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第2話 閉ざされた邸宅

セクション1:孤独な新生活


結婚式から数日後、ティアナはリースの広大な屋敷で新しい生活を始めた。屋敷は外観の壮麗さに劣らず、中も見事な調度品や高価な絵画、彫刻が並び、どの部屋も豪奢だった。だが、その空間はどこか冷たく、無機質な印象を与える。温かみが感じられないのは、屋敷全体に漂う張り詰めた空気のせいだった。


ティアナが新生活を始めてすぐに感じたのは、屋敷の静寂だった。屋敷の規模にしては使用人の数が少ないように思えたが、その理由を尋ねることはできなかった。彼らはリースに対して畏怖を抱いているのか、彼の話題を口にすることさえ避けているようだった。


朝食のために広間へ向かうと、すでに整えられた食卓が彼女を迎えた。けれど、そこにリースの姿はない。食事の時間すらも別々にするという取り決めが、彼の口から一方的に告げられたことを思い出し、ティアナは寂しさを感じた。


「奥様、何かご入り用でしょうか?」


控えめな声で尋ねたのは年配の侍女だった。その顔には疲労と緊張が滲んでいる。ティアナは微笑みながら首を振った。


「いえ、大丈夫です。ありがとう。」


侍女はそれ以上話すことなく頭を下げ、静かに部屋を出て行った。彼女の後ろ姿を見送りながら、ティアナはますます孤独を感じた。使用人たちの態度はどれも遠慮がちで、決して彼女と親しくしようとはしない。その理由がリースにあるのだろうことは明白だった。彼らにとって主人は恐れるべき存在であり、その妻であるティアナもまた、一定の距離を保たねばならない相手なのだ。



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日中、ティアナは屋敷を探索して過ごすことが多かった。広大な敷地には数え切れないほどの部屋があり、それぞれが異なるテーマで装飾されている。その美しさに目を奪われることもあったが、どの部屋にも人の気配が感じられず、寂寥感を拭えなかった。


あるとき、彼女は図書室に迷い込んだ。天井まで届く巨大な本棚が並ぶその部屋は、長い間使われていなかったようで、埃っぽい空気が漂っていた。ティアナは手に取った本をパラパラとめくりながら、ここでもまた、リースの影を感じた。知的で整然とした空間――それは彼の性格そのものを反映しているようだった。


(ここでリース様も本を読んだのかしら……)


彼の冷たい表情を思い出しながら、ティアナは椅子に腰を下ろした。だが、彼のことを理解する手がかりはどこにも見つからない。



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そんなある日、ティアナは侍女と話す機会を得た。庭の手入れをしている若い侍女に声をかけてみたのだ。


「お花が綺麗ですね。この屋敷での暮らしは長いの?」


その問いかけに、侍女は驚いたような表情を見せたが、すぐにうつむいて答えた。


「ええ、ここで働いて5年になります。でも……あまりお役に立てているかどうか……」


彼女の言葉には怯えが混じっている。ティアナは穏やかな声で続けた。


「そんなことはないわ。あなたたちのおかげで、この屋敷がこうして美しく保たれているんですもの。」


侍女は小さく頷いたが、それ以上の会話をしようとはしなかった。リースの存在が影を落としているのは明らかだった。彼の過去について尋ねようとしても、誰も話そうとしない。それがティアナの孤独をさらに深めていった。



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夜になると、ティアナの心は一層重く沈んだ。広い寝室に一人で横たわり、彼女は昼間の出来事を反芻した。リースは昼食や夕食の場にも顔を出さず、日中どこで何をしているのかさえも分からない。結婚したとは名ばかりで、彼女は完全に一人だった。


(どうしてこんな生活を続けているの……?)


