南区、ヒルトンホテル。
美月は新婦控室の鏡の前に座り、ウェディングドレス姿の自分をぼんやりと見つめていた。
――なんだか、まだ夢みたいだ。
植物状態の人と結婚して、一生“表だけの夫婦”として生きていく――そんな覚悟を決めていた。
なのに、運命はあっさりその覚悟をひっくり返してきた。
天野家にやってきた、あの日。
天野蓮は、目を覚ました。
最初、美月はただベッドの隣に立って、長く眠る男の顔を見下ろしていた。
整った横顔。長い睫毛。真っ青な顔に似合わぬ美しさ。
まるで絵みたいに静かで、現実味がなかった。
「……この人、目を覚ましてたら、すごく綺麗な人なんだろうな。」
そんな風に思った――その瞬間。
彼の指が、ぴくりと動いた。
「……っ!」
思わず一歩後ずさる。
そして、彼の目がゆっくりと開き、美月の瞳と、まっすぐにぶつかった。
その目には、眠りから覚めたばかりとは思えない力がある。
あまりのことに、美月の声は震えた。
「い、医者!誰か、彼が……彼が目を覚ました!」
そこから先は、まるで早送りでもされたみたいだった。
天野家の人々が歓喜に湧き、医者たちが駆け込み、部屋は一瞬でごった返した。
美月はその光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
天野蓮が完全に目を覚ましたと確認されると、彼のお母さんがその場で泣きながら美月の手を握りしめた。
「美月さん……あなたは天野家にとって、奇跡そのものだ!」
その数日後。
天野蓮本人に「会いたい」と言われ、美月は病室に入った。
「この結婚はなかったことに」と言われるんじゃないか――美月はそう覚悟していた。
桐谷家が天野家の釣り合い相手じゃないなんて、誰が見ても明らかだったから。
そもそも、なぜこの縁談が成立したのかも分からない。
彼が目を覚ました今となっては、この結婚の話もきっと白紙になる。
けれど、彼の口から出たのは、美月の予想を大きく裏切る言葉だった。
「俺たちの婚約、桐谷家との話じゃなくて……櫻井家との約束だったって、ご存知でしたか?」
「……櫻井家?」
それは、美月の母の実家の名前だった。
「美月のお母様と、うちの母は親友だったんです。
『もし将来子どもが生まれたら、結婚させよう』――そう約束していたそうですよ」
美月は言葉を失った。
「あなたのお母さんが亡くなって、桐谷家で辛い思いをしていること、俺たちは知っていました」
ベッドの上で、彼はゆっくりと上半身を起こす。
「本当は、すぐにでもあなたを引き取りたかった。でも、桐谷家が手放さなかった。
だから、桐谷家から“縁談を”と持ちかけられたとき、これはチャンスだと思ったんです。
あなたを助け出すための、唯一の方法でした」
「だから、美月さん。俺は、あなたの妹ではなく――最初からあなたと結婚するつもりだったんです」
そうきっぱり言い切った彼の目を、美月は見つめ返すしかなかった。
「俺は長く眠っていたぶん、生活にはもう一度慣れる必要がある。」
彼はふっと笑って、続けた。
「でも、約束します。あなたを一生守ります。お金も、やりたいことも、全部自由にしていい。天野家は、あなたの味方です」
そして、まるで告白するような優しい声で、こう言った。
「俺たちは、今はまだ恋人じゃない。けど――結婚してから、少しずつ愛を育てていけばいい。だから……試してみませんか?」
その言葉に、美月は――気づけば、小さく頷いていた。
──カチャ。
控室の扉が開いた音で、甘くて不思議な回想に終わりを告げた。
我に返ると、美月のすぐ背後に、いつの間にか天野蓮が立っていた。
黒のタキシードは彼のために仕立てられたかのように体に馴染み、広い肩と引き締まった腰が完璧。
彼はふっと身を屈め、美月のうなじにそっと口づけを落とした。
温かな吐息が肌をかすめ、思わず身体がびくりと震える。
「そんなに照れて、」
蓮がくすっと笑う。
「今夜、大丈夫かな?」
「だ、誰が照れてるのよっ!」
耳まで真っ赤にしながら、美月はぷいと顔を背ける。
「ちょっと油断してただけなんだから!」
「へぇ、うちの美月は随分とお強いようで」
親しげに眉を上げた蓮の声は、まるで長年付き合ってきた恋人のように、優しくて甘い響きだった。
その一言で、美月の心臓は一瞬、跳ねた。
(ちょ、ちょっと待って? 私たち結婚するとはいえ、恋愛はしてないはずだよね?)
(なんでこの人、もう完全に恋してる人みたいな顔してんの……!?)
「ていうか、なんでここに? 式まだ始まってないよね?」
話題をそらそうとする美月に、蓮は笑いながら手を差し出す。
「緊張してるかなと思って。」
彼は美月の手を取り、指を絡めるように握った。
「だから、別々に入場するのはやめた。一緒に行こう。」
彼の手は温かくて、乾いていて――妙に安心する。
披露宴会場、出番を待っている間。
美月はふと、遠い夢を思い出していた。
――純白のウェディングドレスに身を包み、父の腕を取ってバージンロードを歩く。
その先にいるのは、深山一真だった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
でも、美月は静かに息を吸い込み、心の中でその名前をそっと消し去った。
「準備はいい?」
蓮がそっと囁く。
「うん。」
美月は微笑んで、彼に頷いた。
結婚行進曲が鳴り響き、扉がゆっくりと開く。
ゲストの視線が、彼女に向けられた。
思わず蓮の手をきゅっと握りしめると――
「大丈夫」
彼がそっと耳元で言う。「俺がいるから」
レッドカーペットの両脇では、参列者たちがひそひそとささやき合う。
「まさに理想のカップルだね……」
「美月さん、ほんと綺麗……蓮を目覚めさせたのって彼女なんでしょう?」
「天野家は、ほんとにいいお嫁さんをもらったわね……」
南区に来たその日から、天野家の人たちはずっと、美月に優しく接してくれた。
誰ひとり見下すこともなく、陰口を叩く人もいない。まるで本当の家族のように、あたたかかった。
そして今、招待された客たちも、「桐谷家」のことを口にする者は一人もいなかった。
きっとそれも――天野蓮の心配りなのだろう。
胸の奥に、ふわりとあたたかいものが広がる。
やがて指輪交換のシーン。
司会者が笑顔で問いかける。
「天野蓮さん。あなたは、桐谷美月さんを妻として迎え、富めるときも貧しきときも――」
「誓います」
蓮は即答だった。
「桐谷美月さん。あなたは――」
「彼女は、誓いません!」
――バンッ!!
突然、会場の扉が轟音を立てて開いた。
光の向こうに現れたのは、汗に濡れた髪と乱れたスーツの男――
風間一真だった。
息を切らせ、今にも倒れそうな勢いで駆け込んできた彼は、荒い呼吸の合間に叫んだ。
「美月……っ! その人と、結婚しないでくれ!」
美月の全身が固まった。
ゆっくりと、振り返る。
心の奥で止まっていた記憶が、再び――動き始めた。