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第5話 希望は焔に焼かれて

 塔の崩壊から3日。

 神の再誕は中断され、空は再び灰に戻った。

 だが、世界は“正常”には戻らなかった。


 秩序の崩壊が始まっていた。


 天に存在していた“信仰通信網”――祈りの接続路が壊れ、

 大地の魔素濃度は異常に上昇し、動植物が変異を始めていた。


 祈られなかった神の残響が、世界を狂わせ始めている。


 イグノとミリカは、最後の避難都市〈コール〉に向かっていた。

 だがその道中、彼らが目にしたのは――“絶望の行進”だった。


 数百人の避難民が、無言で進んでいた。

 その目は生きておらず、皮膚は焼けただれ、子を背負う母の顔には感情がなかった。


 「……何もしていないのに、死にかけている」


 ミリカが呟く。

 彼女の声は、すでに自分自身にも届いていないようだった。


 イグノは、彼女の背を支えながら進む。

 ミリカの身体はあの塔での事件以降、徐々に“神格の反応”を再発し始めていた。


 時折、彼女の体から光が漏れる。

 それを見た避難民たちは――恐れた。


 「……あいつ、光ってるぞ」


 「贖罪獣の兆候じゃないのか……?」


 囁きが広がる。

 わずかに残った“信仰の知識”が、ミリカを再び“異端”に変えようとしていた。


 子どもが母に抱きつく。「あの人、神さま……?」

 母親は震えながら言う。「見ちゃダメ。見たら、連れていかれる……」


 イグノの目が細まる。

 あの日、塔の中で確かに“選ばれかけた”ミリカ。

 今も、その名残が残っている。


 「……このままじゃ、お前はまた“偶像”にされる」


 「私が……私自身を信じられないのに、誰かに祈られる資格なんてない……」


 人々は、神を信じない。

 だが、“誰かが神であってほしい”とは願ってしまう。


 その願いが、ミリカに向かい始めている。

 そしてそれが、再び世界を壊す。


 ミリカが涙を流す。

 それは“感情”ではなかった。

 彼女の涙腺はすでに構造式の変異を受けており、祈祷媒体に変質していた。


 彼女の涙が、大地に落ちた。


 その瞬間――


 ≪贖罪獣、発生確認≫

 ≪局所祈祷反応:0.41G……臨界突破≫


 地面が裂け、瘴気が噴き出す。

 避難民たちが叫び、崩れるように四散する。


 イグノが剣を抜く。

 それは祈りを封じる“無信鋼”で鍛えられた刃。

 だが、間に合わない。

 すでに贖罪獣の影が、民の一人を貫いていた。


 ミリカが崩れ落ちる。


 「私が……また……殺したの……?」


 イグノは彼女を抱きかかえる。

 その目に怒りはなかった。あるのは、ただ一つ――


 ――この世界が、“”という事実



 贖罪獣が現れた後、避難民たちの様子は変わった。


 恐怖に怯えるだけだった彼らの中に、奇妙な“希望”が芽生え始めていた。

 それは救いではない。“納得できる地獄”という名の麻酔だった。


 「やっぱり、あの女は神の器なんだ」


 「彼女が涙を流せば、神罰が下る。……なら、彼女を“祀れば”いいんじゃないか?」


 ある者が言った。

 そして、それは瞬く間に広がっていく。

 信じたい。すがりたい。何でもいい。

 この終わりかけた世界に、意味がほしい。


 イグノはその動きを見て、吐き気を覚えた。

 それはかつて自分が所属していた祈祷連盟の“最初の堕落”と、まったく同じ構図だったから。


 「信仰ってのはな……“責任”を預ける行為なんだよ」


 誰かが神になれば、他の誰かは責任から自由になれる。

 その代償として、神は“死ぬまで信じられる”という呪いを背負う。


 ミリカは崩れかけた祭壇に押しやられていた。

 白い布を纏わされ、額に祈祷印を描かれ、手足を縛られた。


 「お願いです……彼女は、ただの人間です。やめてください」


 叫ぶ青年の声は、誰にも届かなかった。


 群衆の目には理性はなかった。ただ、信仰による共同幻想があった。

 祀ることで、災厄を収める。神を見せしめにすることで、自分たちは“救われる演技”をできる。


 「神に……なりたくなんて、なかったのに」


 ミリカが呟く。


 その姿を見て、イグノは刃を抜いた。


 「やめろ」


 声が低く、深く響いた。


 群衆の男が言い返す。


「……彼女が祈れば、天が沈黙する。祈らなければ、贖罪獣が出る。つまり、彼女の中にはまだ“神の声”がある。そうだろう、祈祷師?」


 「……そうだよ。だから、“俺が壊す”。この手で」


 次の瞬間、イグノの刃が空を裂いた。

 祭壇の端を切り落とし、布を裂き、拘束具を断ち切る。

 ミリカが解放される。だが、立ち上がれない。

 光がまた、彼女の体内から漏れ出ている。


 ≪局所神格反応、再燃≫

 ≪代替祈祷媒体:収束中≫


 「くそっ……もう、抑えきれないのか……!」


 そのとき。

 人々の中から、祈りの声がまた溢れた。


 「神よ、裁きを……!」


 「我らに、赦しを!」


 「その身に、全ての責任を!」


