商家の娘である千紗は、平凡で安穏とした日常を送ることに満足していた。華やかな宮廷生活とは縁もゆかりもない自分が、突然その渦中に巻き込まれるなど、夢にも思わなかった。しかし、運命は時として皮肉である。
その日、千紗は店の帳簿を確認しながら、母親が焼き上げた饅頭の香りに包まれていた。家業はそれほど大きくはないが、町の人々に愛される商家で、毎日穏やかに過ぎていくのが当たり前だった。ところが、店の戸口を大声で叩く音が響いた。
「開けてくれ!急ぎの知らせだ!」
慌てて父親が戸を開けると、そこに立っていたのは皇宮の使者だった。見慣れない豪華な装束をまとった彼らは、明らかに異世界から来たような雰囲気を漂わせていた。家族全員が驚き、使者を中に迎え入れると、彼らは開口一番こう告げた。
「この度、我が皇帝セイラス陛下より、娘・千紗殿を側室として迎えたいとのお達しである。」
部屋に響いたその言葉は、千紗にとって雷が落ちたような衝撃だった。饅頭を盛った皿を持っていた母親は、その場でそれを取り落とし、床に散らばった饅頭が見事に割れる。父親は、目を丸くしながらも次第に口元をほころばせ、「これは栄誉だ」とばかりに胸を張った。
「千紗、お前が選ばれるとは!なんという光栄なことだ!」
父の興奮した声が響く中、千紗は頭を抱えてその場に座り込んだ。
「なんで私が側室なんですか……?聞き間違いじゃないですか?」
使者は冷静に首を振る。「聞き間違いではありません。千紗殿は、その美貌と品位が陛下の目に留まり、選ばれたのです。」
千紗は目を見開いた。「え?品位って……どこを見てですか?私はただの商家の娘ですよ。宮廷の格式なんてこれっぽっちも知らないんですけど?」
使者は取り合わず、無表情のまま続けた。「陛下の決定は絶対です。千紗殿、準備を整えて数日以内に皇宮へお越しください。」
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その夜、家族が歓喜に沸く中、千紗だけは頭を抱え続けていた。父親は酒をあおりながら「これでうちの家の名誉がさらに高まるぞ!」と叫び、母親は「千紗、お前もついに運命を掴んだのね」と涙を流していたが、当の本人には運命どころか不幸の始まりにしか思えなかった。
「私はただ、普通に暮らしたかっただけなのに……。」
千紗の嘆きに耳を貸す家族はいなかった。特に父親は「この話を断るなんてことは許されんぞ」と断固とした口調で言い放ち、千紗の逃げ場を完全に塞いでしまった。
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翌朝、千紗は友人たちに相談しようと町へ出た。しかし、この話はすでに町中に広まっており、彼女が歩くたびに人々がひそひそと噂話をする声が聞こえてくる。
「あの千紗が皇帝の側室に選ばれたんだって。」
「平民の娘が?でも彼女、美人だもんね。」
「羨ましいなあ。私だったら喜んで行くけど。」
千紗は肩を落として小さなカフェに駆け込み、親友の莉奈に事の次第を話した。莉奈は驚きの表情を浮かべたが、やがて千紗の手を握りしめて言った。
「千紗、大変な話だけど、これは断れないよ。皇帝の側室なんて……もし本当に選ばれたなら、断ったらどうなるか……。」
「分かってる。でも、私にそんなの無理だよ!華やかな宮廷生活なんて憧れたこともないし、格式高い貴族たちと渡り合う自信もない!」
「でも、千紗ならできるよ。」莉奈の言葉は真剣だった。「あんた、普段はこんな感じだけど、実は頭が良いし、人を見抜く力がある。絶対うまくやれるって!」
千紗は友人の励ましに感謝しつつも、心の中は憂鬱さでいっぱいだった。彼女はカフェの窓から外を見つめながら、小さく呟いた。
「もし断れたら……どれだけ楽か……。」
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その数日後、千紗はとうとう決心し、皇宮へ向かう馬車に乗った。親友の励ましや家族の期待を背負い、彼女は「嫌々ながら」新たな生活の第一歩を踏み出した。
「さあ、これからどうなるんだろう……。」
不安と覚悟が入り混じった表情のまま、馬車の中で静かに息をつく千紗。彼女はまだ、この先に待ち受ける波乱の日々を知る由もなかった――。