その夜、月は欠けていた。
志保と悠真は、雪の中を無言で進んだ。
屋敷裏の階段は、凍って滑りやすい。
けれど、誰も転ばなかった。**そこに“導かれている”**としか思えないほど、足取りは自然だった。
石段を百段ほど登ると、あの祠が、まるで息をしているように佇んでいた。
風はない。
空も鳴らない。
ただ、風鈴だけが静かに震えていた。
チリン……
志保が足を止める。
「ねえ、悠真。“名前を渡す”って、どういうことなんだろうね」
「“名を忘れさせない”こと……かもな」
「……じゃあ、私たち、忘れられない人になるんだ」
悠真は頷いた。
そして、祠の戸をゆっくりと開けた。
中には、黒く焼け焦げたような穴があった。
穴の底からは、墨の匂いと、腐った花の香り。
そして――“声”が立ち昇ってくる。
──ゆうま……
──しほ……
──なぜ……
──また……わたしを……
「“祠を壊した”のは、俺たちじゃない。
でも、“名を壊した”のは、ここに祀った誰かだ。
だから……今、もう一度、名前を返しにきた」
悠真は、手のひらを広げた。
そこに浮かぶ文字。
右手の“澪”、左手の“志”。
それを合わせるように、志保が手を重ねた。
「私たちが、“あなたの祠”になる」
その瞬間、祠の中から影がせり上がった。
顔のない女。
白い着物の裾が地に触れず、黒い長髪が風もなく揺れている。
口元だけが裂けて、微笑んでいるように見えた。
──わたしは
──わたしではないものに
──された
──ならば
──あなたたちは
──わたしを 名で おさめて
「……“澪”」
悠真が言った。
「……“澪”という名を、もう誰も忘れない。
この祠がなくなっても、俺たちの中に“名”として、残る。
だから、もう“ここ”にいなくていい」
影が、止まる。
口元の裂け目が、少しだけ閉じた。
そのとき、雪が降り始めた。
風鈴の音が鳴らない。
それは、風が吹いたからではなく――
“風鈴が祠から消えた”からだった。
代わりに、祠の中に、新しい木札が立てられていた。
“澪”と墨で書かれたその札の両脇に、もう一対の名前が添えられていた。
──水城悠真
──新谷志保
三つの名前が、並んで刻まれていた。
■
朝、祠の周囲には新しい注連縄が張られていた。
誰が張ったのかは、わからない。
ただ、静かに雪を払った跡だけが残っていた。
悠真と志保は、それぞれの家に戻り、何も話さなかった。
“語ってはいけない”のではない。
“語る必要がなかった”からだ。
それはもう、“恐怖”ではなく、“記憶”だった。
“名を渡す”とは、“忘れさせない”ということ。
それは同時に、“生きていた”という証であり、
“封じられた側”にとっての、唯一の救いだった。
(完)