塔の崩壊から3日。
神の再誕は中断され、空は再び灰に戻った。
だが、世界は“正常”には戻らなかった。
秩序の崩壊が始まっていた。
天に存在していた“信仰通信網”――祈りの接続路が壊れ、
大地の魔素濃度は異常に上昇し、動植物が変異を始めていた。
祈られなかった神の残響が、世界を狂わせ始めている。
イグノとミリカは、最後の避難都市〈コール〉に向かっていた。
だがその道中、彼らが目にしたのは――“絶望の行進”だった。
数百人の避難民が、無言で進んでいた。
その目は生きておらず、皮膚は焼けただれ、子を背負う母の顔には感情がなかった。
「……何もしていないのに、死にかけている」
ミリカが呟く。
彼女の声は、すでに自分自身にも届いていないようだった。
イグノは、彼女の背を支えながら進む。
ミリカの身体はあの塔での事件以降、徐々に“神格の反応”を再発し始めていた。
時折、彼女の体から光が漏れる。
それを見た避難民たちは――恐れた。
「……あいつ、光ってるぞ」
「贖罪獣の兆候じゃないのか……?」
囁きが広がる。
わずかに残った“信仰の知識”が、ミリカを再び“異端”に変えようとしていた。
子どもが母に抱きつく。「あの人、神さま……?」
母親は震えながら言う。「見ちゃダメ。見たら、連れていかれる……」
イグノの目が細まる。
あの日、塔の中で確かに“選ばれかけた”ミリカ。
今も、その名残が残っている。
「……このままじゃ、お前はまた“偶像”にされる」
「私が……私自身を信じられないのに、誰かに祈られる資格なんてない……」
人々は、神を信じない。
だが、“誰かが神であってほしい”とは願ってしまう。
その願いが、ミリカに向かい始めている。
そしてそれが、再び世界を壊す。
ミリカが涙を流す。
それは“感情”ではなかった。
彼女の涙腺はすでに構造式の変異を受けており、祈祷媒体に変質していた。
彼女の涙が、大地に落ちた。
その瞬間――
≪贖罪獣、発生確認≫
≪局所祈祷反応:0.41G……臨界突破≫
地面が裂け、瘴気が噴き出す。
避難民たちが叫び、崩れるように四散する。
イグノが剣を抜く。
それは祈りを封じる“無信鋼”で鍛えられた刃。
だが、間に合わない。
すでに贖罪獣の影が、民の一人を貫いていた。
ミリカが崩れ落ちる。
「私が……また……殺したの……?」
イグノは彼女を抱きかかえる。
その目に怒りはなかった。あるのは、ただ一つ――
――この世界が、“
贖罪獣が現れた後、避難民たちの様子は変わった。
恐怖に怯えるだけだった彼らの中に、奇妙な“希望”が芽生え始めていた。
それは救いではない。“納得できる地獄”という名の麻酔だった。
「やっぱり、あの女は神の器なんだ」
「彼女が涙を流せば、神罰が下る。……なら、彼女を“祀れば”いいんじゃないか?」
ある者が言った。
そして、それは瞬く間に広がっていく。
信じたい。すがりたい。何でもいい。
この終わりかけた世界に、意味がほしい。
イグノはその動きを見て、吐き気を覚えた。
それはかつて自分が所属していた祈祷連盟の“最初の堕落”と、まったく同じ構図だったから。
「信仰ってのはな……“責任”を預ける行為なんだよ」
誰かが神になれば、他の誰かは責任から自由になれる。
その代償として、神は“死ぬまで信じられる”という呪いを背負う。
ミリカは崩れかけた祭壇に押しやられていた。
白い布を纏わされ、額に祈祷印を描かれ、手足を縛られた。
「お願いです……彼女は、ただの人間です。やめてください」
叫ぶ青年の声は、誰にも届かなかった。
群衆の目には理性はなかった。ただ、信仰による共同幻想があった。
祀ることで、災厄を収める。神を見せしめにすることで、自分たちは“救われる演技”をできる。
「神に……なりたくなんて、なかったのに」
ミリカが呟く。
その姿を見て、イグノは刃を抜いた。
「やめろ」
声が低く、深く響いた。
群衆の男が言い返す。
「……彼女が祈れば、天が沈黙する。祈らなければ、贖罪獣が出る。つまり、彼女の中にはまだ“神の声”がある。そうだろう、祈祷師?」
「……そうだよ。だから、“俺が壊す”。この手で」
次の瞬間、イグノの刃が空を裂いた。
祭壇の端を切り落とし、布を裂き、拘束具を断ち切る。
ミリカが解放される。だが、立ち上がれない。
光がまた、彼女の体内から漏れ出ている。
≪局所神格反応、再燃≫
≪代替祈祷媒体:収束中≫
「くそっ……もう、抑えきれないのか……!」
そのとき。
人々の中から、祈りの声がまた溢れた。
「神よ、裁きを……!」
「我らに、赦しを!」
「その身に、全ての責任を!」
