「“キミエ”……」
佐伯梓は、音の響きを声にしてみた。
それは奇妙な感触だった。
耳に馴染むが、口元には異物感がある。
昔聞いたことがあるようで、思い出すと歯に何かが引っかかるような不快感。
「ねえ、西園さん。“キミエ”って、本当に名前なんですか?
地元の古い言い伝えだと、“祠に入れられたのは名前を持たない存在だった”って……」
「名を持たないからこそ、“封じるために仮の名が与えられた”ってことだろう。
そして、その仮名が、“思い出されることで本物になる”……」
蓮司の指が震えた。
「つまり、今のこの現象は、“祟り”じゃない。“名付けの再現”だ。
“誰か”が、その存在を“もう一度人として成立させようとしてる”」
「じゃあ、まがり祠はそのための“器”……?」
「違う。“まがり祠そのものが、その人の居場所を探している”。
人間の記憶の中に、“かつて居た場所”を探しに行ってるんだ」
そのとき、文化課の木暮から再び連絡が入った。
「西園さん、やばいっす。市内各所の防犯カメラ、変なものが映ってます。
“木の札を手にした女性”が各地の“祠らしき場所”に出入りしてる。
けど顔が見えない。というか、見るたびに顔が違うんです」
「写し込まれた顔が“見た者の記憶に基づいて変化してる”ってことか……?」
「しかも、子供たちが“その人に会った”って言ってるんです。
“知ってる気がするのに、名前が思い出せない女の人”に、“どこに祠を置けばいいか尋ねられた”って……!」
蓮司と佐伯は目を見合わせた。
「……まさか、“次の封印者”を探してる……?」
風が吹いた。
室内にもかかわらず、書類が一枚だけ宙を舞った。
それは、祠移設に関する申請書の写し。
その余白に、誰の手によるものでもない墨の跡がにじんでいた。
──わたしを おさめたのは あなた
──つぎは だれが おさめるの?
■
その夜。
ライターの夏井璃子は、自宅マンションの非常階段に立っていた。
スマホで何かを確認する仕草。
だが指が動かない。
画面は真っ黒で、映っていたはずの写真が、全て祠の画像に置き換わっていた。
しかも、写っている祠は――自分の部屋のドアの真向かい。
「……嘘でしょ……なんでここに……」
次の瞬間。
ドアの向こうから、風鈴の音が響いた。
チリン……チリン……
その音に誘われるように、スマホに一通の通知が届く。
差出人なし。
本文は、たった一文。
──キミエって、あなたの祖母の名前じゃなかった?
璃子は、顔面から血の気が引いた。
「……え?」
記憶が浮かぶ。
子どもの頃に一度だけ会った、**“他人にされていた祖母”**の影。
母が決して話そうとしなかった“あの人”の名。
たしかに、キミエ――そう、呼ばれていた。
玄関のドアが、ノックされた。
コン……コン……
璃子の背後に、墨のような影が滲み始めていた。