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第19話

けれど美月は、彼の言葉を信じたくなかった。

――償う?


美月の心に残したのは、その言葉でどうにかなるような、浅い傷じゃない。

あの頃の痛みは、とっくに骨に、血に、染みついている。


彼女は背を向け、部屋に入るとバタンと扉を閉めた。


食事の時間になって一真がノックするまで、彼女は一歩も外に出なかった。


扉を開けると、キッチンから料理の香りが漂ってきた。

そこにいたのは――エプロン姿の一真。

袖をたくし上げ、きれいな腕で包丁を握る姿は、美月にはなぜか現実味がなく、不思議に思えた。

食卓には美月の好物ばかりが並んでいた。


「……これ、あなたが?」


「うん。他の誰にも任せたくなかったから。」


美月は鼻で笑った。


「へぇ。琴音のために料理を覚えたのかしら?」」


一真の手が、わずかに止まる。


「……もう、彼女の名前は言わないでくれ」


「そう? でも、私は忘れてないから」



「甘いものが好きだったよね、琴音。よく作ってあげたんでしょ?」

「崖で花を摘んでたとき、死ぬかもって思わなかったの?」

「心臓に名前を彫ったとき、彼女……泣いて喜んだんでしょうね」


言葉を重ねるたびに、一真の顔色はどんどん青ざめていった。


やがて彼は、ただ黙って聞いているだけになった。

痛みにも、怒りにもならず、ただ……受け入れているようだった。


でも美月は少しだけ、気持ちが軽くなった。

食事を終え、席を立とうとしたとき。


「……美月」


一真が彼女を呼び止め、何かを差し出した。


――それは、鞭だった。


「……何のつもり?」


「九十九回。返すよ。俺が、お前にしたことを……」

彼の目は静かだった。


「これで償えるとでも思ってるの?」


「償いなんかじゃない。ただ、謝りたくて。」


そう言って、彼はポケットから書類を取り出し、美月に手渡した。


「これは遺書。……俺が死んでも、風間家は動かない。財産もすべて……君に譲るって書いてある」


美月の指先が、わずかに震える。


「……子どもじゃないんだから。そんなの、口先だけで信じるとでも?」


「本気だよ」


その言葉が終わるか終わらないうちに――


「ッパァン!!」


一発目の鞭が、一真の背中に叩きつけられた!


彼は一瞬呻いたが、声を飲み込んだ。背筋は伸びたまま、動かない。


美月は、容赦しなかった。


二発、三発……

鞭の空気を切る音と、肉を裂く音、そして鉄の匂いが部屋中に満ちていく。


それでも一真は、微動だにしなかった。

ただ、最後まで立ち尽くし、全てを受け入れていた。


九十九発目が終わる頃には、彼の背中は血に染まり、滴る鮮血が床に広がっていた。


ふらつきながら、それでも彼は立ち上がり、美月の手にそっと触れた。


「……なに? 今さら後悔? やり返す?」


「……違う」


一真は、かすれた声で、彼女の手首をそっと撫でた。


「……痛くない? 手……」


その一言で、美月は言葉を失う。


すぐに手を引き、吐き捨てた。


「風間一真、あんた……気持ち悪いわ。」


一真は血の気の引いた顔で、かすかに笑った。


「君が笑うなら……どんなことしてもいい。」


その優しさが、痛かった。


美月が背を向けたとき、また呼び止める声が聞こえた。


「……もうひとつ、頼みがある」


一真はナイフを差し出した。


「……今度は何をするつもりよ?」


彼は、血に染まったシャツを引き裂いた。


そこにあったのは、胸に彫られた、その名前――


【琴音】


「これを……切り取ってくれ」


美月は冷笑する。


「なに? 今になって、琴音の名前が邪魔になった?」


だがその瞬間――


一真が彼女の手を握り、刃先を自らの胸に突き刺した。


「ッ――!」


血が噴き出す。美月が手を引こうとしても、一真は力強く押さえつけた。


「……動かないで」


痛みに顔を歪めながらも、彼は自分の皮膚を、彼女の手で少しずつ削いでいく。


血が彼の胸を流れ落ち、床に広がり、彼女の手まで染めていく。


それでも一真は手を止めなかった。


そして、皮膚を削り終えた後――

彼は、同じ手でナイフを持ち直し、自らの心臓の上に、新たな名前を刻み始めた。


【美月】


最後の一文字を刻み終えたとき、彼はついに崩れ落ちた。


「……美月……」

その声は、吐息のように儚く、

「……愛してる」


そう言って、彼は意識を失った。


赤黒い血が床に広がっていく。まるで、咲き誇る彼岸花のように。


美月はその場に立ち尽くし、震える手からナイフがカランと落ちる。


その時、彼女は思った。


――この世でもっとも残酷な復讐とは、

憎しみでも、怒りでもない。


「…そこまでしてくれても――私はもう、信じる勇気が残っていないの」



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