あれから三年も経っている。
今さら過去を調べようとしても、時間がかかるのは当然のことだ。
……なのに。
時間が過ぎるごとに、心臓はバクバクと落ち着かなくなっていく。
スマホの画面を凝視したまま、一真は何本目か分からないタバコを灰皿に押し込んだ。
吸い殻はすでに山のように積もっている。
そのとき、不意にスマホが震えた。
「調べたか?」
ほとんど反射的に電話を取る。
けれど返ってきたのは、冷静すぎる執事の声だった。
『若様、旦那様が至急、本邸へ戻るようお申し付けです。』
「……じいさん、体調でも悪いのか?」
『そこまでは。ただ、お声からして急ぎのご様子でした』
電話を切ると同時に、アクセルを踏み込む。
──風間家本邸は、夜なのにまるで昼間のように明るかった。
リビングに入った瞬間、何かが勢いよく飛んできた。
「っ……!」
バサッという音とともに、一冊分の写真が一真の胸元にぶつかり、床に散らばった。
「自分の目でよく見ろ!」
杖をついた祖父が怒鳴りつけた。顔は怒りで真っ赤に染まっている。
「風間家の跡取りが、女一人のためにボディガードだと? 冗談じゃない!」
一真は無言で写真を拾い上げた。そして、その中の一枚に目を留めた瞬間――呼吸が止まりそうになった。
そこには、桐谷琴音が写っていた。
露出の多いミニスカート姿で、年配の大富豪や素行の悪そうな若手実業家に、甘えるように体を預けている。
一番衝撃だったのは――
既婚の有名実業家に、彼女が背伸びしてキスをしている写真。
その瞳には、恋ではなく、冷たい計算が浮かんでいた。
「まさか、あの女を汚れなきかぐや姫だとでも思ってたか?」
祖父の声が冷たく響く。
「桐谷家なんざ、上流社会じゃ箸にも棒にもかからん。あの女は、自分を売ってでものし上がるような女だ」
一真の指先が、写真を握りしめたままわなわなと震えた。
さっき美容スタジオで聞いた話なんて、まだまだ序の口だった。
……まさか、また裏切られるとは。
「じいちゃん、俺は……」
何かを言いかけたそのとき、執事が再び慌てて入ってきた。
「若様。桐谷家の次女、琴音お嬢様から、明日の誕生日祝いに直接贈り物を届けたいと、ご挨拶の手紙が届いております。」
一真は、思わずその場に固まった。
明日は、彼の誕生日だ。
本来なら、告白の勢いで、誕生日パーティーの場を借りて──堂々と桐谷琴音の存在を皆に宣言するはず。
自分にとって、彼女こそが唯一無二の存在だと。
……でも、今はもう…。
「ダメだ、絶対に来させるな!」
怒りをあらわにした祖父が、机を叩いて立ち上がった。
だが、その言葉を遮るように、一真が低く静かな声で言った。
「分かった。いいと返信してくれ。」
その声音は、氷の刃のように冷たかった。
「それと……桐谷社長にも声をかけておいてください」
執事が小さく頷き、その場を去ろうとしたとき、一真は再び呼び止める。
「もう一つ。桐谷美月がこの数年間、桐谷家でどう過ごしてきたのか──調べてくれ」
その言葉に、祖父の目が鋭く細まる。
「……何を企んでいる?」
「確かめたいことがある」
一真は祖父を見据えた。その瞳の奥で、何かが激しく渦巻いている。
「じいちゃん。どうか……今日だけ、時間をください。必ず納得のいく答えを持ってきます」
祖父は鼻を鳴らして杖をつきながら踵を返す。
「いいか。風間家の敷居を、あんな女にまたがせることは絶対に許さん!」
夜はすっかり更けていた。
書斎で、一真は執事が届けた分厚い封筒をじっと見つめていた。
軽いはずの封筒が、手に持つと異様に重い。
一呼吸置いて、彼は指先で結び紐をほどく。
──中から現れたのは、一枚一枚、痛みが重なる書類だった。
最初のページには、七歳の桐谷美月の診断書。
《ストレス性失語。期間:三ヶ月》
隣には、精神科医の所見。
「実母の出産中の死亡を目撃し、強いショックを受けた模様。同日、父親が愛人の娘を家に連れ帰ったことで、著しい拒絶反応を示す」
その文章を読んだ瞬間、一真の手がかすかに震える。
次のページには、琴音が名門小学校へ編入した年の記録。
新しいランドセル──琴音には高価なオーダーメイド。
一方、美月の背には、亡き母が遺した色褪せたランドセル。
十二歳、琴音の誕生日には宴が開かれ、
その日、美月は屋根裏に閉じ込められていた。
十五歳、美月は難関高校に合格するが、
桐谷正志は学費を出さず、
こっそり援助したのは祖父だった。
十八歳、留学推薦枠は本来美月のものだった。
だが、桐谷正志はそれを琴音に与えた。
──そして最後の一枚。
二十歳のときの診断書。
《中等度うつ病、自傷傾向あり》
一真はその瞬間、資料を乱暴に閉じた。
胸が、息が、苦しい。
思い出してしまう。
桐谷家の誕生日パーティーで、泣き叫ぶ美月の姿を。
あの時の彼は、彼女のことを「面倒な女」だとしか思っていなかった。
琴音が鞭を受けたと聞いて、そのお返しとして──美月に99回の鞭打ちを命じた。
ほんの数時間前まで、彼は早く監視映像を手に入れたがっていた。
三年前、自分を惹きつけた“あの人”が誰なのか、知りたかった。
でも今は──その答えを知るのが、怖くてたまらない。
もし、三年前に鳥たちを助けたのが、琴音じゃなくて……
もし、それが桐谷美月だったとしたら──
その人こそが、自分が一目惚れした“彼女”だったとしたら……?
そして、自分が彼女にしてきた仕打ちのすべてが──
もう、何も考えたい。