深山の傷はまだ完全に癒えていなかった。
医師からは何度も「安静が必要」と念を押されていたが、彼は聞き入れず、強引に退院した。
彼が琴音のために用意したのは、北区でも屈指の豪華さを誇るローズガーデンでの告白シーンだった。
その貸し切りにかかった費用は、なんと億単位。
園内には、フランスから空輸されたジュリエットローズが一面に敷き詰められ、そのすべてを彼が自らの手で選んだ。
オーケストラが演奏する曲も、彼が三晩寝ずに悩み抜いて決めたもの。
打ち上げられる花火は、琴音の好みに合わせて星空のデザインが施され、クライマックスには彼女の名前が夜空に浮かび上がる演出まで仕込まれていた。
料理はすべて自ら試食し、シャンパンのヴィンテージにまで徹底的にこだわった。
そんな彼の準備ぶりに、幼なじみの佐藤遊馬は思わず吹き出した。
「なあ一真……知らない人が見たら、国王即位かなんかかと思うぞ?」
深山は何も返さず、腕時計を確認。
約束の時間まで、あと30分。
だが――
30分が過ぎても、1時間が過ぎても……
桐谷琴音は、現れなかった。
深山はポケットの中のリングを指先でいじりながら、
何度も彼女に電話をかけ続けた。
けれど、どれも応答なし。
「……まさか、何かあったんじゃ……?」
不安に眉をひそめ、即座に部下へ連絡を入れる。
「琴音の、今日の行動を調べてくれ。」
それから10分後、返ってきた報告は――
【琴音お嬢様は現在、ライアン美容スタジオにて全身SPA・ネイル・ヘアスタイリング中。滞在はすでに6時間以上。】
一真は一瞬、言葉を失った。
……美容スタジオに?
時間を忘れた……? いや、昨日ちゃんと伝えたはずだ。
疑念と焦りが交錯する中、彼はすぐに車を走らせ、ライアン美容スタジオへ向かった。
そこはVIP専用の高級サロン。
入口で止めようとした警備員に、マネージャーが慌てて飛び出してくる。
「おい下がれッ! 目ぇ節穴か!? この方は、風間家の風間一真様だぞ!!」
深山一真、いや、風間一真は無言のまま上階へと向かう。
最上階の個室に手をかける、その直前――
中から聞こえてきたのは、笑い混じりの女たちの会話だった。
「え、マジで? あのボディーガードとの約束、すっぽかしたの?」
「行くわけないでしょ?」
琴音の気だるげな笑い声が続く。
「見たら分かるじゃん。どうせ告白されるんでしょ? 私がボディーガードなんかと結婚するわけないじゃん。」
「でもさ~、あの人めちゃくちゃ優しいじゃん。事故で庇ったり、崖から花摘んできたり、胸に君の名前、タトゥーまで入れて……」
「それが何?」
琴音は鼻で笑った。
「いくらイケメンで尽くしてくれても、所詮は門番よ?今の私はね、風間家の跡取りに見初められてる女なの。庶民相手に遊んでる暇なんかないの。」
風間一真の手が、ドアノブの上で固まった。
「でさ、なんでちゃんと断らないの? 」
「分かってないな〜」
琴音の声はどこか誇らしげだった。
「あいつ、顔はいいし、腕っぷしもあるし、私のためなら命だって張るんだよ? そんな便利な“忠犬”が一匹いても困らないでしょ。しかもさ……一番のポイントは――」
彼女は声を落とし、笑い声に毒を混ぜた。
「――桐谷美月があいつのこと好きだったのに、あいつは私に惚れたの。
美月の“好き”を全部横取りして、苦しんでる顔を見るの、最高に気持ちいいんだよ。
昔美月は白いワンピが好きだったのに、私が“それ可愛い”って言っただけで、パパが全部私にくれて。毎日着て見せびらかしてたら、美月、白が嫌いになったんだってさ。ウケるよね?」
――雷が頭上に落ちたような衝撃だった。
「そういやさ、美月にいろいろやったでしょ?」
友人が興味深げに続ける。
「……たとえば、あの時の彼女の母親こととかさ」
「あの人は自業自得よ。」
琴音の声が一変して鋭くなる。
「“桐谷夫人”の座をいつまでも譲らなかったじゃん。水にちょっと薬を入れてやっただけ。そしたら勝手に“母子ともに”いなくなったの。体が弱い方が悪いんでしょ?」
「あとさ、美月が留学取り消されたの、学術不正の密告だったって――」
「あれも私が作った偽の告発文。美月って単純だからさ、部屋でめっちゃ荒れてたよ。
でも意味なかったね。パパは最初から私の味方だもん。」
――一言一言が、刃物のように突き刺さる。
彼の中で、あの“鳥を救った純粋な少女”のイメージが、音を立てて崩れていった。
そのとき、控えていたマネジャーがおずおずと声をかける。
「……風間様、中にお入りになりますか?」
個室の中が、一瞬静まり返った。
そして、琴音の警戒した声が響く。
「……誰? 外に誰かいるの?」
風間一真はそっと目を閉じ、静かに振り返る。
「……俺が来たこと、彼女には言うな。」
---
車の中。
風間一真は、煙草を一本、また一本と吸い続けていた。
琴音の言葉が、脳裏をぐるぐると回る。
「所詮は“門番”」
「風間家の御曹司に見初められた私は、もっと上を狙うの」
「妊婦に薬を入れて、母子共々消えてくれた」
「告発は偽造。バカにはそれで十分」
――息が苦しい。
そのとき、彼の脳裏に浮かんだのは、美月のあの目だった。
いつも皮肉げで冷たくて、彼を睨みつけるような視線。
「バカ」って罵られた声。
手が震えながらも、彼の傷に包帯を巻いてくれた指先のぬくもり。
「深山一真、もう……あなたなんかいらない」
そう言って、背を向けたあの夜。
ああ――
俺が信じて、愛して、すべてを捧げようとした相手は、なんて醜い存在だったんだろう。
本当に傷つけてきたのは、ずっと、美月の方だったんだ。
タバコの火が指先まで燃え尽きても、
一真はそれにさえ気づかなかった。
遠く、ローズガーデンでは、彼が準備した花火が打ち上がる。
夜空いっぱいに浮かぶ「桐谷琴音」の文字――
その光の下に、彼の姿はなかった。
ただ、煙草の煙だけが漂う。
「……どうして、あの少女はこんなふうに……」
拳が震え、次の瞬間――
「ドンッ!!」
ハンドルを、渾身の力で殴りつけた。
そして、ようやく理解した。
あの日、心を奪われた“白いワンピースの少女”は、最初から琴音じゃなかった。
あの子は――別人だったんだ。
――記憶がよみがえる。
三年前のパーティー。
陽の光、木の上、鳥の巣、白いワンピース……
……そうだ。
琴音が言ってた。
「美月が白が好きだったけど、私が“可愛い”って言ったら全部奪った。
毎日着て見せびらかして、白が嫌いになるまで。」
あのとき、彼がスタッフに訊ねたのは確かに「桐谷家のお嬢様」。
その言葉を聞いて、彼は当然「琴音」だと信じて疑わなかった。
でも――桐谷家には娘が二人いた。
奔放で派手な“姉”と、
清らかで控えめな“妹”。
……じゃあ、あの日、木に登っていたあの少女は――
全身の血が、凍りついた。
深山一真は、震える手で佐藤に電話をかける。
「……佐藤。三年前の…監視カメラの映像、調べてくれ。」