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契約は愛に変わるまで
契約は愛に変わるまで
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年05月21日
公開日
3.6万字
完結済
冷酷な侯爵リースと契約結婚を交わした令嬢ティアナ。 形式だけの「白い結婚」は、干渉しない関係のはずだった。 だが、無関心に見えた彼の瞳の奥には、誰にも癒されぬ孤独が潜んでいて――。 義務としての夫婦生活。冷たい屋敷。寄せては返す波のような感情。 けれどティアナは気づいてしまう。 「私はこの人に、愛されたいと思っている――」 契約の枠を超え、やがて二人は、運命を共にする“本当の夫婦”になっていく。 不器用な侯爵と、芯の強い花嫁が紡ぐ、静かで深い恋の物語。 これは、籠の中でしか咲けなかった花が、本当の空を知るまでの物語。

第1話 契約の花嫁

セクション1:父の命令


冷たい冬の朝、ティアナは父の執務室に呼び出された。そこは重厚な家具と寒々しい石壁に囲まれた部屋で、かつて一度も温もりを感じたことのない場所だった。彼女が扉をノックすると、父の硬い声が中から響く。


「入れ。」


ティアナは静かに扉を開け、緊張した面持ちで部屋に足を踏み入れた。父親であるエドワード・ティレール男爵は、机に山積みされた書類の合間から顔を上げ、彼女を冷ややかな目で見た。その視線にはいつものように、愛情も興味もなかった。


「ティアナ、お前には家のために役立ってもらうことになった。」


彼の言葉は、まるで家畜に餌をやることを告げるような無感情さだった。ティアナはそれが何を意味するのかを理解するまでに数秒かかった。


「……何のことでしょうか?」


彼女はできるだけ冷静を装って問い返したが、心臓は早鐘のように鳴っていた。


父は無表情のまま、手元の書類を指差した。それは結婚契約書だった。ティアナは思わず息を呑む。


「侯爵リース・ヴェクターとの縁談だ。これ以上の説明は不要だろう。お前は嫁ぐ。それが家のためだ。」


リース・ヴェクター――その名を耳にした瞬間、ティアナの体は硬直した。彼は「氷の侯爵」として知られ、冷酷で感情を表に出さないことで有名な人物だった。領地の運営には優れているが、私生活に関してはほとんど情報がなく、誰も彼に近づきたがらない。そんな彼と結婚させられる――ティアナの脳裏には、逃れられない運命の鎖が絡みつくような感覚が広がった。


「なぜ私が……?」


声が震えるのを抑えきれずに問い返すと、父は冷笑を浮かべた。


「理由など考える必要はない。お前はこの家の娘だ。それ以上でも以下でもない。リース侯爵が望んだのだから、お前はそれに従う。それだけのことだ。」


その言葉に、ティアナの胸には怒りと悲しみが渦巻いた。父にとって、彼女はただの駒でしかないのだろう。しかし反論する術など持たない彼女は、ただその場で沈黙するしかなかった。



---


数日後、結婚の準備が進められる中、ティアナは母と顔を合わせる機会があった。父とは違い、母は多少の情を見せることもあったが、それでも彼女の意志を尊重することは決してなかった。


「ティアナ、これはあなたの義務よ。家の未来を背負う覚悟を持ちなさい。」


母の声はどこか説得するような響きを帯びていたが、その本質は父と大差ない。ティアナはかすかに微笑んで応じたが、内心では怒りと絶望が押し寄せていた。義務、未来――彼女の人生はそんな言葉で簡単に片付けられてしまうのか。



---


夜、一人部屋に戻ったティアナは、窓の外を見つめながら溜息をついた。真っ暗な庭園に微かに揺れるランタンの光が、彼女の孤独を際立たせるようだった。自分の運命が決められたことを受け入れるしかないという現実が、胸を重く押しつぶしていく。


「私の人生は、私のものじゃないのね……」


声に出すと、より一層その事実が冷たく彼女の中に突き刺さった。それでも逃れる術はない。家のため――この言葉に縛られ続ける彼女の未来は、もうすでに決められているのだ。



セクション2:冷たい初対面


 ティアナが侯爵リース・ヴェクターと初めて対面したのは、結婚の正式な申し入れが行われた日の午後だった。父親からの命令で用意された馬車に揺られ、彼女は侯爵家の屋敷へと向かった。その道中、何度も深い溜息がこぼれる。

 リース・ヴェクター――その名前が心に重くのしかかる。彼について聞いた噂はどれも、冷酷で感情の読めない男という印象を深めるばかりだった。彼がなぜ自分との結婚を望んだのか、理由は一切知らされていない。それが余計に不安を煽った。


