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(6)両方楽しんでから、死ぬ

 その日はジョーさんに、ウサギから奪ったものを買い取ってもらうつもりだった。


 ジョーさんは秋葉原の裏路地に居を構えていて、わたしは秋葉原駅の雑踏が嫌いなので、お茶の水で降りて散歩がてら一駅分歩いていた。


 川のせせらぎ。繁華街から少し離れたところ特有の、人の気配はするのになんだか物寂しい雰囲気。硬さがある冷たい冬の朝の空気。


 神田明神を横目に見ながら歩いていると、1台の車がわたしに突っ込んできた。それが九十九さんだった。


「あっ……あ、あ〜。やっちゃった? やっちゃったかな。えぇ……ショックだ。あたし最低だ……無理」


「おいこら」


 徐行で突っ込んできた車を避けれなかったこちらにも非があるかも、と一瞬頭をよぎったが、歩道に車が突入してくるとは思いもしないわけで。軽くぶつかっただけで大したことはなかったが、開いた運転席の窓から永遠と聞こえてくるぼやきに腹がたった。


「先に怪我人の保護でしょう」


 仰向けに倒れたまま、空に向かって言う。


「え、ウソ、生きてるじゃん! よかった〜!」


 運転席の扉が開いて、下手人の顔が目に入る。その瞬間、わたしの呼吸が止まったのは言うまでもない。


 何度も何度も夢見た人が、青空を切り取るように、姿を現した。


 推しだ! 推しが、わたしを轢いた?


 パニックである。その頃のわたしはまだ、九十九さんに憧れと幻想を抱いていたのだ。


「大丈夫? とりあえず病院に……を」


 運転席から降りるや否や、九十九さんがわたしの隣に倒れ込んだ。慌てて九十九さんの肩を揺すろうとして、躊躇う。


 推しに触れていいのか?


「つ、九十九さんですよね? トゥーハンの」


 とりあえず肩から5センチ離れた空中に手を静止させて、呼びかけた。


「お、ファンの子? ありがとね〜。でも、あたしはここまで……みたい」


 九十九さんが地面に突っ伏しながら言った。


「どうしたんですか? もしかして、病気?」


 トゥーハンの解散理由は不明だった。最高のガールズバンドはまさに絶頂の最中、蜃気楼のようにふっと消えてしまった。


 メンバーの病、という噂がなかったわけではない。もしかして、バンドを続けられないほど重い病を、九十九さんが……。


 九十九さんが小声で何かを呟いた。顔を寄せて、必死に聞き取ろうとする。なにか、彼女を助けるヒントを。


「あれを、持ってきて」


「なんですか? あれってなんなんですか!」


「シャウ」


「シャウ……シャウ?」


 シャウって、エッセンか? いや、そんなわけがない。なにかの薬の名前に違いない。推しが今際の際にウィンナーの名前を呟くなんて、そんな。


「お金、なくて。ご飯、食べてないの。うぅ、死ぬ前に一度は食べてみたかった……シャウ、エッセン……」


 そんなことってあるのか。


 振り返ってみても最悪な部類に入る方の出会いだと思う。比喩でもなんでもなく、わたしの人生は推しに轢かれて一変した。


 神田明神前で明らかになった事実が3つある。


 まず、九十九さんがインタビューで答えていた「人生最後に食べるならシャウエッセン」は、好物だからではなく、食べたことがない憧れの食品だから。ウィンナー自体は別に好きでも嫌いでもないらしい。オーバーワン=ウィンナー説は瓦解した。


 次に、九十九さんが無免許だということ。わたしがとりあえず警察を呼ぼうとしたら、必死に止められた。じゃあ、肝心の車はどう調達したのかというと、バンドメンバーの真香さんが手配してくれたそうだ。大人の責任とは。


 最後に、九十九さんは思ったよりも碌でもない、普通のダメ人間で、常に光の中にいる人ではなかったということ。むしろ、ステージ上にいる瞬間だけが特殊で、ステージから降りれば、歌っていなければ、ギターを抱えていなければ、どうしようもなく可哀想な人なんだと、それからずっと思い知らされることになる。


「コウちゃん、聞いてる?」


 ハッとした。目の前の信号が黄色に変わったので、アクセルを踏み込み通過する。


 少しトリップしていた。


「ごめん、全く聞いてなかった」


「しょうがないなぁ。特別にもっかい教えてあげる」


「別にいい」


 その日はジョーさんに、ウサギから奪ったものを買い取ってもらうつもりだった。「誰のせいだと」「あたし、一九十九の最後の晩餐は……じゃん! 蟹です! やっぱね、蟹だと思うんだよね。ご馳走といったら蟹だからね。毛蟹だよ? タラバじゃないよ? 棘が手に刺さってさ、傷口に蟹の汁が沁みるけどさ、痛みを乗り越えて食べるから美味しいんだよね。あっ、最低でも2杯は食べなきゃ。味噌が美味しい毛蟹は身が微妙だし、身が美味しいのは味噌がイマイチだし。両方楽しんでから、死ぬ!」


「最後の晩餐って、なんかこう、思い出の食事とかのほうがいいんじゃ」


「一回だけプロデューサーに連れてってもらったことがあってー。でも結構気まずかったな。みんな無言になるんだもん」


 窓の外を、街灯が次々飛び去っていく。夜の運転は嫌いじゃない。外界から隔絶された車の中。小刻みに伝わる振動。タイヤが滑らかな地面を走ったときの、シューという音。


 バックミラーにぶら下げたトゥーハンのストラップが、道路の凹凸を越えるたびにかちゃかちゃ揺れる。ドックタグを模したプラスチックの板に、201とだけ書かれているファングッズ。


 寝静まる街を、車だけが駆け抜けていく。


 九十九さんの与太話だって、TPOがあっていれば、嫌いじゃない。ただ、この人は時と場所を選ばない。選ぶつもりがもとからない。そのときしたい話を、したいことを、迷わずする。


「あっ」


「え、なになに。蟹にビビッときた?」


「九十九さんが変なこと喋るから、手癖で高速に乗ってしまった」


「しっかりしてよ〜。もし検問とかあったらどうするん」


「誰のせいだと」

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