セクション1:忍び寄る危機
ティアナがリースの屋敷に嫁いでから数か月が経ち、日々の孤独な生活に少し慣れた頃、屋敷に異変が起きた。ある朝、使用人たちの間に不穏な噂が広まり、彼らの顔には緊張と不安が浮かんでいた。普段は静かに仕事をこなす侍女たちも、何かに怯えた様子でささやき合っている。
ティアナはその様子を見て胸騒ぎを覚えた。朝食の後、彼女は侍女長のアンナを呼び止め、事情を尋ねた。
「アンナ、この屋敷で何か問題が起きているの?皆が何かを隠しているように見えるわ。」
アンナは一瞬口ごもったが、やがて観念したように答えた。
「実は……最近、侯爵様の商売敵が不正な手段で利益を得ているという情報が広がっております。それが原因で、侯爵様の事業にも影響が出始めているのです。」
「それが、この屋敷にも関係があるの?」
「はい、奥様。実は、その影響で一部の使用人の給料が遅れることになりそうだと……。使用人たちは皆、不安を抱えております。」
アンナの言葉にティアナの胸が重くなった。使用人たちはこの屋敷を支える存在であり、彼らの生活が不安定になれば、屋敷全体に悪影響を及ぼすのは明らかだ。
「それなら、リース様にこのことを相談しなければいけないわね。」
ティアナは決意を固めた。彼の冷たい態度を恐れる気持ちはあったが、放っておくことはできなかった。彼女はリースの執務室に向かい、扉をノックした。
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「入れ。」
扉の向こうから低い声が響く。ティアナは深呼吸をしてから扉を開けた。リースは机に向かい、書類に目を通していたが、彼女が入ってきたことに気づくと顔を上げた。
「何か用か?」
いつものように冷静で感情の読めない声だったが、ティアナは臆せず口を開いた。
「リース様、この屋敷で問題が起きています。使用人たちの間に不安が広がっているようです。」
リースは眉をひそめたが、それ以上の反応は示さない。ティアナは続けた。
「あなたの商売敵が不正を働いていると聞きました。それが原因で、使用人たちの給料に影響が出る可能性があるそうです。彼らはこの屋敷を支える重要な存在です。彼らが安心して働けるよう、どうにか手を打つ必要があるのではないでしょうか?」
リースはしばらく無言のまま彼女を見つめた。その目には冷たさが宿っているが、彼女の言葉を真剣に聞いているようにも感じられた。
「……お前が使用人たちのことを気にかけるのは感心だ。しかし、商売の問題に口を挟むのは無意味だ。私が必要だと判断すれば対処する。」
彼の言葉は冷淡に聞こえたが、ティアナは引き下がらなかった。
「必要だと判断するのでは遅すぎるかもしれません。使用人たちはすでに不安を抱えています。それを放置すれば、屋敷全体の士気が下がるだけではなく、さらなる問題を引き起こす可能性があります。」
リースは再び彼女をじっと見つめた。その瞳の奥には何か考え込んでいるような光が見えたが、それを表情には出さなかった。
「分かった。対処すると約束しよう。」
その短い言葉にティアナはほっとしたが、彼の態度が変わったわけではないことを感じ取った。リースは再び書類に目を落とし、彼女に背を向けるようにした。
「これで話は終わりだ。後は私に任せろ。」
ティアナは一礼して執務室を後にした。彼の冷淡な態度は変わらなかったが、少なくとも彼が行動に移してくれるという確信を得たことは大きな前進だった。
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その日の夜、ティアナは自室で一人、今日の出来事を振り返っていた。リースに訴えたことで、彼が問題に向き合う姿勢を見せてくれたことに小さな希望を感じた。けれど、彼との距離は依然として遠いままだ。
(彼は本当にこの問題を解決してくれるのかしら……)
不安と期待が交錯する中、ティアナは眠りについた。その答えを知るのは、まだ少し先のことだった。
セクション2:冷たさの裏にある責任感
翌朝、ティアナは屋敷の雰囲気がいつもと違うことに気づいた。使用人たちはどこか緊張しており、動きが慌ただしい。リースが行動を起こしたのだと直感したティアナは、その様子を静かに観察しつつ、彼が何をしているのかを確かめたいという気持ちを抑えられなかった。