その問いが何度も心に浮かぶが、答えは見つからない。彼女は目を閉じ、冷たい夜の闇に身を沈めながら、孤独な新生活に耐えるしかない自分を痛感した。




セクション2:手紙が語るもの


屋敷での孤独な生活が続く中、ティアナは昼間の時間を持て余していた。広大な屋敷の中を歩き回り、各部屋を覗きながら、時折目に留まる美術品や装飾に見とれることもあるが、それだけでは心の空虚を埋められなかった。


ある日、彼女は長い廊下を進む途中で、普段は使われていない一室の扉が少しだけ開いているのに気づいた。控えめに中を覗き込むと、埃が薄く積もった古い家具と、大量の書類が無造作に置かれた部屋が目に入った。窓から差し込む淡い光が、まるでその部屋全体に薄いヴェールをかけたようだった。


「……誰かが片付ける途中で放置したのかしら?」


ティアナはつぶやきながら部屋に足を踏み入れた。中には大小さまざまな木箱や、古びた本が山積みにされており、整理されているとは言い難い状態だった。しかし、その雑然とした雰囲気には、何かしらの秘密が隠されているような気配があった。


彼女は慎重に部屋の中を歩き回り、一つの箱に目を留めた。そこには蓋が半開きになった状態で、一部の中身が覗いている。ティアナは静かに箱を開けると、中には古い手紙の束が詰められていた。封筒の端が少し黄ばんでおり、書かれた文字もかすれている。


「これ……誰のものなの?」


疑問を抱きながら、ティアナは一枚の手紙を手に取り、丁寧に広げた。そこに記されていたのは、まだ幼い子どもが書いたような、不揃いでぎこちない文字だった。



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「お母様へ」

「どうして僕を見てくれないの?」

「僕はもっと頑張るから、笑ってほしい。」



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ティアナはその短い文章を読み終えた瞬間、胸が締めつけられるような感覚に襲われた。この手紙を書いたのはリースに違いない。彼の幼少期に関わるものだと直感で感じた。手紙には、母親に対する切実な思いが込められている。それは幼い子どもが愛情を求めても叶わなかった悲しみが滲み出ていた。


さらに手紙をめくると、似たような文面がいくつも続いていた。どの手紙も母親に宛てられたもので、愛情を渇望する言葉が並んでいる。



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「僕を褒めてほしい。」

「お父様はいつも怒ってばかりで、怖い。」

「お母様だけが僕を救ってくれると思ってたのに。」



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ティアナは次第に目が潤んでいくのを感じた。幼いリースがどれだけ孤独で辛い思いを抱えていたのかが手に取るように分かる。その手紙に書かれた感情は、彼の現在の冷たさや感情を抑え込む態度の裏側に隠された背景を示しているように思えた。



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「……こんなことが……」


ティアナは手紙をそっと箱に戻しながら、胸の中に何とも言えない感情が渦巻くのを感じた。リースのことを理解しようとする一方で、自分の立場を思い出し、踏み込むべきではないのではないかという葛藤が生まれる。


しかし、その夜、彼女はどうしても手紙に書かれた言葉を忘れることができなかった。幼いリースが抱えていた孤独と、救いを求める声が彼女の心に深く刻まれてしまったのだ。



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次の日、ティアナは朝食を済ませた後、執事にさりげなく尋ねてみることにした。彼は無表情で丁寧に答えるだけだったが、明らかにその話題を避けたがっている様子だった。


「侯爵様のご両親について……何かご存じですか?」


執事は一瞬だけためらったが、すぐに答えた。


「申し訳ありませんが、奥様、それに関するお話は控えさせていただきます。」


それ以上の質問はできなかったが、ティアナは執事の反応から確信した。リースの両親、特に母親との関係に何かしらの問題があったのだろう。彼の幼少期に触れることは、この屋敷ではタブーとされているのかもしれない。



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その夜、ティアナは窓辺で夜空を見上げながら、静かに思いを巡らせた。


(リース様は、子どもの頃にどれほど辛い思いをしたのかしら……)


彼が冷たい態度をとる理由の一端を垣間見たような気がする。だが、それでも彼の心をどうすれば開けるのかは分からなかった。



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古びた手紙はティアナに新たな気づきを与えたが、同時に彼女を一層孤独にさせた。リースの孤独と彼女自身の孤独が重なり合い、二人の距離はさらに遠く感じられる。屋敷の広さと静けさが、ティアナの心を重く締めつけたまま、また新たな夜が訪れた。


(彼の心の中には、いったいどんな痛みが隠されているのだろう……?)


その答えを知るには、まだ時間がかかりそうだった。



セクション3:冷たい応答


手紙を見つけてから数日が経ったが、ティアナの心にはモヤモヤとした感情が残っていた。リースの幼少期に触れることで、彼の冷たさの理由が少しだけ分かった気がする。しかし、だからといって彼との距離が縮まるわけではない。むしろ、彼の無関心な態度が余計に寂しさを募らせていた。


(どうして彼はあんなに感情を押し殺しているの?)


