天が死んでから、もうどれほど経ったのか。
誰も数えない。記録もない。そもそも、数える意味がない。
この地にかつて「神々の都」と呼ばれた名残は、もう何一つ残されていない。
空には雲ひとつなく、ただ灰色の膜が大地を押し潰すように広がっている。太陽は沈まず、昇らず、光はただ世界の死体を照らしているに過ぎない。
イグノは崩れた神殿跡の中央に座り込んでいた。
床には自らの血で描いた“
彼は目を閉じ、低く呟いた。
まるで、何かを呼び起こすように――否、既に存在しないものにすがるように。
「アノ・キトゥ・ロ・エル……カナ・メレア……カエル・アミル……」
呪文ではない。願いでもない。ただ、意味を失った古語の羅列だ。
かつて神が世界と交わした契約、その名残。人間の命と引き換えに“何か”を与えるとされた祈祷の原型。
しかし、空は沈黙したまま返事を寄越さない。
いや、違う。空には最初から何もいない。ただ、応答のない死の膜がそこにあるだけだ。
イグノはその沈黙を受け入れるように、ゆっくりと手を下ろした。
血が垂れ、床の印章を濡らす。赤は黒に変わり、やがて乾いた灰の一部となる。
「……今日も、駄目か」
呟いた声は、自身に対するものか、それともかつての神へ向けたものか。
神は死んだ。
祈りは禁忌とされ、祈祷師は裏切り者と呼ばれる。
だがそれでも彼は祈る。償うために。自分がかつて犯した、取り返しのつかない罪のために。
――世界を、壊したその罪のために。
突然、風が吹いた。腐臭を運ぶ、北からの風。
イグノは顔を上げ、眉をひそめた。
「来るな……夜が始まる」
それは、神よりも恐れられている“夜”の始まりの合図だった。
陽が沈まぬこの世界において、「夜」とは時間ではなく現象だ。
空の色は変わらず灰のまま、しかし空気が濃くなり、音が消え、皮膚が冷えてくる――
それが“夜”の合図。贖罪獣の狩りが始まる時間。
イグノは神殿跡を離れ、外縁の崩れた水路に身を潜めた。
風は完全に止まり、空気は澱むように重くなる。肺が膨らむたび、錆びた鉄を吸い込むような苦味が広がる。
「来るか……今夜も」
どこか遠くで、土の鳴る音がした。
這うような、喰うような、柔らかく湿った音。
それは音というより感覚だった。骨の奥で震えるような、理解を拒む“異物の到来”を告げる振動。
やがて、視界の隅に――それは現れた。
人のように四肢を持ち、けれど人の形を否定するような“曲がり方”をした異形。
眼球がない頭部の中心には、赤く蠢く「贖罪核(アリュース)」が浮かび、それが鼓動のように波打つたびに、周囲の温度が下がる。
この世界で最も忌まれ、そして神に最も近いとされる存在。
かつての神の“罰”だけがこの獣を生み、祈りによって世界に実体化する。
つまり、祈ることが――こいつらを呼ぶことになる。
イグノは息を殺した。動けば気付かれる。祈れば反応する。
だが、今日の夜は運が悪かった。
「……っ!」
崩れた瓦礫の隙間から、小さな影が転がり込んできた。
少女だった。年端もいかぬ、痩せた体。目は恐怖で見開かれ、膝を擦り剥き、肩を震わせていた。
彼女も気づいた。贖罪獣の接近に。
その存在を知る者なら、否応なく理解できる。
“終わり”が近いということを。
「動くな」イグノが囁く。
少女は反応しない。恐怖に凍りついたその身体は、既に限界を超えていた。
贖罪獣が嗅ぎつける。
肉の匂い、祈りの残滓、そして罪の気配。
“ズルリ”
音と共に、獣が首を曲げた。いや、「曲げた」のではない。「割った」のだ。
骨と肉を否定するような、不自然な音と動き。神に最も近いというより、神の否定そのもの。
イグノは短く、鋭く息を吸った。
――選べ。
祈れば助けられる。
だがそれは、この場を“祈りの座”に変えること。世界に再び、神罰を呼び寄せること。
祈らなければ、少女は死ぬ。
それだけだ。
彼の指が震えた。掌にまだ血が残っていた。印章を描くこともできる。
だが――
「……チクショウが」
イグノは指を噛み切った。血がほとばしる。地面に走り描く。
印章、展開。祈祷語、発声。
「ナ・ルス・カエル・ミナス――!」
祈りが解き放たれた瞬間、空が歪む。
贖罪獣が、咆哮とも苦悶ともつかぬ音を吐き、後退する。
だが、それは“駆逐”ではない。“抑制”でしかない。
イグノは少女を背にかばいながら、睨みつけた。
「俺の罪は、これでまた一つ積まれた。……お前の命で、だ」
祈りは誰かを救い、誰かを地獄に沈める。
この世界において、それは絶対の法則だった。
夜が明けた――ように“見えた”だけだった。
この世界に、本当の朝は存在しない。
ただ“贖罪獣”がその狩りを終え、再び地の底へと姿を消すことで、相対的に“静寂”が戻ってくるだけだ。
