セクション1:忍び寄る罠
ティアナがリースとの距離を少しずつ縮めていると感じ始めた矢先、屋敷に不穏な空気が流れ始めた。使用人たちはいつも以上にそわそわしており、廊下を行き交う足音が落ち着かない。ティアナもその異変に気づき、執事のアンナに尋ねた。
「アンナ、この数日間、何か起きているのですか?」
アンナは一瞬言葉を詰まらせたが、やがて慎重に答えた。
「実は……侯爵様の政敵であるモラン伯爵が、最近活発に動いているという情報が入っています。彼が侯爵様を貶めるため、何か計画を練っているのではないかと……。」
その言葉にティアナの胸はざわついた。モラン伯爵の名は以前から耳にしており、リースの政治的な敵対者として知られていた。彼の陰謀がリースに及ぶ危険を察したティアナは、心の中で警戒を強めた。
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その夜、ティアナが庭を散歩していると、背後から低い声が響いた。
「おや、こんな夜更けにお一人で?」
振り返ると、そこにはモラン伯爵が立っていた。彼の顔には柔らかな微笑みが浮かんでいたが、その目には計算高い光が宿っていた。
「あなたが……モラン伯爵ですか?」
ティアナは冷静さを保ちながら尋ねた。伯爵は軽く頭を下げ、彼女に近づいた。
「お噂はかねがね伺っておりますよ、ティアナ様。美しく聡明な侯爵夫人だと。」
その言葉にティアナは微かに眉をひそめた。伯爵の態度は丁寧だが、その裏にある意図が透けて見えるようだった。
「それで、何のご用でしょうか?」
彼女の問いに、伯爵は低い声で囁くように答えた。
「実は……あなたに協力をお願いしたいのです。」
「協力……ですか?」
ティアナは慎重にその言葉を繰り返した。伯爵はさらに一歩近づき、その声をさらに低くした。
「ええ。あなたもご存じの通り、侯爵は冷酷で感情を持たない男だ。あなたのような方が彼の妻として苦しんでいる姿を見るのは、私にとっても心苦しい。しかし、もしあなたが私に協力していただけるなら……」
「それはどういう意味でしょうか?」
ティアナは彼の言葉を遮りながら冷静に問い詰めた。伯爵の目がわずかに細まり、彼の意図が明確になった。
「簡単なことです。リース侯爵の弱みを私に教えていただきたいのです。それさえあれば、彼を失脚させ、あなたを解放することができます。」
その言葉にティアナの心臓が一瞬跳ね上がった。彼女の中には怒りと不安が入り混じる。リースの失脚はこの屋敷全体、そして領地の人々に大きな影響を与える。伯爵の提案を断ることは簡単だったが、彼の次の動きが読めない以上、ティアナは彼を警戒しつつも冷静を装った。
「その話……少し考えさせていただけますか?」
伯爵は意外そうな表情を浮かべたが、すぐに満足げに微笑んだ。
「もちろんです。ご賢明なご判断をお待ちしておりますよ、ティアナ様。」
そう言い残し、伯爵は庭の闇の中に消えていった。ティアナはその場に立ち尽くしながら、彼の言葉が何を意味するのかを必死に考えた。
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翌朝、ティアナはリースに相談すべきかどうか悩んでいた。彼に知らせれば、彼女が伯爵と接触したことで怒りを買う可能性がある。しかし、何も言わずに動けば、事態がさらに悪化する危険性もある。
(私は彼を守るために何ができるの……?)