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昼過ぎ、彼女は執事のアンナを呼び止め、問いかけた。
「リース様は今どこにいらっしゃるの?何か大きなことをしているみたいだけど。」
アンナは困ったように目を伏せたが、正直に答えた。
「侯爵様は朝早くから執務室で各地の書類を確認されております。そして、この問題に関与している商人たちとの連絡を取り合い、指示を出されています。」
「商人たちと連絡を取っている……?」
ティアナは驚いた。リースがこれほど迅速に動き出すとは予想していなかった。彼は冷たい態度で「任せろ」と言っただけだったが、実際にはすぐに行動を開始し、事態の収拾に取り組んでいるようだった。
「彼は……本当に問題を解決しようとしているのね。」
アンナは小さく頷いた。
「侯爵様は無駄を嫌う方です。必要だと判断されたことについては、必ず対応されます。」
その言葉にティアナは胸が締めつけられるような感覚を覚えた。彼の冷たい態度の裏にある責任感を垣間見た気がしたのだ。
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ティアナはいてもたってもいられず、リースに直接会って話を聞こうと決心した。彼の執務室に向かい、扉をノックする。
「入れ。」
扉を開けると、リースが机に向かって書類を整理しているのが見えた。机の上には膨大な量の書類が積み上げられ、彼がどれほど多くの仕事を抱えているのかが一目で分かる。
「リース様、少しお話ししてもいいですか?」
リースは顔を上げ、冷静な目で彼女を見た。
「手短にしてくれ。まだやるべきことが山積みだ。」
その言葉にティアナは少し躊躇したが、勇気を振り絞って話し始めた。
「あなたがこんなに早く行動を起こしてくださったことに驚きました。そして感謝しています。使用人たちの不安が解消されるといいですね。」
リースは少し眉をひそめた。
「当然のことだ。この屋敷を運営するには彼らの働きが必要だ。それを損なうわけにはいかない。」
「でも、あなたがこんなにすぐに動くとは思いませんでした。」
ティアナの率直な言葉に、リースは短く息をついた。
「私は無駄を嫌う。それだけのことだ。感情で行動するより、結果を出す方が重要だろう。」
その冷静な態度に、ティアナは少し胸を痛めた。しかし同時に、彼の責任感が彼の本質の一部であることを理解し始めていた。
「それでも……あなたがこうして動いてくださったことで、屋敷の人々は安心すると思います。彼らにとって、あなたが頼りになる存在であることは間違いありません。」
リースは彼女の言葉に反応せず、再び書類に目を戻した。そして、事務的な口調で言った。
「話はそれだけか?」
ティアナは短く頷いた。
「ええ。それだけです。お邪魔しました。」
彼女は軽くお辞儀をして執務室を後にした。
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部屋を出た後、ティアナは廊下で立ち止まり、深く息をついた。リースの態度は相変わらず冷たかったが、その裏にある行動力と責任感を知ったことで、彼に対する印象が少し変わった気がした。
(彼は冷たい人だけれど、その冷たさの中に隠された優しさがあるのかもしれない……)
そんな思いが胸の中に広がる。彼の冷静な態度の裏にある本当の彼を知ることができれば、二人の距離も少し縮まるのではないか――そう感じる自分に気づいた。
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その夜、ティアナは夕食を終えて部屋に戻った後、窓辺でぼんやりと外を眺めていた。リースのことを考えると、彼がどれほどの責任を抱え、それを一人で背負っているのかが気になって仕方がなかった。
(彼はいつも一人で全てを背負っているのね……)
その孤独を知りながらも、それを打ち明けることのできない彼の姿を思うと、ティアナの胸は切なさでいっぱいになった。彼女の中で芽生え始めたリースへの興味と共感は、これから二人の関係に小さな変化をもたらすかもしれなかった――。
セクション3:体調を崩したティアナ
屋敷の使用人たちの不安が少しずつ和らぎ始めた頃、ティアナは自分の身体に異変を感じ始めていた。最初は軽い疲労感だけだったが、日を追うごとに倦怠感が増し、頭痛や寒気が襲うようになった。それでも、彼女はリースとの距離を縮めるために屋敷の中で過ごす日々を無理に続けていた。