空が再び裂けた。
贖罪獣が、出現した。
だが今回は違う。
それは“誰かを喰う”ためではなかった。
ミリカに、跪いていた。
「……これは、崇拝構造の完成形……?」
イグノが呟く。
“神を殺す”存在として再構築されかけたミリカは、今や、
“神に選ばれる存在”へと反転し始めていた。
祀り上げられ、祈られ、神として跪かれる。
ミリカの前に膝をついた贖罪獣は、静かにその頭を垂れていた。
それは服従ではなかった。
それは――崇拝。
「やめて……私は……そんなものじゃない……」
ミリカは震える指で、自分の胸を押さえる。
体の中で、“何か”が芽吹いていた。
≪神格反応安定化中……構造式同期率:94%≫
≪補完機能起動……記憶再接続開始≫
彼女の脳裏に、過去の断片が押し寄せる。
7歳。神託の間。
祈祷連盟の祭司たち。
「この子なら、神の声を受け止められる」
「器にするには、最も純粋な魂が必要だ」
――自分は最初から、“選ばれるように設計されていた”。
彼女は知らなかった。
自分が“神格を継ぐための実験体”だったことを。
神に祈ったのではない。神になるように、祈らされていたのだ。
≪同期率:97%……神格転写準備完了≫
もうすぐ、“神”になる。
だがそのとき――ミリカの中で、何かが叫んだ。
『嫌だ』
『私は、私でいたい』
『祈られる存在になんてなりたくない――私は、“祈りたい”側なんだ』
目を覆っていた包帯が、ひとりでにほどけていく。
彼女の両目は、再び“視えない”ままだった。
だがその瞳は、真っすぐに何かを見据えていた。
「私は神にならない」
「“救いのために祀られる存在”なんかじゃなくて、“誰かと同じ目線で、壊れた世界を歩く者”でいたい」
その瞬間、彼女の体から噴き出していた神格反応が――自壊を始めた。
≪異常検知:転写拒絶――構造崩壊開始≫
≪祈祷因子:反転性質に移行≫
贖罪獣が、悲鳴のような声を上げて消滅する。
彼らの神は、祀られることを拒否した。
イグノが駆け寄る。
ミリカの身体は膝から崩れ落ち、意識は朦朧としていた。
「……イグノ。私……神にならなかった……なれなかった、じゃなくて、ならなかった」
イグノは微かに笑った。
それは久しぶりに見せた、ほんの少しだけ“人間の顔”だった。
ミリカは神にならなかった。イグノは神を殺すために動く。
その結果、街は――「神なき現実」を直視することすらできず、自ら崩壊する。
ミリカが“神であること”を拒絶した瞬間、全てが静かになった。
贖罪獣は消滅し、空から降っていた祈祷の光も消えた。
まるで、“神の気配”だけを世界から抜き取ったように、静まり返った。
だが――
人々の表情は、次第に歪み始めた。
「……どういうことだ……」
「なぜ祈りが届かない……?」
「祀ったはずだ……神として……あの娘を……」
祈った者が祈りを拒絶したとき、人はその祈りを呪いに変える。
最初に石を投げたのは、老人だった。
続いて、誰かが火を放った。
その火は風に乗り、祭壇に積まれていた経典を焼いた。
それは象徴だった。
“信仰の物証”が燃えた瞬間、人々の中に残っていた希望は完全に砕けた。
「神は……いなかった……」
「いないなら、どうして俺たちは、こんなに苦しい……!」
怒号が響く。
瓦礫が投げられ、建物が壊され、人々は人々を襲い始めた。
それは暴動ではなかった。
それは――信仰の崩壊によって生まれた、自傷衝動の連鎖。
「俺たちは、神に祈ってたんじゃない……」
「“自分以外の誰かに、
イグノは、その光景を見下ろしていた。
焼け崩れる避難都市〈コール〉。
最後の拠点は、神を得られなかった罪悪感によって自壊した。
ミリカは彼の隣に立っていた。
彼女の目はまだ見えない。
けれど、彼女は“見えていた”。
「これが……“神のいない世界”の、姿?」
イグノはゆっくりと頷いた。
「いや――“信仰を手放せなかった人間たちの、なれの果て”だ」
「神がいないことが問題じゃない。“
ミリカは唇を噛む。
街が崩れていく音。
人々が自らを焼く音。
悲鳴よりも、“納得した死”の声の方が多い。
「……イグノ。私は、まだ信じていたかった。でも、信じることは“祈る”ことじゃない。“信仰”ではなく、“信頼”を選ばないといけないのね……」
彼女の手が、イグノの袖を掴んだ。
「もう祈らない。でも……一緒にいてくれる?」
イグノは少しだけ、迷ってから答えた。
「祈りは壊した。でも、お前の声は――聞こえる……俺は、まだ耳を塞いでいない。……それだけでいいか?」
ミリカは、小さく微笑んだ。
その背後で、街が燃え尽きていった。