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第33話

 コン……コン……

 再び、玄関のノック音が鳴る。

 璃子は背中を壁に押しつけ、呼吸を殺していた。

 だがそれは意味をなさないことを、すでに彼女は理解していた。

 音が、内側から鳴っている。

 祠は“外に”あるのではない。

 記憶に入り込んだ瞬間から、この部屋自体が“祠の形”になっていた。

 木札、墨の跡、そして“名を呼ぶ声”。

 ──あなたが わたしのことを 思い出してくれた

 ──だから わたしは ここに いられる

 その声は、女のものだった。

 若くはない。

 だが、年老いてもいない。

 ただ、“時間の概念を外れた声”だった。

 璃子は、すでに涙を流していた。

「……ごめん……

 子どもの頃、母から“あの人は関係ない人だ”って言われて、

 一度だけ会ったとき、私は“あなたの名前”を聞き返すことができなかった」

 ──いいのよ

 ──わたしは そのとき もう“名をもらってなかった”から

 ──でも あなたが いま わたしの名前を

 ──“呼び直してくれた”

 その瞬間、部屋の空気が静止した。

 祟りの気配。風鈴の音。墨の匂い。

 それらがすべて――“重さ”に変わっていく。

 木の札が、天井からゆっくりと落ちてきた。

 そこには、確かにこう記されていた。

 木村キミエ

 再記名 / 封納者:夏井璃子

 ■

 一方、市役所では、祠の目撃情報が次々と途絶えていた。

「……全部、消えていってる……?」

 佐伯が呟く。

「場所も、映像も、札も、全部……昨日まで“あった形”が消えてる……」

 西園は気づいていた。

 それは、単なる“元に戻った”のではない。

 **“一か所に集約された”**のだ。

 そして、それが意味するのはただ一つ。

「“新しい封じ場”が確定した……」

 佐伯が震える声で問う。

「それって……璃子さん……?」

 ■

 深夜。

 璃子は静かに、台所にあった紙と筆ペンを手に取った。

 白紙の半紙に、名前を書く。

「……わたしの名前は、夏井璃子。

 そして、あなたの名前は――木村キミエ」

 その瞬間、部屋の四隅に“札が打ち込まれた”ような音が響いた。

 パシィン……パシィン……

 家具の影が伸び、照明がわずかに揺れる。

 だが、そこに恐怖はなかった。

 ただ――重なった二つの名前が、確かに“封印の形”になったことを璃子は理解していた。

 ──ありがとう

 ──わたしを 人として 終わらせてくれて

 最後に風鈴が、優しくひとつだけ鳴った。

 チリン……

 そして、部屋の空気が晴れた。

 影が引き、音が止み、墨の気配も消えた。

 ■

 数日後。

 西園たちは、文化課の倉庫で一枚の報告書を手に取っていた。

 そこにはこう記されていた。

「まがり祠」関連事象は、全て収束を確認。

 現在、都内某所にて“移設祠”が再発見された。

 中央には新たな木札があり、こう記されている。

 封印完了 / 封納者 夏井璃子

 佐伯が呟く。

「……人を封じたんじゃない。

 “思い出された名前を、形にして終わらせた”んだ……」

 西園はそっと、胸ポケットに仕舞った札を撫でた。

 それは祠を移した日の、土の香りが染み込んだままの小さな木札。

“封じる”とは、“忘れる”ことじゃない。

“名を認めて、語られない場所へ還す”こと。

 だから祠は――あの日からもう、誰の記憶にも“迷い込まなくなった”。


 完


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