(転移する怪異)
テレビを中古屋に売り払ったその日の夜、阿川真司は久しぶりに安堵の息を吐いていた。
夕食を終え、ベッドの上でスマホをいじる。今夜こそ静かな夜が過ごせるはずだ。そう信じて、何度も何度も「もう終わった」と自分に言い聞かせていた。
が、そんな楽観は一瞬で打ち砕かれる。
深夜0時を回った頃、突如、スマホが異様なバイブ音を響かせる。
画面を覗き込むと、メールの未読通知が大量に積み重なっていた。恐る恐る開くと、そこには無数の――
「契りを結ぼうぞ」
という文言が羅列されているだけのメールだった。しかも、スクロールしてもスクロールしても終わらない。文字列は狂気じみていて、やがて、
「なぜテレビがない? なぜテレビがない? なぜテレビがない?」
というメッセージに変わっていく。
「……なんで、こんなメールが……」 思わず声が漏れる。メールアドレスは文字化けし、送り主の特定すらできない。真司はスマホを机の上に放り出すと、深いため息をついた。
「でも、テレビがなきゃ……もう、出てこられないだろ……」
そう自分に言い聞かせる。
――だが、どこか落ち着かない。不安と焦燥が胸の奥をざわめかせる。
しばらくして、またもや室内に異音が響く。
ゴンッ!
何かが固いものにぶつかったような、低く重い音。音の出どころは洗面所だった。
「……まさか……」
恐怖に喉が詰まり、足はガタガタ震えている。
しかし、見に行かずにはいられない。
おそるおそる洗面所の扉を開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
洗面台の鏡。その表面が揺らめいている。
白い腕がニュルリと鏡から這い出し、次いで女の上半身がずるりと出てきた。
――が、そのまま女の顔は洗面ボウルに突っ込み、髪がびしゃびしゃに濡れてボウルに張り付く。
「契りを結ぼうぞ……契りを結ぼうぞ……」
低く湿った声が響く。
だが、女はボウルに顔を押し付けたまま、どうにも身動きが取れない様子だ。
真司は息を呑み、身じろぎ一つできずにその様子を見つめた。
女はなんとか抜け出そうともがき、鏡から下半身を引きずり出そうとする。
その拍子に洗面台が大きく揺れ、**ガタガタッ!**という音が響いた。
しかし、女は依然としてボウルに顔を突っ込んだまま。
長い黒髪が洗面所の床に垂れ、ぽたぽたと水が滴る。
「契りを……むすぼうぞ……」
その声は生温かい息となって真司の耳元を撫でるように響く。
異様な状況に、恐怖で全身が硬直する。
女はようやく顔を引き抜こうとしたが、今度はバランスを崩して――
ズルッ! ドスン!
洗面ボウルから勢いよく顔が抜け、女の上半身が床にずり落ちた。
水浸しの髪が床に広がり、女はそのまま床にぺたりと倒れ込む。
――普通なら滑稽なはずだ。
でも、今の真司には、その場面ですら心臓が凍りつくような恐怖でしかない。
女は、ぬるりと床を這いながら真司の方へじりじりと近づいてくる。
濡れた髪が床に軋みを残し、異様なほどゆっくりとした動きなのに、何故か距離がみるみる詰まっていく。
「契りを結ぼうぞ……契りを結ぼうぞ……」
女の声は変わらず、低く、暗く、耳鳴りのように響く。
真司はついに恐怖の限界を迎え、慌ててリビングへと逃げる。
扉を閉めるや否や、背後でドンドンと扉を叩く音が響いた。
「痛い……」
女の声が微かに漏れる。
しかし、哀れさや笑いなど微塵も感じる余裕が、今の真司にはなかった。
――彼は知らなかった。この後、自分を更なる悪夢が襲うことを。
洗面所のドアを思い切り閉じた真司は、息を殺しながら背中でドアを押さえた。ドン、ドン、と重たい音が背中に響く。押し返す力はそれほど強くないが、あの女がこの向こう側にいるのかと思うと、全身がこわばって汗が止まらない。
「……なんなんだよ、これ……!」
