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第15話

 屋敷に戻ると、床の間に飾られた掛け軸の下に、新しい紙が置かれていた。

 墨で書かれていたのは、たった一文。

 ──お前は、もう「名の器」になった。

 悠真は震えながら振り返った。

 一郎が、縁側に腰かけて煙草をふかしていた。

「……もう出たか。そりゃ早いわけだ。女が関わると、呼びが早くなるんだよ。向こうの“それ”も、“継がせたがってる”からな」

「“それ”って、何なんだよ……?」

「“名”のかたちをしている、災い。

 喩えるなら、思い出してはいけない過去そのものだ。

 昔の拝家の記録に、こうある。

 “最初に封じられたのは、まだ“ヒト”だった”。

 けど、人々がその女の名を消し、口に出すことを禁じた。

 そうして祠に入れ、名だけを残した。

 やがて、その“名”だけが一人歩きして、ヒトではなくなった」

「じゃあ俺は……その“名前”の容れ物に?」

「封じきれない時代になったからな。

 “家”じゃなく、“人間”に封じるしかなくなった。

 名前というのは、“思い出す人間”がいて初めて力を持つ。

 だから、“名前の入れ物”になったお前が、これからどうするかで全部決まる」

「全部って、何が?」

「……次に誰が“名を継ぐか”だ」

 悠真の背中が、ぞっと冷えた。

 その夜――夢を見た。

 夢の中で、自分は祠の中にいた。

 周囲は墨で塗りつぶされたように真っ暗で、ただ一つ、木の札が床に落ちていた。

 札には、誰かの名前が書かれている。読めない。けれど、“知っている気がする”。

 足元の闇から、“女の声”が聞こえた。

 ──おまえが わたしを つけたのか

 ──おまえが わたしを おいたのか

 ──おまえが わたしを わすれたのか

「……ちがう、ちがう……!」

 口に出したつもりだったが、声になっていなかった。

 振り向こうとすると、女の手が、背後からそっと肩に触れた。

 その手は冷たくも熱くもなかった。

 ただ“形が曖昧だった”。

 ──では、いまいちど “わたし”を つけなさい

 ──そうすれば “おまえ”は “わたし”になる

 次の瞬間、悠真は目を覚ました。

 起き上がった瞬間、**自分の両手に“墨の痕”**が浮かんでいるのを見た。

 右手には、古い筆の跡のような、筆文字の“兆し”。

 左手には、まだ読めぬ“名の下半分”だけが刻まれていた。

 ──名が、体に入り始めている。

 その瞬間、廊下の外から――風鈴の音が聞こえた。

 凍てつく冬の夜に、風は吹いていない。

 けれど、“風鈴だけが鳴っている”。

 まるで、誰かが悠真の名を確認するように。

 チリン……チリン……

 音の合間に、はっきりと聞こえた。

 ──ゆうま、

 ──つけるのは おまえ

 ──ならば、いっそ “おまえが 祠”に

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