家に帰って寝るとか、近所のコンビニに買い物に行くとか。アタシは……とりあえず帰るわ。じゃ、また今夜」


烏丸は困り顔の馬宮に手を振って、持ってきた小型のバッグを肩からかけ直すと、さっさと先に小部屋から出ていった。馬宮は閉まったドアに向かって「お疲れ様です」と言って頭を下げる。自分も部屋の隅に置いていた黒のトートバッグを取ると、小部屋から出た。


工場の入口に向かうとシャッターは開いていた。間からは早朝の涼しい風と爽やかな朝日が入ってくる。馬宮が昨夜中感じていた重くのしかかる奇妙な閉塞感がゆっくりと消えていく。馬宮は後ろを振り返る。出迎えてくれた仁礼野はもういない。それでも秘密を知ってしまった。逃げ出すのは簡単だ。だが馬宮は……逃げないと決めた。


「また今夜……烏丸さんと一緒に来ますね……待っててください」


馬宮は工場の奥に向かって頭を下げ、開いたシャッターの向こう側へと歩きだした。


【了】

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