ノック音が止んだあとも、璃子は動けなかった。
背中を伝う汗が冷たく、手のひらがじっとりと濡れている。
玄関扉の向こうから感じる気配は、人間のものではなかった。
何かが、そこに“いる”。
ドアスコープを覗こうとした自分の足を、無意識に止めた。
「見てはいけない」という本能が、呼吸すら拒んでくる。
スマホの画面がひとりでに明るくなった。
メッセージの通知。差出人なし。
──キミエの記録は 封じられました
──でも あなたが思い出したから
──またここに 居場所ができました
璃子の手が震えた。
「……“思い出したから”って……私は……呼んでない……」
けれど違う。
記憶は、思い出した瞬間から“呼び水”になる。
「キミエ」という名は、祟りではなかった。
彼女は、“封じられた存在”そのものだった。
名前を思い出すことで、その名は再び“人として”確定され、
祠はその器として、場所を求めて現れる。
すると、部屋の壁の一部――
カレンダーの裏に、木札が差し込まれているのに気づいた。
それは、手で書かれた名前の札。
“木村キミエ”
祖母の旧姓。
それが貼られているのは、一度も記憶にないカレンダーの裏。
璃子は、かすかに口元を震わせながら、そっと札に指を伸ばした。
だが、その瞬間――誰かが後ろから、彼女の名を呼んだ。
──りこ
──りこ
──わたしのなまえを おぼえてくれて ありがとう
「――!」
振り返っても誰もいない。
けれど、風が、部屋の中を逆流するように吹いた。
次の瞬間、彼女の足元に影が一対浮かび上がる。
彼女と“誰か”の足跡が、並んでいた。
■
市役所では、西園と佐伯が急ぎ情報を照合していた。
「夏井璃子……この人、昔“文化保存区域”で家族がらみの騒動起こしてた記録があります」
「何の件?」
「戦後間もない時期。彼女の曾祖母にあたる“木村キミエ”という女性が、“村落外の血を持ってる”って理由で祠の封印に“人柱的役割”を課せられた、と」
「じゃあ……やっぱり“キミエ”は、実在してた……?」
「でもその名前、公式には残ってないんですよ。家系図からも、死亡届からも。
つまり、“名前を持たないまま”封じられた。
その存在が、都市再整備で封印場所を動かされたせいで、“輪郭を求めて”動き出した」
佐伯が呟いた。
「まがり祠は、“その名を誰が呼ぶか”によって、形と位置を変えてる……」
西園の手が止まった。
「もし……“名前を思い出した人間の近くに”祠が現れるなら――
その人自身が、“次の封じ場になる”ってことじゃないか……?」
佐伯が目を見開く。
「……璃子さん……」
西園がスマホを手に取り、彼女に電話をかけようとした瞬間。
“圏外”の表示。
画面が、突然真っ暗になる。
そして――通知音が鳴った。
本文のない空メール。
ただひとつ、件名だけがあった。
件名:ここにいます