翌朝、悠真は喪服のまま、雪の積もった石段を下った。
白い山裾に囲まれた村――その中心にある屋敷は、“拝家(おがみけ)”と呼ばれ、代々「名を封じる役目」を継いできたという。
「ゆうま、ちょっと」
廊下の奥で手招きしていたのは、遠縁の親戚にあたる拝一郎だった。
「昨夜、祠に行ったろ。おまえ、呼ばれたな」
一郎は妙にあっさりとそう言った。
「……何か、知ってるのか?」
「知ってるさ。“拝み屋の血”だからな。お前も、その系統だろ」
悠真は、昨日の出来事――風鈴の音と、祖母の名前の書かれた札が割れていたことを話した。
一郎は黙ってうなずいた。
「そいつは、“一代分の封印が切れた”ってことだ。次に“継ぐ者”が必要ってわけだな」
「継ぐって……何を?」
「“封じる祠”には、“誰か”が入ってる。けど、そいつが本当に“外に出たがってる”のか、“中にいたかった”のかは、わからない」
一郎の口ぶりは、どこか達観していた。
まるで、それを「人間ではないもの」として扱うことに、すでに慣れきっているように。
「じゃあ、俺が……次の“封じ役”にならなきゃいけないってことか」
「……そうならない方法も、あるにはある」
「どうするんだ?」
「“その名前”を、誰かに引き継がせること。
けどな――“名を渡す”ってことは、“呪いを分ける”ってことだ。
つまり、誰かが代わりに“思い出す”ことになる。記憶と、声と、夢をな」
悠真はぞっとした。
そのとき、玄関先で誰かの声がした。
「悠真くーん、お見舞いー。って、あ、もうお葬式終わってたんだ……」
現れたのは、同級生の志保だった。
毛糸の帽子をかぶり、花を一輪だけ持っていた。
「……これ、渡そうと思って」
志保が差し出したのは、紫色のリンドウの花だった。
「リンドウって、“想いを伝える”って花言葉なんだって」
「……ありがとう」
悠真はその花を受け取った瞬間、頭の中で“声”がした。
──その子に、渡せ
──その子に、名を……
心が冷たくなる。
志保が見上げて言った。
「ねえ、昨日さ、変な夢見たんだよ。
雪が積もった祠の中に入っていって、誰かが“わたしの名前”を呼ぶの。
“しほ”じゃない、“違う名前”で――」
「やめろ!!」
悠真は叫んでいた。
その声に、志保がびくりとした。
「……ねえ、悠真くん、どうしたの?」
「……ごめん……。でも、近づかないでくれ。
今、俺の周りには“名前”が集まってる。きっと、お前にも映るようになる。……忘れろ。絶対に、祠の夢のことなんか、思い出すな」
志保は、ゆっくりとうなずいた。
「でも、悠真くんの名前だけは……忘れたくない」
その言葉に、祠の方角から風鈴の音が鳴った。
チリン……
風は吹いていない。
けれど、何かが「聞いている」。
“名を告げるな”。
“名を返すな”。
“名を忘れろ”。
それが、「拝家」に代々伝わってきた唯一の戒めだった。
けれど、悠真の中では今――
“名前を知りたい”という欲望と、“誰かに渡したい”という衝動がせめぎ合っていた。