深山一真は、桐谷家の古い洋館の前に立っていた。
手には、焼きたての甘栗が入った紙袋。熱気で袋はほんのり湿っていて、甘く香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。
彼はそっと胸に手を当てた。そこには“桐谷琴音”と彫られ、彫ったばかりの痕はまだ癒えておらず、ズキズキと痛んでいた。
でも、それ以上に気になるのは――
胸の奥の心臓が、まるで誰かに無理やりかき乱されているように、やけに早く鼓動していることだった。
眉をひそめながら、その異常な感覚を「琴音に会えるのが嬉しいせいだ」と無理やり自分に言い聞かせる。
門を押し開けて中に入ると、リビングの真ん中では桐谷正志が困り顔で何かを必死に説得していた。
琴音は彼に背を向け、肩を震わせて叫ぶような声を上げていた。
「百億って……!? お父さん、正気なの!?」
桐谷正志は声を潜めるように言う。
「命があれば、いつか取り返せる。……琴音、お前には本当にすまない。でも天野家との約束を破るわけにはいかないんだ。娘のどちらかを嫁がせなきゃいけないが、お前には泥をかぶってほしくなかった。だから美月に決めた。
よく考えてくれ。……お前は、嫁に行きたいのか? それとも百億がほしいのか?」
琴音は唇を噛みしめ、しばらく黙ったまま、やがて悔しそうに口を開いた。
「……私が行くわけないでしょ! 相手は植物状態の人間よ? 嫁いでも、ただの生き仏じゃない。
それに、私は今――風間家の御曹司に気に入られてるのに……」
言いかけたところで、彼女の目がふと玄関に立つ深山を捉えた。
一瞬で表情が切り替わる。振り返ったときには、可愛らしい笑顔を浮かべていた。
「一真さん、来てくれたの?」
深山は、ふたりのやりとりはほとんど聞こえていなかった。ただ穏やかに「うん」と頷き、手にした栗を差し出した。
「熱いうちにどうぞ。」
琴音は受け取りながら、わざと彼の手に指先を触れさせ、にっこりと微笑んだ。
「……うん、まだあったかい。」
深山は彼女を見つめて、少しだけ唇を緩めた。
「琴音お嬢様がお気に召したなら、何よりです。」
本当なら、嬉しいはずだった。
でも、胸の中の不穏な感覚はますます強くなっていく。
何かが、静かに、でも確実に壊れかけている気がしてならなかった。
少し間を置いて、彼は口を開いた。
「では、そろそろ帰ります。」
すると琴音が慌てて彼の袖をつかむ。
「行かなくていいよ。」
深山は一瞬、きょとんとして聞き返す。
「どういう意味ですか?」
琴音はぱちぱちと無邪気そうに瞬きして、さらりと言った。
「お姉さん、何も言わなかったの? あなたを、私にくれたのよ?」
……くれた、ってどういうことだ?
深山一真の思考が止まる。
琴音はその表情を見て、さらに話を続けた。
「お姉さん、百億のために天野蓮に嫁ぐって決めたの。今朝早く引っ越したのは、南区に行くためよ。
だからこれからは、あなたは私の専属ボディーガード♪」
深山の呼吸が止まる。
――嫁ぐ?
――天野蓮に?
かつて自分と肩を並べていた、あの天野家の御曹司。
今はもう、ただ眠り続けるだけの人間に?
……そういえば。
美月が今朝言っていた「引っ越す」って言葉。
まさか、あれって……“嫁入り”のことだったのか?
彼の脳裏に、桐谷美月と初めて出会ったあの日の情景が、不意に鮮やかに浮かび上がった。
――三年前。
桐谷家がボディーガードを選ぶという話があり、彼は琴音に惹かれていたこともあって、その選考に名乗りを上げた。
だが予想外にも、面接に現れたのは“お姉様”の桐谷美月だった。
(しまった、これは場違いだったか……)
そう思って立ち去ろうとした、そのとき。
「……この人にするわ」
階段を下りてきた美月は、赤いワンピースを身にまとい、カツカツと響くヒールの音すらどこか音楽のように優雅だった。
指先で彼を差しながら、赤い唇を緩く吊り上げて微笑む。
「顔がいいもの」
――あとで知ったことだが、このお嬢様は有名な小悪魔。
恋人は服よりも頻繁に替わり、その情熱は燃える炎のように激しく、奔放で、どこまでも自由だった。
彼は帰ろうとしたくせに、気づけば彼女の傍に残っていた。
(琴音お嬢様に近づけるかもしれない……)
そう言い訳しながら。
けれどその後、美月はたびたび彼を誘惑してきた――その仕方が、妙に不器用で、逆に愛らしかった。
足をひねったふりをして彼の胸に飛び込んできたり、香水をつけすぎて自分でくしゃみを止まらなくしてみたり。
真夜中にセクシーなネグリジェ姿で彼の部屋をノックして、緊張のあまり「ちょっと中で休んでく?」を「ちょっと中でヤってく?」と言い間違えたこともあった。
果てはプールで溺れたふりをして彼に飛び込ませたのに、実は本当に泳げず、危うく本当に溺れたところだった……。
深山一真は、喉の奥でごくりと息を飲んだ。
あんなにも誇り高かった彼女が――百億のために、嫁ぐだって?
しかも、相手は植物状態の男に……?
心臓がきゅっと軋む。
まるで何か鋭いもので、胸の奥をえぐられたような感覚だった。
ぼんやりしていた彼の袖を、琴音が小さな手でつかむ。
「……一真さん、私の傍にいたくないの?」
その声音はどこか不安げで、少しだけ甘えるようだった。
我に返った深山は、内心のざわつきを押し殺し、低く、静かに答えた。
「……そんなことはありません」
そして、自分の口が勝手に言葉を紡ぐのを感じた。
「琴音お嬢様をお守りできること、それは私にとっての光栄です」
そう言いながら、彼の脳裏には――最後に見た美月の表情が焼きついていた。
静かで、淡々としていて、まるで他人を見るような冷たい目。
……あの目が、忘れられない。
「やったぁ!」
琴音が嬉しそうに声をあげて、彼の腕にぴたっとしなだれかかる。
「じゃあさ、今からお買い物行こうよ! 新しいワンピ、欲しいの~!」
一真は、機械仕掛けのように無言で彼女の隣を歩き始めた。
――これが、ずっと望んでいたことじゃなかったのか?
正々堂々と琴音を守れる。美月のボディーガードなんて遠回しな立場じゃなく、堂々と、彼女の隣にいられる。
……それなのに。
(美月……)
あの人はずっと琴音をいじめていた。だから、いなくなった方がいい。
そう思えば、いいはずなのに。