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第5話

 甘く突き刺すような匂いが鼻腔を満たし、中村は意識を引き戻す。


 ゆっくりと瞼を開けるとそこに広がっていたのは、記憶の中よりもなお歪んだ鬼塚村が広がっていた。


中村はまたしても戻ってきてしまった。悪夢の村に。


 出会った時には立派だった黒漆の鳥居も意味をなさなくなっている。


 漆は禿げ落ち、少しの力で倒れそうだ。


 叶わぬ願いと知りつつも、藁にも縋る思いで、早くこの悪夢から目覚めてくれと願う。


 しかし、世界は残酷にも中村を裏切った。


 足音もなく、ゆっくりと近づいてきたのは、血のように真っ赤な装いの女だった。


「お待ちしておりました中村様」


「ヒッ……」


 現実で見た時とは違い、確かに人間の目を宿した赤野。最初は美しいと思った容姿も、人形の皮を被ってる異形にしか見えない。


「さぁ、参りましょう。もうすぐ祭りがありましてね。皆、着飾っております。きっと中村様も気に入っていただけると思いますよ」


「そうなんだ。楽しみだな」


 赤野は仮面をつけ、無機質な笑みを浮かべていた。


 それを分かっているからこそ、中村は断ろうとしたが口が勝手に動き、言葉が出た。


 言葉を訂正しようとしても、喉が乾いて声が出なかった。中村が拒否しようとする思考を身体は置き去りにし、境界線を越える。


 本能的に危険を察した。


 踏切の音が脳に響き続ける。


 異変を探す為に神経を研ぎ澄ますと、一瞬鋭くも消える痛みが中村を襲った。


 視線を向けると、蜘蛛の糸のように細く透明な紐。ねっとりとした蜂蜜状の液体が滴り落ちている。


 糸は一本だけではなく何本も絡まっており、逃げられまいと自分に巻き付いていた。


 糸の先は赤野家があると中村は確信を持つ。


 祠の中で眠る蜂形代が、中村の動揺に同調し、僅かに羽音を立てて震えた。


 村は腐敗臭と胸焼けがしそうな女性の香りで満ちていた。


 中村は顔だけがぎこちなく動くことに気づく。そして、不安から村を見渡した。


 すると、木造で作られた古い家に吊るされていたのは、生々しい動物の肉。


 血と脂が混じったような鈍く濁った艶を放ち、琥珀色に輝くその艶めきは、美しくも不気味だった。


 それを好むとばかりに、雀蜂がびっしりと張り付いており貪っている。


 その1匹と視線が交差した瞬間、胸が凍った。


 まるで人間のような知性がそこに宿っている。雀蜂はジー……ジー……警告音を鳴らし、威嚇してきた。


 中村は恐怖から唇が震えて、顔が青ざめ悲鳴すら出てこない。せめてもの抵抗で、雀蜂から目を逸らした。


「にげ……ろ……」


「……えっ?」


 逸らした先にあったのは、古井戸。自分に似た男の声が、地の底から響いた。


 言葉すら制限されていた中村は、何故か一瞬だけ自由を得られた。


 逃げられる。中村は赤野から離れようと、足に力を込めた。


 このまま鳥居の外へ出たい。僅かな希望に縋る気持ちで一歩踏み出そうとした瞬間。


「中村様」


 その声は耳ではなく、頭蓋の内側に直接響いた。中村の小さな反抗を、静かに圧殺する。


 逃げる意思など最初からなかったかのように、身体は勝手に止まっていた。


 無音が逃げ出そうとした中村を責め立てる。


 中村は気づいた。今の今まであの古井戸以外で村人の声どころか気配すらなかった事に。


 じっとりとした絶望は、中村の背に腕を回し、まるで長い夜道を共に歩む恋人のよう。


 赤野家に辿り着くまで、中村はずっと誰かの目と、絶望の手に導かれていた。


「お茶を注いできますので、どうぞごゆっくり」


 恐怖から中村の呼吸は浅くなっていたにも関わらず、赤野は独りぼっちにする。


 空白の時が暫し流れた。下を俯いていた中村はじんわりと冷や汗を出し耐える。


