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4.諸事件と「ゴンゾウサマ」の関与についての仮説

 さて、怪死事件の発生が止まったことについて先程「一時的に」と書いたが、1953年の事件群と極めて共通点の多い事件が30年後の1983年に発生したことはすでに紹介した通りである。そう、祠を爆破した江角信長が変死した事件だ。


 臀部を露出した状態で見つかる男性の遺体、証拠の一つも残らず被疑者不詳で迷宮入りと、偶然の一致で片付けるにはあまりにも共通点が大きすぎるこの事件群。しかし、後藤秀次の事件から信長の事件までの間には、30年という実に長い年月が挟まっている。


 同一犯のものとすることも理屈上不可能ではないが、わずか2週間足らずの間に3人もの被害者、それも同じ小さな村の住人を手にかけて死体を遺棄し、30年も潜伏したうえで再犯に及び、その上でいずれの事件にも証拠の一つすら残さないという芸当が、果たして生身の人間に可能なのであろうか。信長の事件は模倣犯によるものだと考えることもできるが、いずれにしても証拠の一つすら残らないのはあまりにも不自然ではないか。


 我ながらオカルト的でくだらないことを言っているとは思うが、一連の事件群を雀部権蔵、いや「ゴンゾウサマ」の祟りによるものだと考えた場合、不思議なことに全てのつじつまが合ってしまうのだ。


 まず1953年の事件群については言うまでもないだろう。獄中にて非業の死を遂げた雀部権蔵が、「ゴンゾウサマ」となって村の男性を祟り殺した。いわゆる祟りの発生である。そうであれば警察が犯人を見つけられないのも当然だろう。


 一連の事件後に行なわれたお祓いを最後に「ゴンゾウサマ」による事件が一時的に収まるのも、この説の信憑性に貢献している。科学的根拠に乏しいという反論もあろうが、村を襲った怨霊を信仰の対象として昇華することでその怒りを鎮めようという手法は、日本史においてたびたび繰り返されてきたものであり、オカルトだと一概に否定できるものではない。


 そして30年後。信長は死の直前に、この「ゴンゾウサマ」を鎮めていた祠を自らの手で爆破してしまう。軽率なパフォーマンスだったと非難されがちな彼の行動だが、「ゴンゾウサマ」信仰に対する仮説を当てはめてみると、自らの父親である信義を殺害した雀部の怨霊が、ムラの信仰の対象とされていることに対する忸怩たる思いがあったのだろうという推測もできる。しかし、信長の行動は鎮まっていたはずの「ゴンゾウサマ」を再び解き放つ行為となってしまい、結果として彼は父親と同じ死に方をすることとなってしまった。


 信長が爆破した祠は1984年中に再建され、再び怪死事件の発生は収まることとなる。だが、一連の事件群が穢栖出夷爺頭村に与えたネガティブイメージは想像を絶するものがあり、人口の流出が留まらずに今の廃村状態に至るというわけだ。


 今となっては一部のオカルトマニアやウケ狙いの動画投稿者くらいしか元穢栖出夷爺頭村跡地を訪れることもなく、怪死事件の発生もこれにて収束する・・・・・・かのように思われた。

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