目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第32話

 ノック音が止んだあとも、璃子は動けなかった。

 背中を伝う汗が冷たく、手のひらがじっとりと濡れている。

 玄関扉の向こうから感じる気配は、人間のものではなかった。

 何かが、そこに“いる”。

 ドアスコープを覗こうとした自分の足を、無意識に止めた。

「見てはいけない」という本能が、呼吸すら拒んでくる。

 スマホの画面がひとりでに明るくなった。

 メッセージの通知。差出人なし。

 ──キミエの記録は 封じられました

 ──でも あなたが思い出したから

 ──またここに 居場所ができました

 璃子の手が震えた。

「……“思い出したから”って……私は……呼んでない……」

 けれど違う。

 記憶は、思い出した瞬間から“呼び水”になる。

「キミエ」という名は、祟りではなかった。

 彼女は、“封じられた存在”そのものだった。

 名前を思い出すことで、その名は再び“人として”確定され、

 祠はその器として、場所を求めて現れる。

 すると、部屋の壁の一部――

 カレンダーの裏に、木札が差し込まれているのに気づいた。

 それは、手で書かれた名前の札。

“木村キミエ”

 祖母の旧姓。

 それが貼られているのは、一度も記憶にないカレンダーの裏。

 璃子は、かすかに口元を震わせながら、そっと札に指を伸ばした。

 だが、その瞬間――誰かが後ろから、彼女の名を呼んだ。

 ──りこ

 ──りこ

 ──わたしのなまえを おぼえてくれて ありがとう

「――!」

 振り返っても誰もいない。

 けれど、風が、部屋の中を逆流するように吹いた。

 次の瞬間、彼女の足元に影が一対浮かび上がる。

 彼女と“誰か”の足跡が、並んでいた。

 ■

 市役所では、西園と佐伯が急ぎ情報を照合していた。

「夏井璃子……この人、昔“文化保存区域”で家族がらみの騒動起こしてた記録があります」

「何の件?」

「戦後間もない時期。彼女の曾祖母にあたる“木村キミエ”という女性が、“村落外の血を持ってる”って理由で祠の封印に“人柱的役割”を課せられた、と」

「じゃあ……やっぱり“キミエ”は、実在してた……?」

「でもその名前、公式には残ってないんですよ。家系図からも、死亡届からも。

 つまり、“名前を持たないまま”封じられた。

 その存在が、都市再整備で封印場所を動かされたせいで、“輪郭を求めて”動き出した」

 佐伯が呟いた。

「まがり祠は、“その名を誰が呼ぶか”によって、形と位置を変えてる……」

 西園の手が止まった。

「もし……“名前を思い出した人間の近くに”祠が現れるなら――

 その人自身が、“次の封じ場になる”ってことじゃないか……?」

 佐伯が目を見開く。

「……璃子さん……」

 西園がスマホを手に取り、彼女に電話をかけようとした瞬間。

“圏外”の表示。

 画面が、突然真っ暗になる。

 そして――通知音が鳴った。

 本文のない空メール。

 ただひとつ、件名だけがあった。

 件名:ここにいます


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?