「やれやれ、魔王補佐も、なかなか骨が折れますね」
クチナシは、重厚な木のテーブルに置かれた酒瓶を手に取り、それをぼんやりと眺める。
瓶の表面に指を滑らせると、冷たいガラスが彼女の熱い掌に心地よく響いた。
「ふぅ……」
深いため息とともに、彼女は日頃のストレスを吐き出す。
肩の力が抜け、背もたれに体を預けると、椅子の軋む音が静かな部屋に響く。
窓の外には、かつての荒廃した魔界とはまるで別世界のような、緑豊かな大地が広がっていた。
陽光に照らされた草木が風に揺れ、遠くの丘陵には色とりどりの花が点在している。
その中心にそびえる魔王城も、魔物たちの活気と笑い声に満ち溢れていた。
「魔界はこうも平和だというのに。まさか、あのエルギアさまが、こうも勇者にご執心とは」
クチナシは小さく笑い、酒瓶をテーブルにそっと置く。
長い髪が、肩から滑り落ち、窓から差し込む光で銀色に輝く。
コクコクと残りの酒を飲み干すと、もう一度、「ふう」と息をはき、遠い目をして過去を振り返るのだった。
■■■■■■■■■
――かつての魔界は、血と混沌に支配された地だった。
各々が領土を主張し、魔物同士の喰い合いが日常茶飯事。
血の穢れが大地を覆い、毒された空気は魔界そのものを蝕んでいた。
魔王城が建つよりもずっと前、そこはクチナシのナワバリだった。
クチナシは岩と砂埃に覆われた荒野に立ち、鋭い眼光で周囲を見渡す。
黒いマントが、乾いた風にバタバタと鳴り、足元の小石を軽く蹴り上げた。
「おい、そこのオマエ。どうせ死ぬなら、よそで死ね。肉塊ごときがワタシのナワバリを汚すな」
声は低く、冷たく響く。
目の前には、裸に剥かれた小さな魔物が、地べたに這いつくばっていた。
その身体は痩せこけ、ボサボサの頭髪は泥と血で汚れている。
顔には大きな痣と切り傷が刻まれ、かつてツノだったであろう突起は、誰かに遊び半分で折られたように無残に欠けていた。
「……っ…………」
魔物はかすかに呻くが、言葉にならない。
「耳が腐っているのか。この死に損ないめ」
クチナシは腕を組み、眉を寄せる。
その声には苛立ちが滲むが、その瞳には一瞬、複雑な光が宿った。
「……っ…………」
魔物は、力なく地面に爪を立てる。
小さな手は震え、まるで最後の力を振り絞るかのようだった。
クチナシはその姿を一瞥し、ふっと目を細める。
普段なら、虫けらを見るような冷たい視線で通り過ぎていただろう。
だが、この魔物のあまりにも弱々しい姿が、彼女の胸に古い記憶を呼び起こした。
――かつて、彼女自身もまた、こんな風に無力で、誰にも顧みられなかった時代があったことを。
「……フン」
踵を返し、その場を去ろうとした瞬間。
「あ……り、がとう」
か細い、ほとんど聞き取れない声が、クチナシの鼓膜を震わせた。足がピタリと止まる。
「…………!」
振り返ると、魔物は地面に額を擦りつけ、意識を失っていた。
その小さな背中は、風に吹かれれば消えてしまいそうなほど儚い。
――なぜ?
――なぜワタシはいま、あの魔物に礼を言われた?
クチナシの胸に、名もなき感情がざわめく。
唇を噛み、拳を握りしめる。
「おい」
「……」
「おいっ!」
「……っ…………」
「起きろ……このワタシがわざわざオマエのために時間を割いてやっているというのに」
クチナシは膝をつき、魔物の肩に手を置く。
声は、先ほどより強く、しかしどこか切実だった。
だが、魔物からの返事はない。
――どうでもよかったはず。
この魔物が何者だろうと、何を言おうと、どう死のうと。
この魔界で、興味を持つことなど何の意味も持たない。
……だが。
クチナシの心は、すでに揺れていた。
この魔物のことが知りたい。
このか細い声が、何を伝えたかったのか知りたい。
――これは、ただの気まぐれの延長だ。飽きたら捨てればいい。ただ……何となく……その答えを知りたくなっただけだ。
クチナシは魔物の小さな手を握り、なけなしの魔力を注ぎ込む。
彼女の掌から、淡い青い光が流れ、魔物の身体を包む。
魔物の瞼が、ピクリと動いた。
それを見たクチナシは、ほっと息をつく。
「……よかった。どうやら間に合ったようだ」
次の瞬間、彼女は自分の言葉に啞然とする。
「……よかった?」
――ワタシは、いま、何を言った?
「…………ハァ、今日のワタシはどうかしている」
クチナシは自嘲するように笑い、魔物を雑に抱き上げた。
小さな身体は、驚くほど軽く、今にも壊れそうなほど脆く感じられる。
――結局、コイツは……ワタシに何を伝えたかったのだ?
――なぜ……ワタシは、こんなにもコイツのことを気にかけているのだ?