ティアナは深く息をつき、決意を固めた。伯爵の罠に飛び込むふりをしながら、リースを守るための手段を模索する。それが唯一の選択肢のように思えた。
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その日の午後、ティアナは侍女のアンナに短い言葉を残した。
「もし私が何かに巻き込まれることがあったら、必ずリース様に伝えてください。」
アンナは不安そうな表情を浮かべたが、ティアナの決意に気づき、頷いた。
「分かりました、奥様。でも、どうかご無事で……」
ティアナは微笑みを返し、心の中で自分に言い聞かせた。
(私はリース様を守る。彼がどんなに冷たくても、それが私の役目だから。)
こうして、ティアナは自分を利用しようとする伯爵の罠に飛び込む準備を始めた。それは、リースを守るための危険な賭けだった――。
セクション2:叱責と信頼
モラン伯爵の罠に気づきつつも、ティアナは彼の計画にあえて飛び込む道を選んだ。リースを守るために自分が犠牲になる覚悟はあったが、その行動がどんな結果を招くのか、心の中には一抹の不安が渦巻いていた。
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翌日、モラン伯爵から密会の場所が伝えられた。それは街外れの古い倉庫だった。侍女のアンナに「少し外に出る」とだけ伝え、ティアナは屋敷を出た。倉庫に到着すると、薄暗い中にモラン伯爵が立っていた。彼の顔には勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
「来てくれるとは思わなかった。さすがは賢明な侯爵夫人だ。」
「あなたの提案について話を聞きに来ただけです。」
ティアナは冷静を装いながら、伯爵に近づいた。伯爵は彼女の言葉を聞き流し、懐から小さな封筒を取り出した。
「これはリース侯爵が関与しているとされる不正の証拠だ。だが、これを公にするには、あなたの協力が必要だ。」
ティアナはその封筒を手に取り、中身を確認した。そこにはリースが商取引で不正を働いたとされる偽造書類が含まれていた。
「あなたはこれでリース様を貶めるつもりなのですね。」
「そうだ。そして、その計画を進めるには、あなたの証言が必要だ。あなたが彼の妻として公の場で発言すれば、誰も疑わないだろう。」
その言葉にティアナの胸に怒りが湧き上がったが、それを表に出さずに答えた。
「少し時間をいただけますか?考える時間が必要です。」
「もちろんだ。ただし、時間は限られている。賢明な判断を期待しているよ。」
伯爵はそう言うと満足げに笑い、倉庫を去った。
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ティアナが屋敷に戻ると、リースが待ち構えていた。彼は怒りを抑えた冷たい表情で彼女を見つめ、低い声で問いかけた。
「どこに行っていた?」
その問いに、ティアナは隠し事をするべきではないと感じ、モラン伯爵と会ったこと、そして彼の計画についてすべてを話した。リースの表情は次第に険しくなり、話が終わると、彼は怒りを露わにした。
「余計なことをするなと言っただろう!」
リースの怒声が部屋に響いた。その言葉にティアナは胸が締めつけられるような思いを抱いたが、怯まずに彼を見つめた。
「私が何もしなければ、あなたが危険にさらされることは明らかでした。私は……あなたを守りたかったのです。」
リースは彼女の言葉に一瞬だけ動揺したように見えたが、それをすぐに隠し、冷たい声で答えた。
「俺を守る?そんなことは必要ない。俺は自分の力で何とかする。お前は自分の立場を忘れるな。」
その言葉にティアナは悔しさと悲しみを感じた。彼の言葉の裏には彼女を巻き込みたくないという思いが隠れているのかもしれないが、彼女にはそれを確認する術がなかった。
「……分かりました。でも、私はあなたが思っているほど弱くはありません。」
ティアナの言葉に、リースはしばらく何も言わず、彼女をじっと見つめていた。そして、短く息を吐き出すと、背を向けて部屋を出て行った。
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その夜、ティアナは自室で一人、リースとのやり取りを思い返していた。彼の怒りの裏には彼女を守りたいという気持ちがあるのかもしれない。しかし、それを素直に伝えられない彼の不器用さが、二人の間に壁を作っている。
(私は彼を守りたいだけなのに……)
そう思いながらも、ティアナはリースに頼られる存在になるために何ができるのかを考え続けた。
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翌朝、ティアナはリースに謝罪しようと執務室を訪れたが、彼は不在だった。代わりに、侍女のアンナから「侯爵様が急用で外出された」と聞かされ、不安が胸をよぎった。
(リース様……どうか無事でいてください。)
彼女の祈りにも似た思いは、彼女が再び危険に飛び込む決意を固めるきっかけとなった。ティアナはまだ、この陰謀が彼女とリースをどれほど大きく試すことになるのかを知らなかった――。
セクション3:リースの危機
リースが急に屋敷を出た翌朝、ティアナは何か不穏な予感を感じていた。執事のアンナに尋ねても「侯爵様は重要な商談に向かわれました」としか答えない。しかし、その曖昧な説明が余計に不安を煽った。
