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黒陽の果てに祈りは届かず
黒陽の果てに祈りは届かず
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異世界ファンタジーダークファンタジー
2025年05月22日
公開日
1.9万字
連載中
コンセプトは、【世界観からしてもう詰んでるダークファンタジー】のようなもの。 そんな感じのものが書けたらいいなぁ…って思いながら書いてます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 人類は、神々に見捨てられた。 空は常に灰色に染まり、大地は血を吸って腐っている。 異形“贖罪獣”が夜ごと人を喰らい、文明は断片的にしか残っていない。 かつて神に仕えていた“祈祷師”たちは今や迫害される側。 祈りは届かない、神などいない。 だが主人公・イグノは、それでも祈る。自らの肉体を代償に。 これは、「信仰の意味」がすでに失われた世界で、 信じることしかできない人間の、滑稽で、残酷で、希望なき旅の記録。

第1話 忘却の地、始まりの祈り

 天が死んでから、もうどれほど経ったのか。

 誰も数えない。記録もない。そもそも、数える意味がない。


 この地にかつて「神々の都」と呼ばれた名残は、もう何一つ残されていない。

 空には雲ひとつなく、ただ灰色の膜が大地を押し潰すように広がっている。太陽は沈まず、昇らず、光はただ世界の死体を照らしているに過ぎない。


 イグノは崩れた神殿跡の中央に座り込んでいた。

 床には自らの血で描いた“印章セフィル”。祈りの基盤となる式文を正確に描くには、少量の血では足りない。彼の左腕には幾重にも古傷が刻まれ、その上に新たな切創が加えられている。