その答えは、まだ見つからない。
だが、クチナシの心は、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
―――。
数日後、魔物は命を取り留めた。
それからというもの、彼女はクチナシの影のように寄り添い、行動を共にするようになった。
クチナシは、退屈しのぎのつもりで、魔物に文字を教え、魔法を教え、生きる術を叩き込んだ。
魔物は驚くほど賢く、努力家だった。
クチナシが教えた書物のページを、目を輝かせて読み漁り、魔法の詠唱を何度も繰り返す。
彼女の小さな手は、杖を握るたびに震えを減らし、日に日に力強さを増していった。
――あのときの言葉の意味は、まだ分からない。
クチナシは、こっそり人里に降りては、そこの文化や価値観を学び、魔物に伝えた。
人間の市場で交わされる笑い声、子供たちが走り回る喧騒、老人が語る物語――すべてを吸収し、魔物に教えた。
――あのときの言葉の意味を、まだ聞けない。
感情の表し方を、この魔物は理解していないようだった。
クチナシは笑顔の作り方を教えた。
「ク、クフフ、クフフフフフフ」
口元は、かつて裂かれた傷が癒えぬまま、ぎこちなく歪む。
「う゛わぁぁああ!!!」
よほど怖かったのか、めちゃくちゃ泣かれた。
目を丸くし、慌てて口元を隠す。
かなりヘコんだ。
それ以降、魔物は口元を布で覆うようになった。
月日が経つにつれ、その無表情だった顔は少しずつ柔らかくなり、控えめな笑みが浮かぶようになった。
ある日、魔物が小さな花を手に、はにかむように微笑んだとき、クチナシは思わず彼女を抱きしめていた。
――あのときの言葉の意味を、まだ聞きたくない。
聞いてしまったら、今度はワタシが手放せなくなる……そんな気がしたからだ。
――この感情がなんなのか、まだ気付きたくない。
魔物には才があった。
カリスマと呼ぶべき力。
魔界の魔物たちが、こぞってその小さな存在に惹かれ、集まり始めた。
クチナシはそれを、誇らしく、しかしどこか寂しく眺めていた。
ある夜、魔物はクチナシの前に立ち、静かに頭を下げた。
「名前を、授けて欲しい」
その言葉に、クチナシの心は揺れた。
名前というのは、特別なものだ。
クチナシ自身の名は、かつて彼女を産み落とした者に押し付けられたものだった。
『お前のソレは裂けすぎていて、もはや口ではない。ああ、なんておぞましい』――そんな言葉とともに与えられた名を、彼女は何度も捨てようとしたが、結局捨てられなかった。
名は、己を縛る鎖ではないのか?
そんな不安が、クチナシの胸を締め付ける。
だが、彼女はふと、かつての荒野で見た一輪の紅い花を思い出す。その花は、どんな過酷な環境でも咲き続け、まるで希望そのもののように輝いていた。
その花が示す言葉を、クチナシは知っていた。
「……エルギア」
彼女は、静かにその名を口にした。
魔物の瞳が、驚きと喜びで輝く。
――――――。
月日が流れ、エルギアは東の魔王となった。
魔王城の玉座に座る彼女は、堂々とした姿で高らかに宣言した。
「我は、エルギア! 民のため、我に名を授けし者のため、この名を……この名を誇りとし……平和と繁栄の礎になることを! ここに誓おう!」
『うぉぉおおおおおおおお!!』
広間を埋め尽くす魔物たちの歓声が、城壁を震わせる。
クチナシは玉座の脇に立ち、エルギアの姿を静かに見つめる。
彼女の脳裏には、あの小さな魔物が這いつくばっていた姿と、『ありがとう』の声が重なる。
――『不安だから補佐役でそばにいてくれぇッ!』と、泣いてすがりついてきた魔王はどこのどいつだったか。
クチナシは、あのときの顔を思い出して笑いをこらえる。
「なぁ。なぁってば、クチナシ」
エルギアが、玉座から身を乗り出し、クチナシに囁く。
その姿はクチナシから見たら、子どものようだった。
「はい、エルギアさま」
片膝をつき、続く言葉を待つ。
「我に名を授けたこと、後悔してないか?」
その問いに、クチナシは一瞬息を止める。
だが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「……もちろん、後悔などしておりません」
エルギアは、その答えに満足したように目を細め、にこりと笑う。そして、クチナシの耳元にそっと囁いた。
「ならば……この魔王の名のもとに、こっそりと誓おう」
「?」
「我が生涯を賭けて、必ずアナタに恩を返す。と」
「……………」
「クチナシ。我を見つけてくれて、ホントにありがとう」
「!」
――『あ……り、がとう』
あの日の情景が、脳裏を鮮やかに駆け巡る。
「……まったく……アナタって人は……」
――あのときの言葉の意味を、ワタシは知ってしまった。
瞼が熱くなり、視界が滲む。
クチナシは、静かに頷いた。
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「あぁ、あのときのエルギアさまは、ホントに無邪気で。可愛かったのですがねぇ」
クチナシは、窓辺に飾られた一輪の紅い花を眺める。
『エルギア』――。
今では魔界の至るところで咲く花だが、かつてはあの荒野にただ一輪、咲いていたものだった。
花言葉は、『あなたの前に幸福は訪れる』。
だから、その名を
かつてアナタに救われたワタシの幸福が、アナタにも訪れますように。
――その花言葉を、まだエルギアには教えていない。
「いつか、アナタがその意味を知ったとき。どんな顔をするのでしょうか?……クフフフ……それはとてもとても……楽しみですね」
クチナシは空の酒瓶をそっと撫で、満足げな笑みを浮かべると、そのまま眠りについたのだった。