目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第16話

南区、ヒルトンホテル。

美月は新婦控室の鏡の前に座り、ウェディングドレス姿の自分をぼんやりと見つめていた。


――なんだか、まだ夢みたいだ。


植物状態の人と結婚して、一生“表だけの夫婦”として生きていく――そんな覚悟を決めていた。

なのに、運命はあっさりその覚悟をひっくり返してきた。


天野家にやってきた、あの日。

天野蓮は、目を覚ました。


最初、美月はただベッドの隣に立って、長く眠る男の顔を見下ろしていた。

整った横顔。長い睫毛。真っ青な顔に似合わぬ美しさ。

まるで絵みたいに静かで、現実味がなかった。


「……この人、目を覚ましてたら、すごく綺麗な人なんだろうな。」


そんな風に思った――その瞬間。

彼の指が、ぴくりと動いた。


「……っ!」


思わず一歩後ずさる。

そして、彼の目がゆっくりと開き、美月の瞳と、まっすぐにぶつかった。


その目には、眠りから覚めたばかりとは思えない力がある。

あまりのことに、美月の声は震えた。


「い、医者!誰か、彼が……彼が目を覚ました!」


そこから先は、まるで早送りでもされたみたいだった。


天野家の人々が歓喜に湧き、医者たちが駆け込み、部屋は一瞬でごった返した。

美月はその光景を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。


天野蓮が完全に目を覚ましたと確認されると、彼のお母さんがその場で泣きながら美月の手を握りしめた。


「美月さん……あなたは天野家にとって、奇跡そのものだ!」


その数日後。

天野蓮本人に「会いたい」と言われ、美月は病室に入った。

「この結婚はなかったことに」と言われるんじゃないか――美月はそう覚悟していた。

桐谷家が天野家の釣り合い相手じゃないなんて、誰が見ても明らかだったから。

そもそも、なぜこの縁談が成立したのかも分からない。


彼が目を覚ました今となっては、この結婚の話もきっと白紙になる。

けれど、彼の口から出たのは、美月の予想を大きく裏切る言葉だった。


「俺たちの婚約、桐谷家との話じゃなくて……櫻井家との約束だったって、ご存知でしたか?」


「……櫻井家?」


それは、美月の母の実家の名前だった。


「美月のお母様と、うちの母は親友だったんです。

『もし将来子どもが生まれたら、結婚させよう』――そう約束していたそうですよ」

美月は言葉を失った。


「あなたのお母さんが亡くなって、桐谷家で辛い思いをしていること、俺たちは知っていました」

ベッドの上で、彼はゆっくりと上半身を起こす。


「本当は、すぐにでもあなたを引き取りたかった。でも、桐谷家が手放さなかった。

だから、桐谷家から“縁談を”と持ちかけられたとき、これはチャンスだと思ったんです。

あなたを助け出すための、唯一の方法でした」


「だから、美月さん。俺は、あなたの妹ではなく――最初からあなたと結婚するつもりだったんです」


そうきっぱり言い切った彼の目を、美月は見つめ返すしかなかった。


「俺は長く眠っていたぶん、生活にはもう一度慣れる必要がある。」

彼はふっと笑って、続けた。


「でも、約束します。あなたを一生守ります。お金も、やりたいことも、全部自由にしていい。天野家は、あなたの味方です」


そして、まるで告白するような優しい声で、こう言った。


「俺たちは、今はまだ恋人じゃない。けど――結婚してから、少しずつ愛を育てていけばいい。だから……試してみませんか?」


その言葉に、美月は――気づけば、小さく頷いていた。


──カチャ。


控室の扉が開いた音で、甘くて不思議な回想に終わりを告げた。


我に返ると、美月のすぐ背後に、いつの間にか天野蓮が立っていた。


黒のタキシードは彼のために仕立てられたかのように体に馴染み、広い肩と引き締まった腰が完璧。


彼はふっと身を屈め、美月のうなじにそっと口づけを落とした。

温かな吐息が肌をかすめ、思わず身体がびくりと震える。


「そんなに照れて、」

蓮がくすっと笑う。

「今夜、大丈夫かな?」


「だ、誰が照れてるのよっ!」

耳まで真っ赤にしながら、美月はぷいと顔を背ける。

「ちょっと油断してただけなんだから!」


「へぇ、うちの美月は随分とお強いようで」

親しげに眉を上げた蓮の声は、まるで長年付き合ってきた恋人のように、優しくて甘い響きだった。

その一言で、美月の心臓は一瞬、跳ねた。


(ちょ、ちょっと待って? 私たち結婚するとはいえ、恋愛はしてないはずだよね?)

(なんでこの人、もう完全に恋してる人みたいな顔してんの……!?)


「ていうか、なんでここに? 式まだ始まってないよね?」


話題をそらそうとする美月に、蓮は笑いながら手を差し出す。

「緊張してるかなと思って。」

彼は美月の手を取り、指を絡めるように握った。

「だから、別々に入場するのはやめた。一緒に行こう。」


彼の手は温かくて、乾いていて――妙に安心する。


披露宴会場、出番を待っている間。

美月はふと、遠い夢を思い出していた。


――純白のウェディングドレスに身を包み、父の腕を取ってバージンロードを歩く。

その先にいるのは、深山一真だった。


胸の奥が、ちくりと痛んだ。

でも、美月は静かに息を吸い込み、心の中でその名前をそっと消し去った。


「準備はいい?」

蓮がそっと囁く。


「うん。」

美月は微笑んで、彼に頷いた。


結婚行進曲が鳴り響き、扉がゆっくりと開く。

ゲストの視線が、彼女に向けられた。

思わず蓮の手をきゅっと握りしめると――


「大丈夫」

彼がそっと耳元で言う。「俺がいるから」


レッドカーペットの両脇では、参列者たちがひそひそとささやき合う。


「まさに理想のカップルだね……」

「美月さん、ほんと綺麗……蓮を目覚めさせたのって彼女なんでしょう?」

「天野家は、ほんとにいいお嫁さんをもらったわね……」


南区に来たその日から、天野家の人たちはずっと、美月に優しく接してくれた。

誰ひとり見下すこともなく、陰口を叩く人もいない。まるで本当の家族のように、あたたかかった。


そして今、招待された客たちも、「桐谷家」のことを口にする者は一人もいなかった。

きっとそれも――天野蓮の心配りなのだろう。


胸の奥に、ふわりとあたたかいものが広がる。


やがて指輪交換のシーン。

司会者が笑顔で問いかける。


「天野蓮さん。あなたは、桐谷美月さんを妻として迎え、富めるときも貧しきときも――」


「誓います」

蓮は即答だった。


「桐谷美月さん。あなたは――」


「彼女は、誓いません!」


――バンッ!!


突然、会場の扉が轟音を立てて開いた。

光の向こうに現れたのは、汗に濡れた髪と乱れたスーツの男――


風間一真だった。


息を切らせ、今にも倒れそうな勢いで駆け込んできた彼は、荒い呼吸の合間に叫んだ。

「美月……っ! その人と、結婚しないでくれ!」


美月の全身が固まった。

ゆっくりと、振り返る。


心の奥で止まっていた記憶が、再び――動き始めた。



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?