ドアの向こうから「痛い……」という湿った声が聞こえた。思わずぞっとして、ドアノブがゆっくり回るのを慌てて手で押さえつける。もう嫌だ、怖すぎる、現実逃避したい――そんな思いで一杯だった。
そのとき、テーブルの上に放り投げていたスマホが急に明るく光った。
――着信だ。
だが、ディスプレイには「非通知」とさえ表示されず、ただただ画面いっぱいに白いノイズが走っている。
「うそ……」
スマホを手に取ろうか、一瞬ためらったが、そのまま放置するのも怖かった。意を決して手を伸ばす――その瞬間。
スマホの画面から、白い手がニュルリと這い出した。
「うわっ!?」
次の瞬間、画面から女の顔が半分ほど突き出し、長い黒髪がスマホ本体にまとわりつく。そのまま、スマホから上半身をずるりと引っ張り出すと、女は勢いあまってフローリングに**ズデーン!**と盛大に転んだ。
「……」
あまりの異様さと、現実離れした光景に、真司は言葉を失った。
女は一瞬動かず、顔を下にして床に突っ伏している。その様子は滑稽にも見えたが、背筋に走る恐怖は変わらない。
やがて、女はゆっくりと上体を起こした。濡れた長髪がだらりと床に垂れ、滴る水がフローリングに暗いしみを作っていく。
「契りを結ぼうぞ……」
女は呟くように、しかし明確にそう口にした。
その声は、湿気を帯びて部屋中にこびりつく。
真司は後ずさりしながら、何とか女から目を逸らそうとした。けれど、どうしても目を離すことができない。彼女の瞳が、じっと、じっと自分だけを見つめているのだ。
女は床に手をついて、ゆっくり、ゆっくりと真司の方へ這い寄ってくる。
その動きは異様に遅いはずなのに、すぐ目の前にまで近づいてくるような、そんな圧迫感に襲われる。
「や、やめろ……やめてくれ……」
情けない声を上げながら、真司は壁まで追い詰められる。
女は手を伸ばし、今にも触れんばかりだ――。
「契りを結ぼうぞ……契りを結ぼうぞ……」
その言葉が耳鳴りのように頭の中に響く。
突然、女の手が真司の足首に触れる――
と思った瞬間、玄関の外からごみ収集車の音が遠くで響いた。
カラカラカラ……ガチャッ。
外の生活音が、薄暗い部屋に現実を引き戻してくれる。
その時、女の動きがピタリと止まった。
まるで制御が切れた人形のように、女はその場にうつぶせて動かなくなる。
やがて、霧が晴れるようにその姿が薄れていき、数秒後には跡形もなく消えてしまった。
「……消えた?」
放心したまま、真司はその場に座り込む。
心臓の鼓動だけが、やたらとうるさく聞こえてくる。
カーテンの隙間から朝日が差し込む。気づけばもう夜が明けていた。
「……なんだよ、これ……夢なんじゃないのか……?」
自分の足元を見ると、確かに女が掴んでいた感触がまだ残っている。床には水滴がぽつりぽつりと点々と続いていた。だが、もう女の姿はどこにもない。
そう、夜が明ければ怪異も消える――。
そう信じたい。だが、体の奥に刺さった恐怖だけは、どうしても消えてくれなかった。
ふとテーブルの上を見ると、スマホが静かに横たわっている。
電源を入れ直してみるが、例の着信も、あの奇怪なメールも、何一つ履歴が残っていない。
「やっぱり全部夢だったのか……?」
だが、その疑いを打ち消すように、リビングの隅には女が這いずった水跡が、不自然なまでに濃く残っていた。
――不意に、洗面所からカラン、と物が落ちる音がした。
また、あの女が戻ってくるのでは、という不安が頭をもたげる。
真司は反射的にスマホの着信拒否設定を開いた。
非通知も、知らない番号も全部シャットアウトしてやる。
「これで……今度こそ……」
だが、安心できるはずもない。
部屋の静寂が、ますます不気味に感じられていく――。
明け方の薄明かりの中、真司はただただ呆然と、
この異常な夜の終わりを、ようやく迎えたことだけを噛み締めていた。