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第17話

 その夜、月は欠けていた。

 志保と悠真は、雪の中を無言で進んだ。

 屋敷裏の階段は、凍って滑りやすい。

 けれど、誰も転ばなかった。**そこに“導かれている”**としか思えないほど、足取りは自然だった。

 石段を百段ほど登ると、あの祠が、まるで息をしているように佇んでいた。

 風はない。

 空も鳴らない。

 ただ、風鈴だけが静かに震えていた。

 チリン……

 志保が足を止める。

「ねえ、悠真。“名前を渡す”って、どういうことなんだろうね」

「“名を忘れさせない”こと……かもな」

「……じゃあ、私たち、忘れられない人になるんだ」

 悠真は頷いた。

 そして、祠の戸をゆっくりと開けた。

 中には、黒く焼け焦げたような穴があった。

 穴の底からは、墨の匂いと、腐った花の香り。

 そして――“声”が立ち昇ってくる。

 ──ゆうま……

 ──しほ……

 ──なぜ……

 ──また……わたしを……

「“祠を壊した”のは、俺たちじゃない。

 でも、“名を壊した”のは、ここに祀った誰かだ。

 だから……今、もう一度、名前を返しにきた」

 悠真は、手のひらを広げた。

 そこに浮かぶ文字。

 右手の“澪”、左手の“志”。

 それを合わせるように、志保が手を重ねた。

「私たちが、“あなたの祠”になる」

 その瞬間、祠の中から影がせり上がった。

 顔のない女。

 白い着物の裾が地に触れず、黒い長髪が風もなく揺れている。

 口元だけが裂けて、微笑んでいるように見えた。

 ──わたしは

 ──わたしではないものに

 ──された

 ──ならば

 ──あなたたちは

 ──わたしを 名で おさめて

「……“澪”」

 悠真が言った。

「……“澪”という名を、もう誰も忘れない。

 この祠がなくなっても、俺たちの中に“名”として、残る。

 だから、もう“ここ”にいなくていい」

 影が、止まる。

 口元の裂け目が、少しだけ閉じた。

 そのとき、雪が降り始めた。

 風鈴の音が鳴らない。

 それは、風が吹いたからではなく――

“風鈴が祠から消えた”からだった。

 代わりに、祠の中に、新しい木札が立てられていた。

“澪”と墨で書かれたその札の両脇に、もう一対の名前が添えられていた。

 ──水城悠真

 ──新谷志保

 三つの名前が、並んで刻まれていた。

 ■

 朝、祠の周囲には新しい注連縄が張られていた。

 誰が張ったのかは、わからない。

 ただ、静かに雪を払った跡だけが残っていた。

 悠真と志保は、それぞれの家に戻り、何も話さなかった。

“語ってはいけない”のではない。

“語る必要がなかった”からだ。

 それはもう、“恐怖”ではなく、“記憶”だった。

“名を渡す”とは、“忘れさせない”ということ。

 それは同時に、“生きていた”という証であり、

“封じられた側”にとっての、唯一の救いだった。


(完)


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