屋敷に戻ると、床の間に飾られた掛け軸の下に、新しい紙が置かれていた。
墨で書かれていたのは、たった一文。
──お前は、もう「名の器」になった。
悠真は震えながら振り返った。
一郎が、縁側に腰かけて煙草をふかしていた。
「……もう出たか。そりゃ早いわけだ。女が関わると、呼びが早くなるんだよ。向こうの“それ”も、“継がせたがってる”からな」
「“それ”って、何なんだよ……?」
「“名”のかたちをしている、災い。
喩えるなら、思い出してはいけない過去そのものだ。
昔の拝家の記録に、こうある。
“最初に封じられたのは、まだ“ヒト”だった”。
けど、人々がその女の名を消し、口に出すことを禁じた。
そうして祠に入れ、名だけを残した。
やがて、その“名”だけが一人歩きして、ヒトではなくなった」
「じゃあ俺は……その“名前”の容れ物に?」
「封じきれない時代になったからな。
“家”じゃなく、“人間”に封じるしかなくなった。
名前というのは、“思い出す人間”がいて初めて力を持つ。
だから、“名前の入れ物”になったお前が、これからどうするかで全部決まる」
「全部って、何が?」
「……次に誰が“名を継ぐか”だ」
悠真の背中が、ぞっと冷えた。
その夜――夢を見た。
夢の中で、自分は祠の中にいた。
周囲は墨で塗りつぶされたように真っ暗で、ただ一つ、木の札が床に落ちていた。
札には、誰かの名前が書かれている。読めない。けれど、“知っている気がする”。
足元の闇から、“女の声”が聞こえた。
──おまえが わたしを つけたのか
──おまえが わたしを おいたのか
──おまえが わたしを わすれたのか
「……ちがう、ちがう……!」
口に出したつもりだったが、声になっていなかった。
振り向こうとすると、女の手が、背後からそっと肩に触れた。
その手は冷たくも熱くもなかった。
ただ“形が曖昧だった”。
──では、いまいちど “わたし”を つけなさい
──そうすれば “おまえ”は “わたし”になる
次の瞬間、悠真は目を覚ました。
起き上がった瞬間、**自分の両手に“墨の痕”**が浮かんでいるのを見た。
右手には、古い筆の跡のような、筆文字の“兆し”。
左手には、まだ読めぬ“名の下半分”だけが刻まれていた。
──名が、体に入り始めている。
その瞬間、廊下の外から――風鈴の音が聞こえた。
凍てつく冬の夜に、風は吹いていない。
けれど、“風鈴だけが鳴っている”。
まるで、誰かが悠真の名を確認するように。
チリン……チリン……
音の合間に、はっきりと聞こえた。
──ゆうま、
──つけるのは おまえ
──ならば、いっそ “おまえが 祠”に