イグノは崩れかけた避難小屋の中で、静かに上着を脱いだ。
その背には、黒い痣のような模様が浮かび上がっていた。
刻印。正式には
ひとつ祈るたびに、それは広がっていく。
心臓に届けば、死ぬ。魂が“贖われて”しまう。
そしてその魂は、神なき天へと吸い上げられ――《誰かの犠牲》として再利用される。
「……また、増えたな」
イグノは呻きのように呟いた。
背の右側、肩甲骨の下あたりに、新たな《第八印》が浮かんでいた。
神罰印は、最大で十個。
十個目を刻まれた時、祈祷師は“神の器”として昇華される。
つまり、祈祷師の肉体と魂は、次の神罰の発動装置となる。――世界を破壊する兵器になるのだ。
少女は小屋の隅で膝を抱えていた。
昨夜の恐怖から未だ抜け出せておらず、目だけが異様に冴えていた。
しかし、何も言わない。声を出す余裕も、信頼も、彼女の中にはもう残っていない。
イグノは水筒から少量の水を口に含み、手当てに使う。
血が止まらない。身体のどこかが確実に、祈りによって壊れている。
だがそれは、当然の代償だった。
「……俺が、お前を助けたのは間違いだったかもしれん」
ぽつりと呟いた言葉に、少女がびくりと身体を震わせた。
「だがな――もっと大きな間違いは、あの時、祈ったことだ」
壁にもたれかかりながら、イグノは自嘲のように笑う。
まるで、自分のことなどどうでもいいとでも言うように。
「俺はかつて、“世界を救うため”に祈った。結果、この有り様だ。救ったはずの世界がこうなって、救われたはずの人間はもうほとんどいない。神は死んで、俺は生き残った……ただ、世界を壊した唯一の“証人”としてな」
沈黙が落ちる。
少女が息を飲む音が、やけに大きく響いた。
「……じゃあ、なんでまだ祈ってるの?」
その問いに、イグノは答えなかった。
否――答える資格がなかった。
彼の祈りは、もう“救い”ではない。
それは“償い”ですらない。
ただ、自分が壊した世界を、何度でも繰り返し噛み締めるための“罰”なのだ。
小屋の外から、重たい足音が近づいていた。
金属を引きずるような不協和音。誰かが装甲を纏っている。武装した者たちだ。
イグノは何も言わず立ち上がる。逃げる気配はなかった。
「出てこい、祈祷師ッ!」
扉が叩き壊される。荒々しく、怒りに満ちた声が室内に飛び込んできた。
数人の男女が銃と棍棒を手に押し入る。
イグノの前に立っていた少女が咄嗟に庇うように動くが、彼はその肩を押し下げた。
「下がれ。これは、俺の報いだ」
男たちのリーダー格はイグノの顔を確認すると、目を見開き、唾を吐いた。
「やっぱりお前か。〈血印の祈祷師〉――まだ生きてやがったとはな」
「久しぶりだな。ルカス」
「その口を縫い合わせてやろうか」
ルカスは銃口をイグノの額に突きつけた。
その手は震えていない。ただ、怒りが込められていた。
「この町は三年前、お前の祈りのせいで半分死んだ。俺の家族も、妻も、妹も――全部だ。なのに、まだ祈ってる?ふざけるな。祈るって行為はもう“罪”なんだよ、わからねぇのか?」
イグノは何も言わない。
黙ってその言葉を受け止める。ただ、反論だけはしなかった。
「祈祷師が祈るたびに、贖罪獣が生まれる。お前らが神に繋がってる限り、世界は終わらない。終わらないってことは、ずっと苦しみが続くってことだ。――つまり、裏切りだろ」
少女が声を上げた。「彼は……私を助けてくれた!」
だが誰も聞いていない。聞こうとすらしていない。
「助ける? そのせいで、また誰かが死ぬんだよ」
ルカスの声には、恨みよりも悲しみが混じっていた。
「祈るってのは、誰かを“選ぶ”ってことだ。助ける者を選ぶってことは、見捨てる者を決めるってことだ。お前ら祈祷師は、いつもそうやって誰かを“神の手”で殺してきたんだよ」
静寂が降りた。
誰も動かない。誰も銃を撃たない。ただ、全員が、イグノを“断罪”していた。
そして、少女が震える声で問いかける。
「……でも、それでも、イグノは――祈るの?」
イグノは目を伏せ、背後の空を見上げた。灰色の、死んだ空を。
「祈るさ、この世界が壊れきるまで。俺が壊れきるまで。……それが、俺の罰だ」
ルカスが一歩前に出て銃口を近づけたが、少女がその間に立った。
「殺すなら、私も一緒に。彼を守った私は、同罪でしょう?」
ルカスの顔が歪む。怒りと困惑と、無力感。
やがて、銃口がゆっくりと下ろされた。
「……消えろ。二度と祈るな。いや、祈るなら――誰にも見えない場所でやれ」
「祈りたければ、一人で祈れ。……だが、その祈りで誰かが死ぬなら、俺はお前を殺す」
イグノは頷いた。
そしてもう一度、少女を背に、瓦礫の上に膝をついた。
血の滲む掌を組み、誰にも届かぬ祈りを――静かに、呟いた。