 彼は目を閉じ、低く呟いた。

 まるで、何かを呼び起こすように――否、既に存在しないものにすがるように。


 「アノ・キトゥ・ロ・エル……カナ・メレア……カエル・アミル……」


 呪文ではない。願いでもない。ただ、意味を失った古語の羅列だ。

 かつて神が世界と交わした契約、その名残。人間の命と引き換えに“何か”を与えるとされた祈祷の原型。


 しかし、空は沈黙したまま返事を寄越さない。

 いや、違う。空には最初から何もいない。ただ、応答のない死の膜がそこにあるだけだ。


 イグノはその沈黙を受け入れるように、ゆっくりと手を下ろした。

 血が垂れ、床の印章を濡らす。赤は黒に変わり、やがて乾いた灰の一部となる。


 「……今日も、駄目か」


 呟いた声は、自身に対するものか、それともかつての神へ向けたものか。


 神は死んだ。

 祈りは禁忌とされ、祈祷師は裏切り者と呼ばれる。

 だがそれでも彼は祈る。償うために。自分がかつて犯した、取り返しのつかない罪のために。


 ――世界を、壊したその罪のために。


 突然、風が吹いた。腐臭を運ぶ、北からの風。

 イグノは顔を上げ、眉をひそめた。


 「来るな……夜が始まる」


 それは、神よりも恐れられている“夜”の始まりの合図だった。



 陽が沈まぬこの世界において、「夜」とは時間ではなく現象だ。

 空の色は変わらず灰のまま、しかし空気が濃くなり、音が消え、皮膚が冷えてくる――

 それが“夜”の合図。贖罪獣の狩りが始まる時間。


 イグノは神殿跡を離れ、外縁の崩れた水路に身を潜めた。

 風は完全に止まり、空気は澱むように重くなる。肺が膨らむたび、錆びた鉄を吸い込むような苦味が広がる。


 「来るか……今夜も」


 どこか遠くで、土の鳴る音がした。

 這うような、喰うような、柔らかく湿った音。

 それは音というより感覚だった。骨の奥で震えるような、理解を拒む“異物の到来”を告げる振動。


 やがて、視界の隅に――それは現れた。


 人のように四肢を持ち、けれど人の形を否定するような“曲がり方”をした異形。

 眼球がない頭部の中心には、赤く蠢く「贖罪核(アリュース)」が浮かび、それが鼓動のように波打つたびに、周囲の温度が下がる。


 贖罪獣アスフェリウム

 この世界で最も忌まれ、そして神に最も近いとされる存在。

 かつての神の“罰”だけがこの獣を生み、祈りによって世界に実体化する。


 つまり、祈ることが――こいつらを呼ぶことになる。


 イグノは息を殺した。動けば気付かれる。祈れば反応する。

 だが、今日の夜は運が悪かった。


 「……っ!」


 崩れた瓦礫の隙間から、小さな影が転がり込んできた。

 少女だった。年端もいかぬ、痩せた体。目は恐怖で見開かれ、膝を擦り剥き、肩を震わせていた。


 彼女も気づいた。贖罪獣の接近に。

 その存在を知る者なら、否応なく理解できる。

 “終わり”が近いということを。


 「動くな」イグノが囁く。


 少女は反応しない。恐怖に凍りついたその身体は、既に限界を超えていた。


 贖罪獣が嗅ぎつける。

 肉の匂い、祈りの残滓、そして罪の気配。


 “ズルリ”


 音と共に、獣が首を曲げた。いや、「曲げた」のではない。「割った」のだ。

 骨と肉を否定するような、不自然な音と動き。神に最も近いというより、神の否定そのもの。


 イグノは短く、鋭く息を吸った。


 ――選べ。


 祈れば助けられる。

 だがそれは、この場を“祈りの座”に変えること。世界に再び、神罰を呼び寄せること。


 祈らなければ、少女は死ぬ。

 それだけだ。


 彼の指が震えた。掌にまだ血が残っていた。印章を描くこともできる。

 だが――


 「……チクショウが」


 イグノは指を噛み切った。血がほとばしる。地面に走り描く。

 印章、展開。祈祷語、発声。


 「ナ・ルス・カエル・ミナス――!」


 祈りが解き放たれた瞬間、空が歪む。

 贖罪獣が、咆哮とも苦悶ともつかぬ音を吐き、後退する。

 だが、それは“駆逐”ではない。“抑制”でしかない。


 イグノは少女を背にかばいながら、睨みつけた。


 「俺の罪は、これでまた一つ積まれた。……お前の命で、だ」


 祈りは誰かを救い、誰かを地獄に沈める。

 この世界において、それは絶対の法則だった。



 夜が明けた――ように“見えた”だけだった。

 この世界に、本当の朝は存在しない。

 ただ“贖罪獣”がその狩りを終え、再び地の底へと姿を消すことで、相対的に“静寂”が戻ってくるだけだ。


 イグノは崩れかけた避難小屋の中で、静かに上着を脱いだ。

 その背には、黒い痣のような模様が浮かび上がっていた。

 刻印。正式には深層神罰印デス・スタグマと呼ばれる、祈祷師に刻まれる代償の烙印。


 ひとつ祈るたびに、それは広がっていく。

 心臓に届けば、死ぬ。魂が“贖われて”しまう。

 そしてその魂は、神なき天へと吸い上げられ――《誰かの犠牲》として再利用される。


 「……また、増えたな」


 イグノは呻きのように呟いた。

 背の右側、肩甲骨の下あたりに、新たな《第八印》が浮かんでいた。


 神罰印は、最大で十個。

 十個目を刻まれた時、祈祷師は“神の器”として昇華される。

 つまり、祈祷師の肉体と魂は、次の神罰の発動装置となる。――世界を破壊する兵器になるのだ。


 少女は小屋の隅で膝を抱えていた。

 昨夜の恐怖から未だ抜け出せておらず、目だけが異様に冴えていた。

 しかし、何も言わない。声を出す余裕も、信頼も、彼女の中にはもう残っていない。


 イグノは水筒から少量の水を口に含み、手当てに使う。

 血が止まらない。身体のどこかが確実に、祈りによって壊れている。

 だがそれは、当然の代償だった。


 「……俺が、お前を助けたのは間違いだったかもしれん」


 ぽつりと呟いた言葉に、少女がびくりと身体を震わせた。


 「だがな――もっと大きな間違いは、あの時、祈ったことだ」


 壁にもたれかかりながら、イグノは自嘲のように笑う。

 まるで、自分のことなどどうでもいいとでも言うように。


 「俺はかつて、“世界を救うため”に祈った。結果、この有り様だ。救ったはずの世界がこうなって、救われたはずの人間はもうほとんどいない。神は死んで、俺は生き残った……ただ、世界を壊した唯一の“証人”としてな」


