クチナシが戻ってきたのは、それから一時間後だった。
半壊した謁見之間に、彼女の足音が静かに響き渡る。
エルギアは玉座に腰掛け、埃まみれの外套を叩きながら、退屈そうに剣角を指で弾いていた。
「エルギアさま、今一度よろしいでしょうか。なぜわざわざ変装を? 魔王であるならば、堂々と会いに行くのでいいのでは?」
クチナシの声は穏やかだが、どこか疑問を隠しきれていない調子だった。
「何を言っておる。街中にいきなり魔王が現れたら、どこもパニックになって住民に迷惑をかけるだろう。お年寄りも多い国なのだから、驚かせて心臓麻痺でも起こされたら大変だ」
エルギアは胸を張り、当然の結論を述べる口調で答えた。
「なるほど……さすがは魔王さま。思慮深い」
クチナシは口元の布の下で微かに頷き、感心した様子を見せる。
「うむ」
エルギアは満足げに顎を上げた。
「それでは、これより変幻の儀を執り行います」
クチナシが一歩進み出ると、謁見之間の中央に置かれた台座が目に入る。
その上には、いくつもの魔道具らしき物が雑然と並んでいた。
準備に手間取ったのか、台座の周りには埃と細かな石屑が散らばっている。
エルギアは立ち上がり、近づいてその魔道具をじっと見つめた。
「……ん?」
彼女の視線が一瞬止まる。
「ちょっと待て、それらはなんだ? 儀式で使う魔道具か? 『変幻の杖』さえあれば十分だろう」
エルギアは台座の上に置かれた大きな杖を指さし、眉をひそめた。
だが、クチナシは表情を変えず、淡々と答える。
「これらは儀式のあと、その効力を確実なものにするための保険です」
エルギアは訝しげな目で、もう一度魔道具を見直す。
何度見ても、その正体が掴めない。
一つは小さなガラス瓶に入った液体で、香水としか思えない形状だ。
隣には細長い棒状の物――口紅だろうか。
他にも、化粧台で見かけるような道具ばかりが並んでいる。
エルギアはクチナシに疑いの眼差しを向けた。
「お忍びで勇者に接触したい……そうですよね?」
クチナシが確認するように言葉を重ねる。
「う……む、まぁ、そうなのだが……しかし……その、なんだ。なにも勇者に会うためだけに、そこまで気合い入れなくても。ただの町人Aみたいな格好で十分――」
「エルギアさまッ!」
クチナシの声が鋭く割り込む。
「はいっ!」
エルギアは思わず背筋を伸ばした。
「エルギアさまにつかえる身として、
クチナシの言葉は熱を帯び、普段の冷静さとは異なる勢いがあった。
「……すいません。我、がんばります」
エルギアは小さく肩を落とし、観念した声で呟いた。
内心、彼女は思う。
頼む相手を間違えたかもしれない。
一度スイッチが入ったクチナシは、こうなると逆らうだけ無駄なのだ。
「……改めまして、変幻の儀を執り行います。エルギアさま、目を閉じ、こちらへ」
「うむ」
エルギアは静かに目を閉じ、前に進み出る。
クチナシは台座の上に置かれた大きな杖を手に取り、それをエルギアの頭上にかざした。
「変幻の杖よ、我が魔力を糧としてその真価を示せ」
杖の先端に埋め込まれた宝玉から、まばゆい光が放たれ、エルギアの全身を包み込んだ。
光は彼女の外套を揺らし、剣角の先まで届いて一瞬輝かせる。
エルギアは内心で考える。
この儀式は本当に必要なものなのか?