その朝、彼女は目覚めると同時に身体の重さに気づいた。立ち上がろうとするも、体がだるく、頭がくらくらする。ティアナはベッドの端に座り込み、なんとか気を振り絞って着替えを済ませたが、顔色は青白く、侍女たちはすぐに異変に気づいた。
「奥様、大丈夫ですか?お顔の色が悪いようですが……。」
侍女が心配そうに声をかけるが、ティアナは無理に微笑みを浮かべて答えた。
「ありがとう、大丈夫よ。ただ少し疲れているだけ……。」
侍女はさらに何かを言おうとしたが、ティアナが静かに首を振るのを見て、それ以上は口を閉じた。
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その日の昼過ぎ、ティアナは再び強い倦怠感に襲われ、廊下で足をもつれさせてしまった。なんとか壁に手をついて倒れずに済んだものの、ふらつく体を支えながら廊下を歩いているところを、偶然リースに見られてしまった。
「……ティアナ?」
彼の低い声が廊下に響いた。ティアナは驚いて顔を上げたが、視界がぼやけ、リースの表情をはっきりと見ることができなかった。
「私は……大丈夫です……少し疲れているだけで……」
彼女が言い終わる前に、リースは素早く彼女のもとへ駆け寄り、腕を支えた。その手は冷たくも力強く、彼の意外な行動にティアナは驚いた。
「黙れ。お前は全然大丈夫ではない。」
リースはそう言うと、彼女を軽々と抱き上げた。その瞬間、ティアナの視界は完全に暗くなり、意識を手放した。
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次に目を覚ましたとき、ティアナは自分が寝室のベッドに横たわっているのを感じた。ふわふわとした感覚の中で、隣の椅子に座るリースの姿が見えた。彼は彼女の顔をじっと見つめており、その表情には普段の冷たさとは異なる、どこか真剣なものがあった。
「目が覚めたか。」
リースの低い声が耳に届く。ティアナはかすれた声で答えた。
「……リース様……私は……」
「黙って休め。医師を呼んだ。もうじき来るはずだ。」
その言葉にティアナは驚いた。リースがわざわざ医師を呼ぶほど自分の体調を心配してくれたのだ。彼の冷たい態度の裏に隠された優しさを感じ、胸がじんと熱くなる。
「ありがとうございます……でも、そこまでしていただくほどでは……」
彼女が言い終わる前に、リースは厳しい声で遮った。
「お前は何を勘違いしている?お前が倒れることは、この屋敷にとっても俺にとっても迷惑だ。それ以上の意味はない。」
そう言い放つ彼の言葉は冷たかったが、その瞳にはわずかな動揺が見えた。彼の不器用な優しさを感じ取り、ティアナは微かに微笑んだ。
「……それでも……感謝します。」
リースはそれ以上何も言わず、椅子に座ったまま彼女の顔をじっと見つめていた。その静寂の中、ティアナは彼の存在を身近に感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
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数時間後、医師が到着し、ティアナを診察した結果、過労と軽い風邪だと診断された。医師が部屋を出て行った後、リースはベッドの横に立ち、短く言った。
「しばらく休め。それが最優先だ。」
「はい……。」
ティアナは弱々しく答えたが、心の中では彼への感謝と温もりが広がっていた。冷たく見える彼の行動の裏には、確かに彼なりの優しさと気遣いがあった。それを知ったことで、ティアナは彼との距離がほんの少し縮まった気がした。
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その夜、ティアナは寝室で一人、リースのことを思い返していた。冷たい態度の裏に隠された優しさに気づいたとき、彼に対する感情が少しずつ変わり始めているのを感じた。
(彼は不器用な人だけど、本当は誰よりも繊細なのかもしれない……)
そう思うと、彼の心にもっと近づきたいという気持ちが生まれた。そして、彼女の中で何かが静かに芽生え始めていた――それは、リースに対する新たな感情の種だった。
