「お母さーん……。お母さんどこー?」
一人の少年が病院の前に座って泣き叫んでいた。まだ小学生くらいか? 天然パーマらしい髪は余計にぐじゃぐじゃ。なんだか相当ショックを受けてるらしい。
「こんにちは。お母さんと離れちゃったの?」
「う、うん……。お母さんに先に外出ててって言われて……、先に外出てたら、持ってた風船が飛んで行って……。追いかけて戻ったら行き違いに……」
「はぐれた時間はどれくらい?」
「た、多分。10分くらい……」
「10分か……。まだ院内にいるかもしれない」
私は彼の名前を聞く。どうやら、『亜蓮』というらしい。この少年に運命的ななにかを感じた。車が通る国道。最近の車は全て電気自動車だ。
これでは彼の小さな泣き声は聞こえない。少年をゆっくり立ち上がらせ、2人で院内に入る。そこには彼の母親が頬をぷっくり膨らませて立っていた。
空気が張り詰める。母親はそれなりに怒っているようだ。自分で戻らなかった亜蓮が悪い。方向音痴な私が言う言葉ではないが……。
『亜蓮! 入口で待っててって言ったのにどこ行ってたの!』
「ご、ごめんなさい……。お母さん……」
『なんかすみません。お騒がせしてしまって』
亜蓮の母親から謝罪を受け、私は会釈で済ます。
『あの!』
私が受付に向かおうとした時、彼の母親に呼び止められた。なんで私? そう思いながらも、進んだ道を戻る。
「なんですか?」
『今度、亜蓮が参加する器械体操の大会があるんです。保護者はチケットが必要ないんですけど、間違って買ってしまって……。良かったら一緒に観ませんか?』
「では、お言葉に甘えて……。1月25日ですね。わかりました」
予定が増えてしまった。でも、毎日ゲーム漬けの私にはちょうどいいだろう。ここで本当の別れをして、受付の前に立つ。
診察券は主治医から事前に作って貰ったものだ。診察機にカードを入れて、受付を完了させる。すぐに呼ばれたので、部屋に向かった。
部屋に到着し中に入るととても若い男性の先生がいた。主治医の樋上或斗先生だ。新品の白衣がライトで照らされ。パソコンの画面は映像が流れている。
「やあ。明理さん」
「こんにちは、或斗先生」
最初の挨拶はいつもこんな感じだった。彼に会うのは一年ぶりだ。
「そういえば、明理さん。最近しっかり食べてる? 前回体重測った時5キロ落ちてたから」
「食事は……。あまり……今日は朝ごはん食べたけど、昨日まで身体が食事を受け付けなくて……」
「そうだったんだね……。食べてない期間はどれくらい?」
「たしか、4ヵ月くらいだったと思います。今日が12月10日なので、8月の半ばだったかな?」
「4か月……か」
嘘をつくのが苦手な私は迷わず答えた。たしかに4か月の間は何も食べなかった。食べることができなかったが正解だろう。通常人が食事無しで生きられるのは3週間。最長で2ヵ月。水なしでは数日しか持たない。
そんな私の身体はこの期間水も食事も一切受け付けなかったのに、私は生きている。或斗先生はそんな私の体質を解明するべく、自分から担当に名乗りを挙げたらしい。
「本当に空腹状態にはならないのかな?」
「ならない……ですね……。この体質になったのは小学校の時だと思います」
「小学校の時……。ちょうど成長期前半の時だね。普通は小学校5年生あたりから食欲が増幅するはずだけど。明理さんはどうだった?」
「えーと。ほとんど食べてなかったと思います。一年のうち半分は残してました」
あの時は担任の先生から心配された。私がほとんど食べなかったから、無理やり口の中に入れさせられた。そのたび、蓋をされたような胃の入口につっかえ吐き出す日々。そんな生活が嫌だった。
中学は弁当を持参する学校を選んだ。だけど友達ができる分、食事に関しての指摘は変わらなかった。そんな私をずっと支えてくれたのは兄の存在。兄にはいろいろワガママを言った。それも全て受け止めてくれた。
「今度の受診は、絶食期間中にしましょう」
「わかりました。では電話予約ってことで」
「うん。そうなるね。あとなにか気になることあるかな?」
私は病院を出る前に聞いておきたいことを、考える。そういえば……。
「毒……」
「毒?」
「今年の夏、私が住んでるアパートにスズメバチが巣を作ってその退治を頼まれたんです。専用の衣服を持ってなかったので、普段着のまま駆除して……」
私は当時のことを思い出しながら話す。
「なんでそんな危険なことを。ハチに刺されなかった? 最悪死に至るから」
「たしか……。30箇所は刺された記憶があります。いや、それ以上だったかな?」
「ほんと君は無茶するね……。ただ30匹分の毒を与えても生きているということは……」
「ということは?」
「まだ確証はないから言えないけど、今度の受診で毒耐性について確認しよう」
「はい。お願いします」
そうして私は病院をあとにした。