けれど美月は、彼の言葉を信じたくなかった。
――償う?
美月の心に残したのは、その言葉でどうにかなるような、浅い傷じゃない。
あの頃の痛みは、とっくに骨に、血に、染みついている。
彼女は背を向け、部屋に入るとバタンと扉を閉めた。
食事の時間になって一真がノックするまで、彼女は一歩も外に出なかった。
扉を開けると、キッチンから料理の香りが漂ってきた。
そこにいたのは――エプロン姿の一真。
袖をたくし上げ、きれいな腕で包丁を握る姿は、美月にはなぜか現実味がなく、不思議に思えた。
食卓には美月の好物ばかりが並んでいた。
「……これ、あなたが?」
「うん。他の誰にも任せたくなかったから。」
美月は鼻で笑った。
「へぇ。琴音のために料理を覚えたのかしら?」」
一真の手が、わずかに止まる。
「……もう、彼女の名前は言わないでくれ」
「そう? でも、私は忘れてないから」
「甘いものが好きだったよね、琴音。よく作ってあげたんでしょ?」
「崖で花を摘んでたとき、死ぬかもって思わなかったの?」
「心臓に名前を彫ったとき、彼女……泣いて喜んだんでしょうね」
言葉を重ねるたびに、一真の顔色はどんどん青ざめていった。
やがて彼は、ただ黙って聞いているだけになった。
痛みにも、怒りにもならず、ただ……受け入れているようだった。
でも美月は少しだけ、気持ちが軽くなった。
食事を終え、席を立とうとしたとき。
「……美月」
一真が彼女を呼び止め、何かを差し出した。
――それは、鞭だった。
「……何のつもり?」
「九十九回。返すよ。俺が、お前にしたことを……」
彼の目は静かだった。
「これで償えるとでも思ってるの?」
「償いなんかじゃない。ただ、謝りたくて。」
そう言って、彼はポケットから書類を取り出し、美月に手渡した。
「これは遺書。……俺が死んでも、風間家は動かない。財産もすべて……君に譲るって書いてある」
美月の指先が、わずかに震える。
「……子どもじゃないんだから。そんなの、口先だけで信じるとでも?」
「本気だよ」
その言葉が終わるか終わらないうちに――
「ッパァン!!」
一発目の鞭が、一真の背中に叩きつけられた!
彼は一瞬呻いたが、声を飲み込んだ。背筋は伸びたまま、動かない。
美月は、容赦しなかった。
二発、三発……
鞭の空気を切る音と、肉を裂く音、そして鉄の匂いが部屋中に満ちていく。
それでも一真は、微動だにしなかった。
ただ、最後まで立ち尽くし、全てを受け入れていた。
九十九発目が終わる頃には、彼の背中は血に染まり、滴る鮮血が床に広がっていた。
ふらつきながら、それでも彼は立ち上がり、美月の手にそっと触れた。
「……なに? 今さら後悔? やり返す?」
「……違う」
一真は、かすれた声で、彼女の手首をそっと撫でた。
「……痛くない? 手……」
その一言で、美月は言葉を失う。
すぐに手を引き、吐き捨てた。
「風間一真、あんた……気持ち悪いわ。」
一真は血の気の引いた顔で、かすかに笑った。
「君が笑うなら……どんなことしてもいい。」
その優しさが、痛かった。
美月が背を向けたとき、また呼び止める声が聞こえた。
「……もうひとつ、頼みがある」
一真はナイフを差し出した。
「……今度は何をするつもりよ?」
彼は、血に染まったシャツを引き裂いた。
そこにあったのは、胸に彫られた、その名前――
【琴音】
「これを……切り取ってくれ」
美月は冷笑する。
「なに? 今になって、琴音の名前が邪魔になった?」
だがその瞬間――
一真が彼女の手を握り、刃先を自らの胸に突き刺した。
「ッ――!」
血が噴き出す。美月が手を引こうとしても、一真は力強く押さえつけた。
「……動かないで」
痛みに顔を歪めながらも、彼は自分の皮膚を、彼女の手で少しずつ削いでいく。
血が彼の胸を流れ落ち、床に広がり、彼女の手まで染めていく。
それでも一真は手を止めなかった。
そして、皮膚を削り終えた後――
彼は、同じ手でナイフを持ち直し、自らの心臓の上に、新たな名前を刻み始めた。
【美月】
最後の一文字を刻み終えたとき、彼はついに崩れ落ちた。
「……美月……」
その声は、吐息のように儚く、
「……愛してる」
そう言って、彼は意識を失った。
赤黒い血が床に広がっていく。まるで、咲き誇る彼岸花のように。
美月はその場に立ち尽くし、震える手からナイフがカランと落ちる。
その時、彼女は思った。
――この世でもっとも残酷な復讐とは、
憎しみでも、怒りでもない。
「…そこまでしてくれても――私はもう、信じる勇気が残っていないの」