ティアナは何度もリースの執務室を訪れ、残された書類を確認しようとしたが、彼が何を計画しているのかは掴めなかった。屋敷の空気もいつも以上に重く、使用人たちが互いに目を合わせないようにしているのが目に入った。
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その日の午後、ティアナのもとに一通の手紙が届いた。それは見慣れない筆跡で書かれた短いもので、彼女の不安を一気に掻き立てた。
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「リース侯爵は現在、モラン伯爵の手の中にいる。助けたければ、一人で来い。」
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手紙を読んだ瞬間、ティアナの手が震えた。リースがモラン伯爵の罠にかかったのだと知り、彼女の胸には恐怖と怒りが渦巻いた。同時に、彼を救わなければという強い決意が湧き上がる。
「一人で来い……」
その言葉に躊躇いを覚えながらも、ティアナは屋敷を出る準備を整えた。執事や侍女たちに知られれば止められるのは目に見えている。彼女は誰にも気づかれないように屋敷を抜け出した。
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手紙に書かれていた場所は、領地から少し離れた廃墟のような屋敷だった。夕暮れ時、ティアナがそこに到着すると、周囲には人の気配がなく、ひっそりと静まり返っていた。しかし、屋敷の中からはかすかに人の声が聞こえる。
(リース様……無事でいてください。)
心の中でそう祈りながら、ティアナは慎重に屋敷の中へ足を踏み入れた。薄暗い廊下を進むと、大広間に通じる扉が見えてきた。声はその向こうから聞こえる。
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そっと扉を押し開けると、そこには椅子に縛り付けられたリースの姿があった。彼は冷静な表情を保ちながらも、鋭い目でモラン伯爵を睨んでいた。伯爵は勝ち誇ったように笑みを浮かべ、リースの前に立っている。
「おやおや、ティアナ夫人。やはりお越しいただけましたか。」
モラン伯爵はティアナに気づき、彼女に向けて手を広げた。その動きに、部屋の隅に控えていた男たちが一斉に振り向く。
「ティアナ、ここに来るな!」
リースが低い声で叫ぶが、ティアナはその声に怯まず伯爵の前に立った。
「モラン伯爵、これは一体どういうつもりですか?リース様を解放してください。」
ティアナの声は震えていたが、その瞳には強い決意が宿っていた。伯爵はその様子を見て、さらに嘲笑を深めた。
「解放するかどうかはあなた次第です、ティアナ夫人。あなたが私の要求に応じるのであれば、彼を自由にして差し上げましょう。」
「要求……?」
「ええ、簡単なことです。あなたが公の場でリース侯爵の不正を告発し、彼の名誉を地に落とす。それだけでいい。」
その言葉にティアナは驚愕し、息を飲んだ。リースを救うために彼を貶めるなど、到底できることではない。
「そんなことはできません!」
きっぱりと拒絶したティアナに、モラン伯爵は冷たい笑みを浮かべた。
「ならば彼の命はここで尽きることになります。それでも構わないと?」
その言葉にティアナは拳を握りしめ、必死に考えを巡らせた。どうすればリースを救い、伯爵の思惑を阻止できるのか。彼女の中で焦りと葛藤が交錯した。
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その時、ティアナの脳裏にひらめきが浮かんだ。彼女は冷静を装い、伯爵に向き直った。
「……分かりました。あなたの要求に従います。ただし、その前にリース様を解放してください。」
その提案に伯爵は少し驚いた表情を見せたが、すぐに満足げに頷いた。
「いいでしょう。ただし、ここでの約束を破れば、二人とも無事では済まないと思ってください。」
伯爵がリースに縛られた縄を解かせた瞬間、ティアナは隙をついて部屋の隅にあった燭台を掴み、それを床に叩きつけた。燭台が割れる音が響き渡り、部屋にいた男たちが一瞬動揺した。
「リース様、逃げてください!」
ティアナの叫びを聞いたリースは、即座に体を起こし、混乱の中でモラン伯爵を突き飛ばした。伯爵はバランスを崩し、部下たちが対応に追われる間に、リースはティアナの手を掴んで部屋を飛び出した。
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二人は屋敷の外に出ると、一気に距離を取った。暗闇の中、リースは息を整えながら、ティアナをきつく見つめた。
「どうしてあんな危険な真似をした?」
その問いに、ティアナは力強く答えた。
「私はあなたを守りたかった。それだけです。」
リースはしばらく彼女を見つめていたが、やがて短く息をつき、そっと彼女の手を握った。
「……馬鹿な女だ。だが、感謝する。」
その言葉にティアナは驚き、そして微笑んだ。冷たい態度の裏で彼が見せた初めての感情に、彼女は確かな絆を感じたのだった。
セクション4:心の扉
ティアナとリースがモラン伯爵の罠から逃れて屋敷に戻った頃には、すっかり夜も更けていた。リースの顔には怒りと疲労が浮かんでおり、屋敷に戻るなり彼は執務室に直行した。ティアナもその後を追おうとしたが、彼が扉を強く閉めた音を聞いて足を止めた。
(リース様……どうして何も言わないの?)