 やがて屋敷の門が視界に入ると、ティアナの胸は一層早鐘を打つ。広大な庭園と堂々たる邸宅が見えてくる。けれどその美しさにはどこか冷たさがあり、居心地の悪い緊張感を漂わせていた。馬車が止まり、扉を開けられると、執事と思しき初老の男が彼女を出迎えた。


 「ティレール男爵令嬢、ようこそお越しくださいました。」


 彼の低い声には丁寧な響きがあったが、温かさは感じられない。ティアナは礼儀正しく頭を下げながらも、内心で足元が揺らぐような不安に襲われた。


 「お連れします。どうぞこちらへ。」


 執事に促され、ティアナは屋敷の中へと足を踏み入れる。中は外観以上に壮麗で、広い廊下には見事な絵画や彫刻が並び、床には柔らかな絨毯が敷かれている。しかし、まるで感情を拒絶するかのような静けさが支配していた。誰一人として笑顔を浮かべる者はいない。


 案内された部屋に入ると、そこには一人の男性が待っていた。リース・ヴェクター――彼がその人だとすぐに分かった。高い背丈と鋭い目元、整った顔立ちには確かに威厳がある。しかし、その表情は冷たく無表情で、温かみというものを一切感じさせなかった。


 「……ティアナ・ティレール。」


 彼は彼女の名前を確認するように低く口にした。まるでその名前自体に興味がないかのように、淡々とした声だった。ティアナは慌ててドレスの裾をつまみ、深くお辞儀をした。


 「はい。初めまして、リース侯爵様。」


 自分の声が少し震えているのが分かる。しかし、リースはそのことに気づいた様子もなく、彼女をまっすぐに見据えたままだった。その目は鋭く冷たい光を宿し、まるで相手を見透かすような視線を送ってくる。


 「父君からお聞きの通り、私たちの結婚は形式的なものだ。」


 彼の言葉は短く、刺すように冷たい。ティアナは一瞬、言葉を失ったが、すぐに彼が続けた。


 「お互いの利益のための結婚。それ以上のものを求める必要はない。」


 その言葉は、彼が自分の妻に対して何の期待もしていないことを明確に示していた。それどころか、妻を一人の人間としてではなく、あくまで“契約の一部”としか見ていないのだと理解させるのに十分だった。


 「……承知いたしました。」


 ティアナは震える声でそう答えた。怒りや悲しみが胸の中で渦巻いているのを感じたが、それを表に出すことは許されない。目の前の男が、自分と同じ人間のはずなのに、まるで冷たく硬い石像のように感じられた。


 「それでいい。」


 リースは短くそう言うと、彼女に背を向けて窓際に立った。外を見つめる彼の背中は、どこか孤独を感じさせるものだったが、ティアナにはそれを指摘することもできなかった。


 「結婚式の日程はすでに決めてある。一週間後だ。それまでは好きに過ごすといい。」


 彼は彼女にそう告げると、再び振り返ることなく部屋を出て行った。ティアナはその場に立ち尽くし、かすかな寒気に襲われた。



---


 その夜、ティアナは自室で一人、昼間の出来事を振り返っていた。リースの冷たい態度と言葉が何度も頭をよぎる。


 「形式的な結婚……。それ以上のものを求める必要はない、か……。」


 小さく呟くと、自然と苦笑が漏れる。家族からは道具のように扱われ、夫となる相手からも同じように扱われる――それが自分の人生だというのか。彼女は自嘲気味に頭を振った。


 しかし、その一方で心の奥底には、家族の支配から解放される安堵感もほんの少しだけあった。ティアナはまだ、それがどんな形で自分の未来に影響を与えるのか、知る由もなかった。


 (どれほど冷たい結婚生活になろうとも、これ以上ひどい状況にはならない……はずよね。)


 自分にそう言い聞かせることで、なんとか眠りにつこうとするティアナ。しかし、瞼を閉じても、あの冷たい目と声が頭から離れなかった。彼との結婚がどのような未来をもたらすのか、それを考えるだけで胸が重く沈んでいく。



セクション3:冷たい結婚式


結婚式の日は、雲一つない青空が広がっていた。ティアナにとって、それは皮肉にも思えた。彼女の心は灰色の霧に包まれているのに、空だけがこんなにも晴れやかだなんて。


華やかに装飾された礼拝堂の前に馬車が止まると、ティアナは深い息をつきながら扉が開くのを待った。ドレスの重みが肩に食い込み、その下で心臓が不規則に脈打っているのを感じる。控えめな純白のドレスは彼女の姿を清らかに引き立てるが、そこに宿るのは希望ではなく、諦めに似た静けさだった。