 沈黙が落ちる。

 少女が息を飲む音が、やけに大きく響いた。


 「……じゃあ、なんでまだ祈ってるの?」


 その問いに、イグノは答えなかった。

 否――答える資格がなかった。


 彼の祈りは、もう“救い”ではない。

 それは“償い”ですらない。

 ただ、自分が壊した世界を、何度でも繰り返し噛み締めるための“罰”なのだ。



 小屋の外から、重たい足音が近づいていた。

 金属を引きずるような不協和音。誰かが装甲を纏っている。武装した者たちだ。

 イグノは何も言わず立ち上がる。逃げる気配はなかった。


 「出てこい、祈祷師ッ!」


 扉が叩き壊される。荒々しく、怒りに満ちた声が室内に飛び込んできた。


 数人の男女が銃と棍棒を手に押し入る。

 イグノの前に立っていた少女が咄嗟に庇うように動くが、彼はその肩を押し下げた。


 「下がれ。これは、俺の報いだ」


 男たちのリーダー格はイグノの顔を確認すると、目を見開き、唾を吐いた。


 「やっぱりお前か。〈血印の祈祷師〉――まだ生きてやがったとはな」


 「久しぶりだな。ルカス」


 「その口を縫い合わせてやろうか」


 ルカスは銃口をイグノの額に突きつけた。

 その手は震えていない。ただ、怒りが込められていた。


 「この町は三年前、お前の祈りのせいで半分死んだ。俺の家族も、妻も、妹も――全部だ。なのに、まだ祈ってる?ふざけるな。祈るって行為はもう“罪”なんだよ、わからねぇのか?」


 イグノは何も言わない。

 黙ってその言葉を受け止める。ただ、反論だけはしなかった。


 「祈祷師が祈るたびに、贖罪獣が生まれる。お前らが神に繋がってる限り、世界は終わらない。終わらないってことは、ずっと苦しみが続くってことだ。――つまり、裏切りだろ」


 少女が声を上げた。「彼は……私を助けてくれた!」


 だが誰も聞いていない。聞こうとすらしていない。


 「助ける? そのせいで、また誰かが死ぬんだよ」


 ルカスの声には、恨みよりも悲しみが混じっていた。


 「祈るってのは、誰かを“選ぶ”ってことだ。助ける者を選ぶってことは、見捨てる者を決めるってことだ。お前ら祈祷師は、いつもそうやって誰かを“神の手”で殺してきたんだよ」


 静寂が降りた。

 誰も動かない。誰も銃を撃たない。ただ、全員が、イグノを“断罪”していた。


 そして、少女が震える声で問いかける。


 「……でも、それでも、イグノは――祈るの?」


 イグノは目を伏せ、背後の空を見上げた。灰色の、死んだ空を。


 「祈るさ、この世界が壊れきるまで。俺が壊れきるまで。……それが、俺の罰だ」


 ルカスが一歩前に出て銃口を近づけたが、少女がその間に立った。


 「殺すなら、私も一緒に。彼を守った私は、同罪でしょう?」


 ルカスの顔が歪む。怒りと困惑と、無力感。

 やがて、銃口がゆっくりと下ろされた。


 「……消えろ。二度と祈るな。いや、祈るなら――誰にも見えない場所でやれ」


 「祈りたければ、一人で祈れ。……だが、その祈りで誰かが死ぬなら、俺はお前を殺す」


 イグノは頷いた。

 そしてもう一度、少女を背に、瓦礫の上に膝をついた。

 血の滲む掌を組み、誰にも届かぬ祈りを――静かに、呟いた。

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