セクション4:失われた絆
ティアナの体調が少しずつ回復してきた頃、彼女は屋敷内でリースと過ごす時間がほんの少しだけ増えていた。それでも彼の態度は相変わらず冷淡で、必要以上の会話を避けるようにしていたが、ティアナはその裏に隠された優しさを徐々に感じ取れるようになっていた。
その日、夕食後の静けさの中、ティアナはリースの執務室の前に立っていた。彼と話をしたい気持ちはあったが、何を言えばいいのか分からず、扉をノックする勇気を出せずにいた。ためらっていると、扉の向こうからリースの声が響いた。
「そこにいるのはお前か、ティアナ?入れ。」
彼が気づいていたことに驚きながらも、ティアナは扉を開けた。リースは机に座り、書類を整理していたが、彼女が入ると手を止めて顔を上げた。その鋭い目にはいつもの冷静さが宿っているが、どこか疲れたようにも見えた。
「どうした?」
彼の問いに、ティアナは一瞬言葉を詰まらせたが、意を決して話し始めた。
「リース様……もしよければ、少しお話をしてもいいですか?」
リースはしばらく彼女を見つめていたが、やがて深いため息をついて椅子に背を預けた。
「好きにしろ。」
その言葉に少し安心し、ティアナは執務室の隅に置かれた椅子に座った。部屋には静寂が流れ、ティアナは何から話を切り出せばいいのか迷った。だが、ふと目に入った机の上の小さな写真立てが、彼女の興味を引いた。
「……その写真は?」
ティアナが指差したのは、小さな少女が笑顔を浮かべている古い写真だった。リースは一瞬表情を硬くしたが、やがて淡々と答えた。
「……妹だ。」
その一言にティアナは目を見開いた。リースの家族について詳しく聞いたことはなかったが、彼が妹について語るのは初めてのことだった。
「妹さん……とても可愛らしい方ですね。」
ティアナが優しく微笑むと、リースは少しだけ目を伏せた。彼の瞳には、普段とは違う感情が宿っているように見えた。
「彼女は俺にとって唯一、心を許せる存在だった。」
リースの声にはわずかな震えが混じっていた。その言葉を聞き、ティアナは彼がどれほど深い絆を妹と共有していたのかを感じ取った。
「……何があったんですか?」
ティアナが慎重に尋ねると、リースはしばらく黙り込んだ。そして、低い声で話し始めた。
「彼女は俺がまだ10代だった頃、病で亡くなった。幼い頃から体が弱く、俺が守らなければならないと思っていた存在だったのに、俺には何もできなかった。」
彼の言葉には自責の念が込められていた。その姿に、ティアナは胸が締め付けられるような思いを抱いた。
「リース様……」
「彼女は、俺が唯一心から愛した家族だった。それ以外の家族は……俺にとって意味がない。父は支配者でしかなく、母は……冷たかった。」
リースの表情は硬く、その声には深い喪失感が滲んでいた。彼の過去を初めて知ることで、ティアナは彼の冷たい態度の裏にある痛みを理解した気がした。
「だから、お前に優しくするつもりはない。誰も守れなかった俺が、お前を守る資格などない。」
リースの言葉に、ティアナは強い衝動に駆られた。彼の孤独を埋めたい、彼を少しでも救いたいという気持ちが沸き上がったのだ。
「そんなことはありません……」
ティアナは震える声で言葉を続けた。
「リース様がどれほど孤独だったとしても、あなたには人を守る力があるはずです。私は、あなたが私を守ってくれていると感じています。それだけで十分です。」
彼女の言葉にリースは目を見開き、しばらく何も言わなかった。そして、短く息を吐き出すと、再び彼女に向き直った。
「……お前は変な女だな。俺のような人間を理解しようとするなど。」
その言葉にはわずかに柔らかさが含まれていた。ティアナは微笑みながら、そっと彼を見つめた。
「私が変だとしても、リース様がそのままでいてくれるなら、それでいいと思います。」
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その夜、ティアナは自室に戻り、リースとの会話を思い返していた。彼の冷たさの裏にある悲しみと孤独を知ったことで、彼女の中で何かが変わり始めていた。
(リース様……あなたは本当はとても優しい人なのかもしれない。)
彼の心に少しでも触れることができたと感じたティアナは、彼との距離がほんのわずか縮まったような気がした。その感覚が、彼女にとって大きな希望となったのだった。