それを確かめたい――そう思ったティアナは、意を決して彼と話をしようと決めた。新婚でありながら、これまで彼との会話は最小限に留められていた。けれど、何もせずにただ冷たい関係を続けるのは耐えられない。ティアナは心の中で自分を奮い立たせた。



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ある日の午後、彼女はリースの執務室の前に立った。扉の前で深呼吸をし、心を落ち着ける。そして軽くノックをした。


「失礼します、リース様。少しお時間をいただけますか?」


扉の向こうから「入れ」という低い声が聞こえた。彼の声はいつものように冷静で感情が感じられない。それでもティアナは扉を開け、室内へ足を踏み入れた。


執務室の中は彼の性格を映し出しているかのように整然としていた。書類が山積みされた机、壁一面の本棚、そして大きな窓から差し込む光。リースは机に向かって座り、書類に目を落としていたが、ティアナの姿を見ると顔を上げた。


「何の用だ?」


その冷たい言葉に、ティアナの心は一瞬怯んだ。しかし、ここで退くわけにはいかない。彼女は勇気を振り絞り、彼に向き直った。


「リース様、少しだけお話ししたいことがあります。……私たちは夫婦なのに、ほとんど話す機会がありません。それがとても寂しいのです。」


ティアナの声は震えていたが、それでも真剣だった。リースは少し眉をひそめたが、すぐに表情を戻し、冷静な声で応じた。


「夫婦とはいえ、感情的な交流が必要だとは思わない。お前に伝えたはずだ。この結婚は互いの利益のためのものだと。」


彼の言葉はまるで壁のように固く、ティアナの心に突き刺さった。だが、それでも彼の態度の裏にある孤独を知っている今、簡単に諦めるわけにはいかない。


「確かに、この結婚は利益のためかもしれません。でも、それだけで終わらせる必要はないのではないですか?少しでもお互いを知ろうとすることが、何かを変えるきっかけになると思うのです。」


ティアナの言葉に、リースは一瞬だけ目を細めた。その反応にわずかな希望を感じたが、次の瞬間、彼は冷たい声で答えた。


「無駄な感情は不要だ。知る必要もない。お互いに干渉せずにいる方が、余計な問題を生まない。」


その言葉にティアナは言葉を失った。彼の断固とした態度は、まるで自分の心を完全に拒絶するように感じられる。それでも、ティアナはもう一度だけ問いかけた。


「……それでも、私はあなたを知りたいと思います。あなたの本当の気持ちを。」


リースはしばらく無言で彼女を見つめた後、目をそらして書類に目を戻した。


「勝手にすればいい。ただし、私に何かを期待するな。それだけだ。」


その言葉はティアナの胸に重くのしかかった。彼との距離が縮まるどころか、さらに遠く感じられる。それでも、彼女は深くお辞儀をしてその場を後にした。



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部屋を出た後、ティアナは廊下で立ち止まり、窓から見える庭をぼんやりと眺めた。彼の冷たい言葉が何度も頭の中で反芻される。その度に胸が締めつけられるようだった。


(私は彼に何を期待しているのだろう……?)


彼の心を開くことができるかもしれないという淡い希望。それが砕け散った今、彼女は何をすればいいのか分からなくなっていた。



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その夜、ティアナは一人で食卓に座り、無言のまま食事を取っていた。リースの姿はなく、食事中の音は彼女の心をさらに静寂に包み込むだけだった。


「……私は何のためにここにいるの?」


思わず口をついて出たその言葉に、自分自身で驚いた。愛のない結婚、会話もほとんどない夫婦関係。手紙を通じて知った彼の孤独は、かえって自分の孤独を増幅させている気がした。


(それでも……彼を知りたい。彼の孤独に触れたい。)


ティアナの心には矛盾した感情が渦巻いていた。彼に拒絶されてもなお、彼を理解したいという思いが消えない。その思いが彼女を突き動かしているのかもしれないが、果たしてそれが正しい道なのかは分からなかった。


こうして、ティアナの孤独な日々は続いていった。リースとの距離は一向に縮まらず、彼女の心には暗い影が落ちたままだった。しかし、彼を知りたいという思いは、彼女の中で消えることなく燃え続けていた――。