 空が再び裂けた。


 贖罪獣が、出現した。

 だが今回は違う。


 それは“誰かを喰う”ためではなかった。

 ミリカに、跪いていた。


 「……これは、崇拝構造の完成形……?」


 イグノが呟く。


 “神を殺す”存在として再構築されかけたミリカは、今や、

 “神に選ばれる存在”へと反転し始めていた。



 祀り上げられ、祈られ、神として跪かれる。

 ミリカの前に膝をついた贖罪獣は、静かにその頭を垂れていた。


 それは服従ではなかった。

 それは――崇拝。


 「やめて……私は……そんなものじゃない……」


 ミリカは震える指で、自分の胸を押さえる。

 体の中で、“何か”が芽吹いていた。


 ≪神格反応安定化中……構造式同期率:94%≫

 ≪補完機能起動……記憶再接続開始≫


 彼女の脳裏に、過去の断片が押し寄せる。


 7歳。神託の間。

 祈祷連盟の祭司たち。


 「この子なら、神の声を受け止められる」


 「器にするには、最も純粋な魂が必要だ」


 ――自分は最初から、“選ばれるように設計されていた”。


 彼女は知らなかった。

 自分が“神格を継ぐための実験体”だったことを。

 神に祈ったのではない。神になるように、祈らされていたのだ。


 ≪同期率:97%……神格転写準備完了≫


 もうすぐ、“神”になる。

 だがそのとき――ミリカの中で、何かが叫んだ。


 『嫌だ』

 『私は、私でいたい』

 『祈られる存在になんてなりたくない――私は、“祈りたい”側なんだ』


 目を覆っていた包帯が、ひとりでにほどけていく。

 彼女の両目は、再び“視えない”ままだった。

 だがその瞳は、真っすぐに何かを見据えていた。


 「私は神にならない」

 「“救いのために祀られる存在”なんかじゃなくて、“誰かと同じ目線で、壊れた世界を歩く者”でいたい」


 その瞬間、彼女の体から噴き出していた神格反応が――自壊を始めた。


 ≪異常検知:転写拒絶――構造崩壊開始≫

 ≪祈祷因子:反転性質に移行≫


 贖罪獣が、悲鳴のような声を上げて消滅する。

 彼らの神は、祀られることを拒否した。


 イグノが駆け寄る。

 ミリカの身体は膝から崩れ落ち、意識は朦朧としていた。


 「……イグノ。私……神にならなかった……なれなかった、じゃなくて、ならなかった」


 イグノは微かに笑った。

 それは久しぶりに見せた、ほんの少しだけ“人間の顔”だった。



 ミリカは神にならなかった。イグノは神を殺すために動く。

 その結果、街は――「神なき現実」を直視することすらできず、自ら崩壊する。



 ミリカが“神であること”を拒絶した瞬間、全てが静かになった。

 贖罪獣は消滅し、空から降っていた祈祷の光も消えた。

 まるで、“神の気配”だけを世界から抜き取ったように、静まり返った。


 だが――

 人々の表情は、次第に歪み始めた。


 「……どういうことだ……」


 「なぜ祈りが届かない……?」


 「祀ったはずだ……神として……あの娘を……」


 祈った者が祈りを拒絶したとき、人はその祈りを呪いに変える。


 最初に石を投げたのは、老人だった。

 続いて、誰かが火を放った。

 その火は風に乗り、祭壇に積まれていた経典を焼いた。

 それは象徴だった。

 “信仰の物証”が燃えた瞬間、人々の中に残っていた希望は完全に砕けた。


 「神は……いなかった……」


 「いないなら、どうして俺たちは、こんなに苦しい……!」


 怒号が響く。

 瓦礫が投げられ、建物が壊され、人々は人々を襲い始めた。


 それは暴動ではなかった。

 それは――信仰の崩壊によって生まれた、自傷衝動の連鎖。


 「俺たちは、神に祈ってたんじゃない……」


 「“自分以外の誰かに、”だけなんだ……!」


 イグノは、その光景を見下ろしていた。

 焼け崩れる避難都市〈コール〉。

 最後の拠点は、神を得られなかった罪悪感によって自壊した。


 ミリカは彼の隣に立っていた。

 彼女の目はまだ見えない。

 けれど、彼女は“見えていた”。


 「これが……“神のいない世界”の、姿?」


 イグノはゆっくりと頷いた。


 「いや――“信仰を手放せなかった人間たちの、なれの果て”だ」

 「神がいないことが問題じゃない。“”を他人に預けすぎた、それがこの結末だ」


 ミリカは唇を噛む。

 街が崩れていく音。

 人々が自らを焼く音。

 悲鳴よりも、“納得した死”の声の方が多い。


 「……イグノ。私は、まだ信じていたかった。でも、信じることは“祈る”ことじゃない。“信仰”ではなく、“信頼”を選ばないといけないのね……」


 彼女の手が、イグノの袖を掴んだ。


 「もう祈らない。でも……一緒にいてくれる?」


 イグノは少しだけ、迷ってから答えた。


 「祈りは壊した。でも、お前の声は――聞こえる……俺は、まだ耳を塞いでいない。……それだけでいいか?」


 ミリカは、小さく微笑んだ。

 その背後で、街が燃え尽きていった。


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