――静寂。
東京のアパート。阿川真司は深夜の自室でソファにうずくまっていた。
鏡はすべて外し、不燃ゴミに出した。今日は運よくゴミの日だ。これでもう、どこにも“アレ”が現れる隙はない。
スマホも電源を切り、念のため鍵のかかった引き出しにしまい込んだ。
「これで……もう大丈夫だろう」
ため息をつくと、部屋の空気がようやくほんの少し、緩む気がした。――が。
――ぴちょん、ぴちょん。
「……ん? 蛇口、閉め忘れたか?」
神経が張り詰めたままの真司は、思わず顔をしかめて立ち上がる。音の方は、どうやら風呂場からだ。
浴室の扉を静かに開け、身を乗り出して確認する。蛇口から水は漏れていない。
でも、なぜか“ぴちょん”という水滴の音だけがやけに響いている。
「……気のせい、じゃないよな」
そう思った瞬間だった。
湯船の水面が、不自然に、ゆらりと揺れた。
ぞわり、と全身の毛が逆立つ。
その水面から、長い黒髪が――、静かに――ぬっと、現れた。
ずぶ濡れの女が、音もなく湯船から上半身を起こす。
長い黒髪から、透明な水滴が、ぽたり、ぽたりと湯面に落ちる。
ぴちょん――
女は無表情のまま真司を見据え、ゆっくり口を開いた。
「契りを結ぼうぞ……その前に、タオルと着替えを用意しろ……ドライヤーもな……」
状況の意味が分からず、真司はただ、唖然と立ち尽くす。
「え……?」
――が、どういうわけか、女の言葉に逆らえず、気がつけばタオルと着替えとドライヤーを準備して手渡していた。
女は何食わぬ顔でタオルを身体に巻き、椅子に座るとドライヤーの電源を入れる。
びゅう、と温風の音。
女はそのまま髪を乾かしはじめる。霊体なのに、どうして髪を乾かす必要が――そんな現実感のなさが、逆に恐ろしい。
「……意味分からん……」
小さくつぶやいた真司に、女は唐突に鼻歌を歌いだした。
それは、どこかで聞いた童謡だった。
「サッちゃんはね 線路で足を なくしたよ
だから お前の 足を もらいに行くんだよ
今夜だよ サッちゃん――」
かすれた声は浴室の天井に反響し、真司の耳元にまとわりつく。
気づけば、女の歌声はいつの間にか耳のすぐそばでささやかれているような錯覚に陥る。
「……今夜来る……」
「ひっ、や、やめろ!」
女は顔をあげ、にやりと微笑んだ。
「今夜来る……きっと来る……きっと来る……」
――それは、もはや童謡ではなかった。
あの都市伝説で有名なホラー映画の、不気味なリフレイン。
女の声はどんどん近づき、真司の鼓膜をじかに震わせる。
浴室のタイルに水滴が落ちる音と、女の「きっと来る」が奇妙に混ざり合い、現実感を奪っていく。
真司は息を殺して、動けないまま女の姿を見つめ続けた。
やがて、夜明けの気配が浴室の小窓から差し込み、女はすうっと湯船の中へ沈んでいった。
――が、終わりではなかった。
ふと気づくと、誰もいないはずの真司の耳元で――
「きっと来る、きっと来る、きっと来る……」
かすれた女の声が、無限ループのように繰り返され続けている。
現実のどこにも、女の姿は見えない。
なのにその声だけが、しつこく、耳の奥にこびりついて離れなかった。