――始まりは、悲しみでした。
どこまでもどこまでも、ただ在るだけのがらんどうな広がり。
空虚な世界を見渡して、生まれたばかりの女神さまは悲しまれたのです。
いつ尽き果てるとも分からない、女神さまの涙声をお聞きになられたのでしょう。
虚空から男神さまが現れました。
男神さまにより女神さまの心と体は愛で満たされました。
二人はたくさんたくさん愛し合いました。
あふれ出た愛によって、世界もまた満たされたのです。
大地は盛り上がって山となり、谷が刻まれ、川が流れ海が現れました。
豊かになった世界には、たくさんの動物や植物があふれてゆきます。
女神さまは男神さまからの愛に応え、証として多くの子を生しました。
命に満ちた私たち人間の世界は、こうして誕生したのです――
王宮の夜会で奏でられる舞曲の調べが穏やかな風に乗り、夜のしじまを渡って控えの間に届けられた。
バルコニーと部屋とを隔てるわずかに開いたクリスタルの窓を、三拍子を刻む音列がすり抜ける。
音色はやがて、
正式な婚約発表の
貴族のたしなみとして皆が学ぶ、古代の神聖文字で綴られた書物である。
この星に生まれた者なら誰もが知る神話であったが、この絵物語はアリアンヌにとっては特別な一冊。
原本が描かれたのは数千年もの昔だという。アリアンヌが手にするそれは精巧な複製品であったが、幾度も繰り返し読むうちに装丁はぼろぼろになっていた。
清潔で滑らかな肌を持つ乙女の指先のみが
親に与えられた教育用の書物ではない。婚約者である八歳年上のコマース王子が自ら、当時四歳の誕生日を迎えたアリアンヌに手渡した贈り物だ。
アリアンヌがまだ言葉も解さぬほど幼かった昔に、ユールレヒト王家とルスタリア侯爵家の間で取り決められた婚姻の約定。
ただ甘いだけの関係ではないと知る十六歳の淑女となった今でも、アリアンヌにとってこの絵物語が大切な宝物であることに、変わりはなかった。
侯爵令嬢は目を閉じ、己が胸の双丘に書物を静かに抱く。
まるで、愛しい王子その人を抱きとめるさまを思い描くように。
胸元から絵本を放し、アリアンヌはローテーブルに手を伸ばす。令嬢の細い指が、ルスタリア家の紋章と細工の施された黒塗りの小箱のふたを開けた。
室内を照らす
箱の身の底に絵本を横たえ、静かに小箱のふたを閉じた。
侍女の一人が小箱を受け取り、私物入れの中に納めたのを見届けて、アリアンヌは赤い
窓辺に立ち寄り、王宮からでもはっきりと見える、城下外れに佇む巨大な女神像をひとしきり眺めた。夜空に浮かぶ二つの月の明かりを受けて、
「――アリアンヌ様、そろそろお時間です」
侍女を総べる年増の女が、居並ぶ娘たちを代表して主人の令嬢に声をかけた。
淡く白銀の
美しい。誰よりも。そう自覚できるだけの存在が、鏡の中にはある。
それでも――
「どう……かな?」
返る答えなど分かり切っているのに、アリアンヌは誰となく、鏡の中に映る侍女の一人に淡い青色の瞳を向けた。
深く息を吸い、軽く止めて、聞かれた女の言葉を待つ。
「お美しいですわ、とっても――」
ようやく答えた型通りの返事をきっかけに、侍女たちは
「おめでとうございます、アリアンヌ様」
年長の侍女頭が華やぐ娘たちの言葉を締めくくる。はやる気持ちを抑えようとはにかんで、アリアンヌのふっくりとした唇がゆるやかな弧を描いた。
「ありがとう、シエラ。でも少し気が早いかな……お披露目はこれからだもの」
コマース王子との婚姻は公然のことではあったが、今夜のお披露目は特別だ。
これから赴く夜会は、先ごろついに大陸世界統一を成し遂げたユールレヒト魔導王国が帝国として生まれ変わることを、自国の貴族たちや併呑した国の大陸諸侯らに宣言する場なのである。
コマース王子は現王から国を継いだのち初代皇帝となり、アリアンヌは正妃となる――歴史に刻まれる一大事が、侯爵令嬢の晴れ舞台として用意されたのだ。
緊張しつつも、幸せの絶頂といった表情をようやく見せたアリアンヌの耳に、扉を外からノックする音が届いた。
「お嬢様、お迎えに上がりました」
扉越しでも陰らない、透きとおった青年の声が聞こえた。
侍女の一人が扉を開く。左胸に右手を当て、軽く頭を下げ礼を執る男が立っていた。ルスタリア家に仕える若き政務官、ユースチフである。
さらりとした栗色の髪の男は、おもむろに
とたんに、令嬢のそばに控えた侍女たちが息を呑む。
武官とするには線が細く、文官と言うには逞しい長身痩躯の美男を見る女たちが、決まって見せる反応である。
当の本人にとっては日常茶飯なのか。
凡百の侍女など眼に入らぬ様子で、ユースチフは涼やかなヘーゼルの瞳でアリアンヌの晴れ姿を真っ直ぐに捉えていた。
音もなく控えの間に進み出て、女主人に手を差し伸べる。
婚約の件が無ければこの二人が
「では、まいりましょう」
どこか固いユースチフの言葉にアリアンヌは微笑みを以って応え、差し伸べられた手を取るのだった。
§
初夏の夜風が高窓から紛れ、王宮の回廊を吹き抜けてゆく。
壁掛けの魔灯の揺らめきが、若い男女の道行を照らした。
ユースチフはアリアンヌの護衛につき、夜会の会場へと淑女を連れ立つ。
本来であれば、この役目はアリアンヌの父であるレムルスが担うはずのもの。しかし、ルスタリア侯爵は病床の身。自ら公の場に出向くことは無くなって久しい。それゆえ、レムルス侯の懐刀であるユースチフが代理を任されたのである。
アリアンヌよりも六歳年上の青年は、幼い頃にルスタリア家に引き取られた孤児である。一人娘で兄弟のいないアリアンヌにとって、いつしかユースチフは兄のような存在となっていた。
慕われるユースチフの想いがどのようなものであったか。
それは、彼の眼差しを見れば明らかなことであったが、ユースチフ本人は当然ながら、誰一人として口に昇らせる者はいない。
アリアンヌ・ルスタリアは、コマース・ユールレヒトの元へ嫁ぐことが決まっている身なのであるのだから。
歩きながら一言も発しないユースチフを気にかけたのか、それとも沈黙に耐えられなかったのか――
「どうしたの? もしかして……妬いてるのかな」
からかうように
どこかふてぶてしさを備えた青年は、意外な言葉を返す。
「緊張しているだけです」
「ユースチフなのに?」
よそでは見せない自分の日常を知るアリアンヌの反応に、青年はただ苦く笑った。
それきり二人は押し黙り、歩き続ける。
次第に耳に届く舞曲の調べが大きくなる。
ユースチフが足を止めた。
しかめ面の衛士の男が、会場へ続く大扉の前でかしこまっていた。
アリアンヌの足も止まる。
控えたユースチフが片手を胸に当て礼を執った。
衛士は一礼して、扉の把手に手をかけた。
「いってらっしゃいませ、アリアンヌ様」
淡々としたユースチフの声が、令嬢の新たな門出の背中を押した。
「うん……」
冷たい初夏の夜風が、アリアンヌの頬を撫でた。