蜂蜜のようにこびり付いた悪夢を忘れたい。その一心で中村は部屋から出て、散歩をする。
川は太陽の光により静かに煌めく。川面に映る鳥の影。子ども達は笑いながらすれ違う。ギターの弾き語りをしている男性の爽やかな歌声は、暗く沈んでいた中村の心を絹の優しさで包んだ。
そんな優しい現実を切り裂いたのは、鼻につく甘くへばりつく香り。赤く点滅する信号機のように、鬼塚村の光景が浮かび上がる。
そんなはずはない。ここは現実のはずだと、中村は自分に言い聞かせる。息が浅くなり、心臓の音は鼓膜を振るわせてくる。
匂いのする方へ、ゆっくりと視線を向けた。
「ヒッ!?」
そこにいたのは赤野であった。母のように慈悲に溢れた微笑みの仮面をつけている。
身体は風景に溶けているのに、複眼めいた光だけが異様に際立っていた。
陽光を反射してガラス玉の無機質な冷たさを孕んでいる。
夢の中でしか見たことのないはずなのに、周りの人は「この時代に着物なんて珍しいね」「とっても綺麗な人」と口にし、自分を置いてけぼりにする。
冷や汗が顎をつたい、鼓膜の奥まで凍るようだった。どうか夢であって欲しい。願いを込めて目を閉じ、ゆっくりと開く。願いが通じたのか赤野の姿はなかった。
何度も蜂蜜の香りや赤野の姿を探して周囲を見渡すが、そこにあるのは静かな草木とアスファルトの鮮やかな光景。
束の間の安心が陽だまりの香りを運んでくれる。
「……帰ろう。疲れすぎて幻覚見ただけだ」
いなくなった赤野を確認すると、緊張をほぐす為目頭を抑える。
せっかくの散歩だったのに台無しにされた不快さと、恐怖を引きずって中村は来た道を帰っていく。
「ねぇ、ママ。なんか蜂蜜の香りがする」
子どもは中村の方を指さして告げる。甘い香りは風によって溶かされていった。
まるでそこにいた何かの痕跡を隠すかのように。
家までたどり着いたが、この時点で中村は違和感を覚えた。誰かの気配がする。
耳の奥で誰かの悲鳴のような電子音が響いた。ゆっくりと扉を開けた瞬間、琥珀のぬめるような風が肌を撫でる。
「うっ!?」
部屋に入った瞬間漂ってきたのは、誰かがすぐ隣を通り過ぎたような、記憶の裏側にこびりつく香り。
水の中に沈め腐らせた百合の澱んだ甘さ。
外の優しい温もりはなく、中村を拒絶する冷気が部屋を支配していた。
思わず吐きそうになりながらも、部屋の中へと入る。
自分が普段生活領域にしている場所は、荒らされた様子はない。
しかし、中村は本能的に違和感の正体に気づいた。
呪物を置いている部屋から、無音の悲鳴が耳を劈く。
今までなかったことだ。この部屋では、呪物の匂いをごまかすためにいつもお香を焚いていた。
だが、今日は違う。警戒してゆっくりと魔の領域へと足を踏み入れる。
「……なんでこの人形背を向けてるんだ?」
朝見た時には正面を向いていたはずの日本人形が、嫌がるように背を向けていた。元の位置に戻すために手を取る。
「な、なんだよこれ!?」
中村が手を取った瞬間、人形の瞳はピシリと亀裂を走らせた。
ガラスが鈴を砕くような音を鳴らし、人形から降り注ぐ黒き雨が床に散る。
その瞬間空気が歪む。それを境に周りの呪物達も行動し始めた。
不快な刺激に喉がひりついて、呼吸がうまくできない。
また別の香りがする方に視線を向けると、置いている貰ったばかりの藁人形から喉奥を刺す匂いと共に黒い染みが滲み出す。
中村の精神は既に限界だった。こめかみが熱を帯び、視界の端が白く滲む。
異常を認識する前に、手は人形を弾き飛ばしていた。
そして逃げるように扉を閉め、背を向ける。
沈黙の帷が降ろされ、何も聞こえない。
「嘘だろ……」
扉の前で力無く座り込む。孤独を埋めてくれる愛する呪物にすら見放された。
無音が中村に、お前は孤立しているのだと責め立てる。
その気持ちを体の中で留めるには、あまりにも今の中村には重すぎる。
今日あったことや感じたことをスマホに入力しようとするが、震えているせいでうまく打ち込めない。
「違う違う違う……。そんなはずない」
自分の手が透けその奥のスマホの画面が歪んで見える。
現実世界と乖離していく。
必死に今見える光景は幻覚だと言い聞かせる中村を嘲笑うようにやって来たのは一通のメール。
蜂の絵文字しか貼られていない宛先不明のメール。
液晶がじわじわと鼻をつく臭いに支配されていく。
飴色の膿のような液に囚われたのか指先は画面から離れない。
画面が蜂の巣のようにひび割れた時、電子ノイズがじわりと滲む。
その光景に否が応でも鬼塚村の光景を思い出す。
嫌な既視感が、脳裏を焦がす。
必死に消そうとするが、蜂の羽音と共にメールが再び送られてくる。
電源を切るためにボタンを連打した。しかし、画面は消えず応えてくれない。
そして中村は気づいてしまった。
この音は自分の身体の中から出されていることを。
「は、ははっ……」
羽音が響く。胸の奥で鳴る。脈打つたび、内側で羽ばいた。
あり得ない現象に乾いた笑い声が漏れ出す。
窓ガラスは外光を受け、蜂蜜の琥珀を映す。真っ直ぐな明かりを歪まし狂気的な甘味な檻に閉じ込めた。
今を信じたくは無くて拒絶した脳は、中村に眠りにつくように命令をする。
抗う気すら起きなくて、現実に背を向ける闇へ逃げ込むしかなかった。
どこからか、蜜の雫がポタリと落ちる音が聞こえた。