山深い谷に囲まれた灰名村――地図にもほとんど載っていないその村に、達也が越してきたのは、ちょうど梅雨が明けたばかりの蒸し暑い七月の初めだった。
「またずいぶんと不便なとこ、選んだね」
助手席から顔を出した俊太が、眼前の風景に眉をしかめた。舗装もまばらな道の先には、茶色に濁った川と、それをまたぐようにして立つ朽ちかけた吊橋がある。吊橋の向こうには、ぽつぽつと瓦屋根の家が連なっていた。人の気配はあるが、近代的なものはほとんど見当たらない。
「いいじゃん、落ち着いててさ。コンビニもないし、信号も一個だけ。東京に疲れた人間には、最高の環境ってやつだろ?」
運転席の達也が笑う。彼は今月から、この村にある診療所で働くことになった。大学時代の友人が地元で医師不足に悩んでいると聞き、勢いで移住を決めたのだった。
「それはいいけど……ほら見て、案の定、スマホの電波ない」
俊太が眉をひそめる横で、にこが静かに笑った。
「でも、空気はすごくきれい。音も少ないし。私はこういうところ、嫌いじゃないな」
彼女は普段から無駄を嫌い、合理性を重んじる性格だ。無駄に賑やかで情報過多な都会よりも、こうした静謐な空間のほうが性に合っているのだろう。
「おーい、橋が揺れてるぞ! 慎重に渡れよー!」
車の後ろから、亮佑の声が響いた。彼と希望、佳澄、将、澪、大祐、有紀といった達也の友人たちは、今回、彼の引っ越し祝いと称して、週末を使って車で訪れたのだった。
吊橋を渡りきると、村の広場がある。石で組まれた小さな鳥居がぽつんと立ち、その奥に見慣れない建物が見えた。
「ねえ、あれ……何?」
佳澄が指差した先にあったのは、木々に囲まれ、少し傾いた祠だった。屋根は藁で、入り口には赤い注連縄がかけられている。
「祠じゃね? なんか、手作り感あるな。ていうかボロいし、危なくね?」
希望が軽い調子で言うと、亮佑が少し緊張したように声を低くした。
「……触れないほうがいいかもな。昔からのやつ、だろ。こういうのって、下手に壊すとヤバいっていうじゃん?」
「ヤバいって、祟りとか?」
将が興味津々といった様子で祠に近づきかけた時――。
「……やめておきなさい」
不意に、低くて重い声が背後から飛んだ。振り向くと、腰を曲げた老婆が一人、杖をついて立っていた。髪は白く、目は鋭い。笑顔一つなく、睨むように全員を見渡している。
「そちら様は、この村の方ではないね?」
達也が一歩前に出て軽く会釈をすると、老婆は杖を地面に叩いた。
「この祠には、近寄ってはならん。封じてある。……昔、恐ろしいことがあったのさ。それを、これで封じたのじゃ」
「封じた……何を?」
俊太が聞き返すが、老婆は答えなかった。ただ、重ねて言った。
「……近寄るな。壊すな。忘れろ」
それきり、老婆は何事もなかったかのように背を向けて去って行った。村人の誰かかもしれないが、名前も名乗らず、ただ警告だけを残して消えたその背中には、どこかこの世のものではない気配が漂っていた。
「マジで、雰囲気出てきたな。こわ……」
希望が軽く笑いながら言ったが、その目にはわずかな不安が宿っていた。全員が、なんとなく笑えない空気を感じ取っていた。
だが――。
「なーんてな。夜にここで肝試しでもしようぜ」
俊太がそう言って笑った時、空気はほんの少しだけ和らいだ。
達也も苦笑しながら、「やめとけって」とは言ったものの、その時すでに、彼の中にも軽い興味が芽生えていた。
……この村の祠。
……封じられた“何か”。
……老婆の警告。
そのすべてが、現実離れしているからこそ、非現実として受け止めやすかったのだ。
だが、夜が訪れた時、彼らはまだ知らなかった。
この村に伝わる因習が、たったひとつの「触れてはならぬ」を破ったことで、どんな地獄を解き放ってしまうのかを。