 何かの液体が中村の肩を叩いた。思わず上を見上げる。


「な、んだよこれ……」


 男の遺影は昂った笑みを浮かべながらも、赤黒い血の涙を流して悲鳴をあげている。


 以前は緑一色だった畳に人の形をした汚れがべっとりとついていた。


 鬼塚村の本来の姿を圧縮したように黒く、咽せ返る暴力的な甘露な死の匂い。


 歯の奥をカチカチと鳴らしている姿は、儀式前の生贄の哀れさを帯びていた。


「お待たせしました。さぁ、どうぞ」


 静かに置かれたお茶。何かおかしいと覗き込む。


 理解をした時、中村は無の悲鳴をあげた。


 綺麗な湯呑みに敷き詰められていたのは、蜂の死骸。人間の気配を蜂達に感じる。


 生理的に受け付けられない中村は首を弱々しく振った。


「あら、遠慮なさらず。彼らも飲んで欲しそうです」


「い、いい」


「この村では貴方のような方は珍しいので、村のお茶を出しましたのに。ほら、もうすぐお祭りですから」


 必死に拒絶する中村の言葉なんて聞こえていない。


「この村では蜂は神の使いとして崇められております。だから、客人には蜂の御守りを渡したりするのですよ」


「前の方も好まれてました。あの人も立派な"雄蜂"として務めてくださったから」


 赤野の言葉に反応したのは、虫の息であった一匹の雄蜂。もがき苦しむように、手足を必死に動かしている。


 蜂の姿に中村は自分だと心の底から思い込む。


 中村の身体は糸に操られ、動き出す。蜂達はさっきまで生きていたように生々しい。


 やめてくれ。身体と乖離された中村は懇願する。


 ざらつく触感。歯で蜂を噛み砕いた時に溢れるほんのり甘くも苦い毒が舌を包んだ。


 中村の眼から光が消え、安堵から顔は穏やかに崩れていった。束の間の自由は思考を麻痺らせる。


「貴方の香りは、外のものですもの。ああ、久しぶりですね……。早く成熟してほしいです」


 赤野の瞳は蜂の巣状になっていた。


 中村は目を覚ます。口には粘り気のある甘ったるさと、わずかな舌がピリッとする。


 もしかしたら酒の飲み過ぎで記憶が飛んでいるだけかもと、現実逃避に似た言い訳をする。


「……喉乾いたな」


 今が現実なんだと喉の渇きが教えてくれた。


 目覚めた中村は口の中にある不快感を水で流すために、キッチンへ向かおうとする。


 水道から出た水を飲む。鉄臭さもあるが、火照った身体を冷やし、思考を落ち着かせてくれる。


 が、妙に甘ったるい匂いがする。


「うわぁぁぁぁぁぁ!?」


 右手に何かが当たったから見ると、眠気など飛んでいってしまった。


 そこにあったのは明らかに人の手で引きちぎられ、綺麗に並べられた雀蜂。


 中村は気づいた。


 この雀蜂は、鬼塚村で威嚇をしていた蜂だということに。


 そんなはずない。夢だろうと繰り返す中村の無意味な抵抗を嘲笑うように、スマホの着信音が部屋に響いた。


 赤野の声の囁く声にも聞こえる。


 見たくないと中村は嫌がった。しかし、仕事のメールだった場合叱られるのは自分だ。


 しかし、理解もしていた。この恐怖から逃れられないことを。


 中村は観念をし震える手で画面を見ると、カレンダーに見覚えのない予定が追加されている。


 文字化けをしていて、見えないが祭りと来週の日曜日に書かれていた。


「は、ははっ……」


 中村は現実に戻ったつもりだったが、遅すぎたのだと悟る。


 夢と現実が混ざり合って、中村を死の世界へ誘っていく。


 右腕にじんわりと痒みが包み込む。印の如く、蜂の巣の模様が浮かび上がった。


 中村は理解した。自分の死が近いことを。


 静寂が五月蝿く、疲れ切った脳は鈍い頭痛を引き起こす。


 中村の鼓動が止まったとき、右腕の巣穴から、一匹の蜂が羽化を待ち望んでいた。

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