セクション4:影が忍び寄る


結婚生活が始まってから、リースとティアナの間に変化はほとんどなかった。彼の態度は冷たく、表面的な関わりしか持たない生活が続いている。そんな中、ティアナは日々の孤独を紛らわせるため、屋敷内で時間を過ごしていたが、心の中には終始不安が渦巻いていた。


その日は庭に出て、花々を眺めていたティアナに、一人の客人が突然声をかけてきた。


「久しぶりだな、ティアナ。」


その声に振り返ると、そこには見覚えのある男性の姿があった。鮮やかな衣装に身を包んだ彼は、ティアナの過去を知る人物だった――かつて婚約者だったアルト・ルーセル侯爵家の放蕩息子だ。


「アルト……どうしてここに?」


ティアナは驚きと戸惑いの混じった声を出した。アルトは優雅に笑みを浮かべながら歩み寄ると、彼女の手を取ろうとした。ティアナは反射的に一歩後ずさり、彼を警戒する。


「どうして……と聞かれるのは少し悲しいな。君が僕を捨ててこの冷たい屋敷に嫁いだ理由を確かめに来ただけさ。」


アルトの口調は軽薄だったが、その言葉の裏には挑発的な意図が隠れている。ティアナは不快感を覚えながらも、冷静さを保とうとした。


「私は家のために選んだ道です。あなたがそれを理解できなくても、私には関係ありません。」


そう言い放つティアナに対し、アルトは鼻で笑うような仕草を見せた。


「なるほど、家のため、か。でも、本当にそれだけか?君がここでどんな生活をしているのか、少し調べさせてもらったよ。」


ティアナの顔がこわばった。彼の言葉が示すものに胸がざわつく。アルトはゆっくりと庭を歩きながら続けた。


「この屋敷では、君がまるで囚われた鳥のように過ごしていると聞いた。リース侯爵との結婚は形式的なもので、君は彼から何の愛情も得られていないとか。」


ティアナはアルトの言葉に反応することができなかった。それが事実であることを彼に認めたくなかったからだ。けれど、彼の言葉は鋭く、ティアナの心の奥深くを抉るようだった。


「君がここに来たのは、ただの犠牲だ。家族のために自分を差し出しただけ。君は自分の幸せを考えたことがあるのか?」


アルトの問いかけに、ティアナは唇を噛み締めた。彼の言葉は的を射ているようで、同時に侮辱的だった。彼女は何とか気持ちを落ち着け、毅然とした態度で答えた。


「私の人生は、私自身が決めるものです。たとえ不幸だとしても、それを他人に指摘される筋合いはありません。」


ティアナの言葉にアルトは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべた。


「強くなったな、ティアナ。でも、その強さがどれだけ持つか見ものだよ。……君がこの冷たい籠の中で耐えきれなくなる日が来たら、いつでも僕を頼るといい。」


アルトはそう言い残して庭を去った。その後ろ姿を見つめながら、ティアナは心の中で怒りと不安が渦巻いているのを感じた。



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その夜、ティアナは一人で寝室に戻ったが、アルトの言葉が頭の中で反芻されていた。


(私は本当に不幸なの?……自分でも分からない。)


リースとの冷たい関係、孤独な生活、そして何をしても変わらない現実。それが彼女を苦しめていた。アルトの言葉は真実を突いているようでありながら、同時に彼女の心に不必要な動揺を与えた。


(アルトの言葉に振り回される必要はない。私はここで自分の役割を果たすだけ。)


そう自分に言い聞かせても、胸の中のざわつきは収まらなかった。リースに愛を求めることが無意味だと分かっていても、どこかで彼との距離を縮めたいと思う自分がいる。それがいっそうティアナの心を苦しめた。



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次の日、ティアナは何事もなかったかのように振る舞った。しかし、屋敷の冷たい空気は変わらず、孤独な生活が続いていた。彼女の心の中には、アルトの言葉が残した小さな棘が深く刺さったままだった。それはやがて大きな傷へと広がるのか、それとも彼女自身が乗り越えるのか――その答えはまだ見えなかった。


こうして、ティアナの閉ざされた邸宅での生活には、新たな不安の影が忍び寄っていた。アルトとの再会は、彼女の心に静かに波紋を広げ、彼女自身の未来を問いかけるきっかけとなったのだった。








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