「お嬢様、こちらへどうぞ。」


執事の声が耳に届き、ティアナはぎこちなくうなずいた。馬車から降りると、礼拝堂の扉が開かれ、冷たい石造りの空間が彼女を迎え入れる。そこにはすでに多くの招待客が集まり、彼女を一斉に振り返って見つめていた。視線の中にあるのは興味、憐れみ、そして時折、冷笑のような感情だった。


「ティアナ、顔を上げなさい。」


父の硬い声が横から響き、彼女はぎこちなく顔を上げた。父の厳しい視線が、彼女に「完璧な娘」を演じるよう命じているようだった。そんな父の腕に支えられながら、ティアナはゆっくりと祭壇へ向かう。彼女の歩みは重く、足元の絨毯がいつまでも続くように感じられた。



---


祭壇の前には、リース・ヴェクターが無表情のまま立っていた。彼は黒い正装を纏い、鋭い目元と端整な顔立ちが目を引く。だが、その冷たく硬い瞳には、祝福や喜びといった感情は一切宿っていない。ティアナは彼の姿を見た瞬間、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。


(本当に、この人と結婚するの……?)


その問いが頭の中を駆け巡るが、答えはすでに決まっている。ティアナは重い気持ちを抱えながら、リースの隣に立った。礼拝堂全体が静寂に包まれ、神父の声だけが冷たい空気を裂くように響く。


「リース・ヴェクター侯爵、あなたはティアナ・ティレールを妻として迎えることを誓いますか?」


その問いかけに、リースはほんの一瞬だけ彼女を見下ろした。その瞳は、彼女の内面に一切興味を抱いていないように見える。


「誓います。」


低く冷静な声が響き渡る。それは契約の一環としての返答に過ぎないことが、彼の態度から明白だった。


次に神父はティアナへ問いかける。


「ティアナ・ティレール、あなたはリース・ヴェクター侯爵を夫として迎えることを誓いますか?」


ティアナは喉を締めつけられるような感覚に襲われた。誰もが彼女の答えを待つ中、彼女の心には恐怖と諦めが渦巻いていた。それでも、逃げる術はない。


「……誓います。」


やっとのことで声を絞り出すと、神父は満足そうに微笑み、式を進めた。ティアナにとって、その時間は永遠にも感じられるほど長かった。指輪の交換が終わり、最後の宣言が告げられたとき、ティアナはようやく深く息をついた。


「では、二人は夫婦として結ばれました。」


その言葉に招待客から拍手が起こる。しかし、その音はティアナの心に何の響きももたらさなかった。ただ、形ばかりの祝福が耳を通り過ぎるだけだった。



---


式が終わり、披露宴の場へと移ると、ティアナはさらに重い疲労感に襲われた。リースは彼女のそばに立ちながらも、ほとんど口を開かない。招待客たちが話しかけてきても、彼の返答は冷たく簡潔なものだった。その様子を見た誰もが、彼の無関心さに圧倒され、話題を変える。


「おめでとうございます、ティアナ様。」


何人かの貴婦人が声をかけてくるが、その言葉には本心からの祝福は感じられなかった。彼女たちは皆、ティアナを値踏みするような目で見ている。リースの妻という立場に興味を持ちながらも、彼女自身には大した価値を見出していないのだろう。


(ここにいる誰一人として、私の幸せなんて気にしていない……)


そう思うと、胸の中にわずかな怒りが芽生えた。しかし、それを表に出すことは許されない。ティアナはただ微笑みを浮かべ、形式的な返事を繰り返すだけだった。


披露宴が終わり、再びリースと二人きりになると、彼は冷たい声で言った。


「形式は終わった。お前はもう自由だ。」


「……自由?」


ティアナはその言葉の意味を測りかねた。リースは一瞬だけ彼女を見つめ、それから視線をそらした。


「この結婚は互いの利益のためだ。それ以外の干渉は必要ない。好きに過ごせ。」


その言葉は彼なりの配慮だったのかもしれない。しかし、ティアナにはただ冷たく突き放されるように感じられた。新たな生活が始まるはずの初日――彼女の胸には孤独と絶望だけが深く刻まれていった。