杖をかざして魔力を注ぎ込むだけなら、自分一人でどうにでもなる。
過去に何度か魔王城を抜け出す際、この変幻の杖を使っていた。
そのたび、クチナシに見つかり、長々と説教された記憶が蘇る。
だが、彼女は続ける。
まぁでも、クチナシが頑張っているのだし、最後まで付き合ってやるとするか。
「クフ、クフフフフフフ……」
奇妙な笑い声が耳に届く。
「……?」
エルギアは片目を開けた。
普段、無表情を貫くクチナシの顔が目の前にあった。
黒い布の下から覗く瞳が異様に輝き、生き生きとした表情が浮かんでいる。
こやつ、めちゃくちゃ楽しんでおる。
「クフフフフフフ……」
その後、エルギアは着せ替え人形と化した。
数十分後。
「……おい。嫌な予感はしていたが、まさか、かような格好で勇者のもとへ行けと?」
エルギアは鏡の前に立ち、呆れた声で言った。
「はい、何か問題が?」
クチナシは平然と答える。
「問題しかないだろッ!」
鏡に映るのは、一人の可憐な娘だった。
腰まで伸びた長いブロンドの髪。
赤を基調としたワンピースが体にぴったりと沿い、膝元まで伸びたスカートにはスリットが入っている。
その隙間から覗く生足が妙に目立つ。
「脚だけでないッ! 胸元がッ! 肩がッ! 背中がッ! スースーするッ!」
エルギアは顔を真っ赤にして叫んだ。
「これは人間の国で交易商の娘たちが好む装いです。装い自体は、勇者が『はじまりの国』で頻繁に訪れる酒場の交易商の娘たちを参考にしました。彼がその場で彼女たちと親しげに話す姿が目撃されています。さらに、隠密部隊を勇者の実家に派遣し、ベッドの下に隠されていたエッチな本を奪取しました。その本に登場する女騎士の特徴を取り入れ、勇者の癖に刺さる見た目を再現しています。光輪については、魔王軍の技術の粋を集めた最先端の魔導装置です。微弱な魔力を放ち、周囲の人間にわずかな幻惑効果を与えます。勇者に接触する際、彼の警戒心を緩め、こちらを敵と認識しづらくするための戦略的な装備です」
「めっちゃ喋るではないか」
それでも、クチナシは淡々と説明を続ける。
エルギアは鏡に映る自分をじっと見つめ、内心で呟いた。
……なんか聞いたらいけないものも混じってた気がするが、まあいいか。
「うむ。我、可愛いな」
「さすがエルギアさま。順応がお早い」
クチナシが静かに頷く。
「勘違いするでないぞ。あくまで勇者に会う上で、この格好の方が都合がよさそうだと判断したまで」
エルギアは鏡の前で体を軽くひねり、スカートがヒラヒラと宙に舞うのを確認した。
「よって、クチナシよ。このブランドのアイテムは全て我の私物とする」
彼女は台座の上に置かれた化粧道具を指さす。
「おおせのままに」
クチナシは静かに頭を下げ、心の中で『計画通り』と呟いた。
「お帰りはいつごろで?」
「そうだな……勇者の真意を、いや、我の宿敵に成しえる存在か見定めることができたなら、そのとき帰ることにしよう」
「では、
クチナシは恭しく礼をした。
「フッ、貴様もな。留守の間は頼んだぞ」
クチナシに見送られながら、エルギアは扉に向かって歩き出す。
だが、その足取りはどこかぎこちなかった。
スカートの裾が揺れ、慣れない靴の踵が石畳に軽く擦れる。
「あの……エルギアさま?」
クチナシが小さく声をかける。
「なんだ?」
「……やはり、その格好。恥ずかしいのでは?」
「う、うるさい!我は平気だ!」
「とてもお美しいですよ? きっと勇者にも気に入ってもらえるかと」
「……え? そ、そう? ……えへ、へへへ」
エルギアは照れ笑いを浮かべ、そのまま扉を開けた。
次の瞬間――。
「誰だキサマァぁああああああああッ! 侵入者だァああああ!」
扉の向こうから、兵士たちの叫び声が響き渡る。
「へ?」
エルギアのお忍び旅は、即座に兵士たちに斬りかかられ、始まるのだった。