コン……コン……
再び、玄関のノック音が鳴る。
璃子は背中を壁に押しつけ、呼吸を殺していた。
だがそれは意味をなさないことを、すでに彼女は理解していた。
音が、内側から鳴っている。
祠は“外に”あるのではない。
記憶に入り込んだ瞬間から、この部屋自体が“祠の形”になっていた。
木札、墨の跡、そして“名を呼ぶ声”。
──あなたが わたしのことを 思い出してくれた
──だから わたしは ここに いられる
その声は、女のものだった。
若くはない。
だが、年老いてもいない。
ただ、“時間の概念を外れた声”だった。
璃子は、すでに涙を流していた。
「……ごめん……
子どもの頃、母から“あの人は関係ない人だ”って言われて、
一度だけ会ったとき、私は“あなたの名前”を聞き返すことができなかった」
──いいのよ
──わたしは そのとき もう“名をもらってなかった”から
──でも あなたが いま わたしの名前を
──“呼び直してくれた”
その瞬間、部屋の空気が静止した。
祟りの気配。風鈴の音。墨の匂い。
それらがすべて――“重さ”に変わっていく。
木の札が、天井からゆっくりと落ちてきた。
そこには、確かにこう記されていた。
木村キミエ
再記名 / 封納者:夏井璃子
■
一方、市役所では、祠の目撃情報が次々と途絶えていた。
「……全部、消えていってる……?」
佐伯が呟く。
「場所も、映像も、札も、全部……昨日まで“あった形”が消えてる……」
西園は気づいていた。
それは、単なる“元に戻った”のではない。
**“一か所に集約された”**のだ。
そして、それが意味するのはただ一つ。
「“新しい封じ場”が確定した……」
佐伯が震える声で問う。
「それって……璃子さん……?」
■
深夜。
璃子は静かに、台所にあった紙と筆ペンを手に取った。
白紙の半紙に、名前を書く。
「……わたしの名前は、夏井璃子。
そして、あなたの名前は――木村キミエ」
その瞬間、部屋の四隅に“札が打ち込まれた”ような音が響いた。
パシィン……パシィン……
家具の影が伸び、照明がわずかに揺れる。
だが、そこに恐怖はなかった。
ただ――重なった二つの名前が、確かに“封印の形”になったことを璃子は理解していた。
──ありがとう
──わたしを 人として 終わらせてくれて
最後に風鈴が、優しくひとつだけ鳴った。
チリン……
そして、部屋の空気が晴れた。
影が引き、音が止み、墨の気配も消えた。
■
数日後。
西園たちは、文化課の倉庫で一枚の報告書を手に取っていた。
そこにはこう記されていた。
「まがり祠」関連事象は、全て収束を確認。
現在、都内某所にて“移設祠”が再発見された。
中央には新たな木札があり、こう記されている。
封印完了 / 封納者 夏井璃子
佐伯が呟く。
「……人を封じたんじゃない。
“思い出された名前を、形にして終わらせた”んだ……」
西園はそっと、胸ポケットに仕舞った札を撫でた。
それは祠を移した日の、土の香りが染み込んだままの小さな木札。
“封じる”とは、“忘れる”ことじゃない。
“名を認めて、語られない場所へ還す”こと。
だから祠は――あの日からもう、誰の記憶にも“迷い込まなくなった”。
完