彼を救うために必死に行動した自分を責められるのではないか、そんな不安がティアナの胸をよぎる。しかし、そのまま黙って引き下がるわけにはいかないと、彼女は意を決して執務室の扉をノックした。
「入れ。」
短い返事が返ってくる。ティアナがそっと扉を開けると、リースは机の前に座り、書類を眺めていた。しかし、彼の手は動いておらず、その目はどこか虚ろだった。
「……お話しできますか?」
ティアナが慎重に声をかけると、リースは目を閉じて深くため息をついた。
「話すことなどない。お前はもう部屋に戻れ。」
その冷たい言葉に、ティアナは一瞬怯んだが、すぐに首を振って彼に向き直った。
「私には話したいことがあります。どうしても、あなたに伝えなければならないんです。」
その決意を感じ取ったのか、リースは彼女をじっと見つめた。その目には冷たさだけでなく、どこか深い戸惑いが見えた。
「……好きにしろ。」
彼はそう言うと椅子に背を預け、腕を組んで彼女を見上げた。ティアナは深呼吸をしてから、彼に向かって静かに話し始めた。
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「私は、あなたを守りたいと思ったんです。モラン伯爵の計画を知ったとき、ただ黙って見過ごすことなんてできませんでした。あなたがどれだけ冷たくても、どれだけ私に何も期待していなくても、私はあなたが……」
そこまで言ったとき、言葉が詰まった。自分の本心をすべてさらけ出すのが怖かった。しかし、彼の視線を感じると、もう後戻りはできないと悟った。
「……あなたが、私にとって大切な人だからです。」
その言葉にリースの目が驚きに見開かれた。彼はしばらく何も言わず、ただティアナを見つめていた。そして、低い声で静かに言葉を返した。
「……大切な人?お前が俺を?」
「はい。」
ティアナは力強く頷いた。彼がどんな反応を示そうとも、自分の気持ちを偽ることはできなかった。
「私があなたを守りたいと思うのは、私があなたを信じているからです。あなたは冷たく見えるけれど、本当は誰よりも優しい人だと分かっています。そして……私は、あなたに少しでも心を開いてほしいと思っています。」
その言葉にリースは再び目を伏せた。彼の顔には深い苦悩が浮かび、手が強く握られていた。
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しばらくの沈黙の後、リースは低い声で語り始めた。
「……俺は、誰も信じられない。幼い頃から、信じようとした相手には裏切られ、利用されてきた。母も、父も、俺の存在などどうでもよかった。唯一俺を必要としてくれたのは妹だけだった。」
彼の言葉には深い悲しみが込められていた。ティアナは彼の痛みを感じ取りながら、そっと彼に近づいた。
「リース様……私は、あなたを裏切りません。どんなことがあっても、あなたの側にいます。」
その言葉にリースは顔を上げ、ティアナを見つめた。その目には微かな光が宿っていた。
「……お前は、本当に変わっているな。俺のような男を信じるとは。」
彼の言葉には冷たさはなく、どこか安堵のような響きがあった。ティアナは微笑みを浮かべながら、そっと彼の手に触れた。
「変わっているのはお互い様です。私がこうしてあなたを信じるのは、きっと運命のようなものだと思っています。」
リースはしばらく彼女の手を見つめていたが、やがてゆっくりと彼女の手を握り返した。その瞬間、二人の間にあった氷の壁がわずかに崩れ落ちたように感じられた。
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「……お前がそこまで言うのなら、俺も変わらなければならないのかもしれないな。」
リースの言葉にティアナは驚き、そして嬉しさが胸に広がった。彼が初めて自分の気持ちを少しでも認めてくれたのだと感じた。
「ありがとうございます。あなたがそう言ってくれるだけで、私は十分です。」
その夜、ティアナは初めてリースの心の扉が少しだけ開いたのを感じながら、自室に戻った。二人の間に確かな絆が芽生え始めたことを実感し、彼女は穏やかな微笑みを浮かべたのだった。