セクション4:婚礼の夜


披露宴の喧騒が静まり、夜の帳が降り始める頃、ティアナは侯爵邸の一室に案内されていた。その部屋は婚礼の夜を迎えるために用意されたもので、豪華な装飾と高価な家具が並んでいるが、その美しさにはどこか冷たさが漂っていた。


ティアナはベッドの端に座りながら、かすかに震える手でドレスの裾を握りしめていた。先ほどの結婚式と披露宴の出来事が頭の中で渦巻き、彼女の心を不安で満たしている。リースが無表情で投げかけた冷たい言葉、そして自分を「契約の一部」としてしか見ていない態度――それらが彼女を容赦なく突き刺していた。


「この結婚は利益のためだ。それ以外に意味はない。」


彼の言葉が何度も脳裏に響き、ティアナは胸が締めつけられるような感覚に襲われた。それでも、この結婚は避けられない運命だった。自分の意思など関係なく、家族のために捧げられた人生だと分かっている。それでも、少しでも温もりを求める心が消えない自分を責めた。



---


ノックの音が響き、扉が静かに開かれた。現れたのはリースだった。彼は昼間と同じく完璧な身なりを崩さず、冷たい瞳でティアナを見つめていた。その視線は鋭く、彼女の内面まで見透かすような圧力がある。


「遅くなったな。」


そう言いながら、リースは部屋に足を踏み入れる。扉が再び閉じられ、二人きりの空間が完成した。その瞬間、ティアナの心臓は大きく跳ね上がる。彼が何を言い出すのか分からず、不安がますます膨れ上がっていく。


リースはゆっくりと彼女に近づき、目の前で立ち止まった。無表情のまま彼女を見下ろし、低い声で言った。


「この結婚について、まず確認しておくことがある。」


「……はい。」


ティアナの声はかすかに震えていたが、彼女は何とか言葉を返した。リースは短く頷き、冷静な声を続けた。


「この結婚は、お互いの家の利益を守るためのものだ。それ以上の感情的なものは必要ない。お前がそれを理解しているなら、今後はお互いに干渉しない。――それが条件だ。」


ティアナは息を呑んだ。彼の言葉は予想していた通りだったが、それでも心に深く刺さる。その冷たさ、そして完全に距離を取ろうとする態度が、彼の人間性を拒絶するかのように感じられた。


「分かりました。」


ティアナはそう答えた。彼の言葉に反論する余地もなければ、その条件を拒む力もない。彼女はただ従うしかなかった。


リースは少しの間彼女を見つめた後、目をそらし、窓辺へと歩み寄った。外の夜空を眺めながら、静かな声で続けた。


「お前に自由を与えるつもりはないが、不必要に束縛するつもりもない。お前がこの屋敷でどう過ごすかは好きにすればいい。ただし、家の名誉に泥を塗るような行動は許さない。それだけだ。」


窓越しに淡い月明かりが彼の横顔を照らしている。その姿は美しいが、同時にどこか孤独を感じさせた。ティアナは彼がどんな人生を歩んできたのかを思わず想像したが、すぐにその考えを振り払った。彼の過去を知る必要はないし、知ることなど許されない。そう思うことで、自分の心を保とうとした。



---


リースは窓から視線を外し、再び彼女の方を向いた。


「今夜はここで休むといい。お前の部屋は別に用意してあるが、今日の疲れを癒すにはこの部屋が適しているだろう。」


それは配慮の言葉に聞こえたが、彼の声には感情が一切こもっていない。ティアナは小さく頷き、「ありがとうございます」とだけ答えた。


リースは無言で部屋を出て行った。扉が静かに閉じられる音が響き、部屋には再び静寂が戻った。ティアナは深く息をつき、ベッドの端に腰を下ろした。その瞬間、涙が頬を伝うのを感じた。



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彼女は自分を責めるように言葉を呟いた。


「これで良かったのよ……これが最善の形なのよ……」


けれど、心の中のどこかでは温もりを求める自分がまだ存在している。それが恥ずかしく、情けなく思えた。リースの冷たさに触れるたび、彼との関係に愛が芽生えることなどあり得ないと分かっているのに。


ティアナは涙を拭い、ベッドに横たわった。重い天蓋が彼女を包み込むが、それは安らぎではなく、まるで鳥籠の中に閉じ込められているような感覚をもたらした。これから始まる新しい生活――「白い結婚」の名にふさわしい、冷たく孤独な夜が彼女を迎えていた。


その夜、ティアナは初めて、自分の未来に愛が訪れることはないのだろうと強く確信した。けれど、それでも彼女の心の中にはどこか小さな希望が残っていた。それが何なのかは、まだ彼女自身にも分からなかった。










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