衛士によって扉が押し開かれると、夜会が催されている大広間から昼日中のような光が薄暗い王宮回廊にこぼれ出た。
アリアンヌは、突然
陽光の恵みを模すのは、大広間の天井に吊るされたいくつものシャンデリア。
無数のクリスタル小片を組み上げ作られた年代物の豪奢な照明は、春の日差しをもたらすように大広間の隅々にまで光を届けている。日常を飾るありふれた魔灯の明かりとは違う。光の精霊を直接魔核に封じ込めて力を得る、聖なる輝きであった。
アリアンヌが広間に足を踏み入れたと同時に、会場に流れる舞曲は小節の最後を奏で終えた。とりどりに
アリアンヌが立つ大扉の前から、上座の檀上への道筋が延びた。
一斉に、貴人たちの視線が侯爵令嬢の身に向けられる。
感嘆、あるいは羨望。中には値踏みのごとき下卑た視線もあっただろう。
しかし、居合わせたすべての貴婦人たちの姿がかすむほどに美しいと、男女皆が知らず覚えたことはたしかなのである。
様々な思いを孕んだ静かなどよめきが、大広間を満たした。
アリアンヌはその声に、淑女らしい流麗な所作の礼法を以って応えた。
夜会の主役の登場を見届けて、上座で控えていた伝令官が角笛を低く鳴らした。居合わせた人々のどよめきを、王族の到着を知らせる特別な旋律がかき消してゆく。
貴人たちの目は一斉に、今度は上座の檀上奥にある大扉に向けられた。
創世の神話を語る女神と男神が向き合う彫刻が施された扉は、人の手によらず魔導の力で自ら開くからくりを備えている。ひとりでに左右に滑り出し、扉を飾る女神と男神のレリーフを割ってゆく。
人影があった。角笛の旋律が止む。人々は息を殺した。
開かれた扉の奥から、人の形をした炎のような男が現れた。
側近の女騎士と魔導士の男を従えたコマース王子が、大広間の檀上に進み出る。
礼装でありながらも、常在戦場とばかりにいつでも戦に赴ける威圧的な衣装に身を包んでいた。
敵軍の布陣を確かめるのと同じ眼つきで、来場した人間たちを
王子への畏怖で震える者たちが多くいる中、アリアンヌは独り陶然として婚約者の姿かたちを眼に絡めていた。先ほどまで抱えていた不安は、愛しい男の登壇によって心の内から霧散したらしい。
檀上の王子は一息ついてから、戦場でもよく響くであろう高らかな声音で、並みいる者たちに向けての挨拶を口にした。
「大義である」
ただ一言の
「既に耳にした者もあろうが――今宵は我らユールレヒト魔導王国、そして良き隣人となった大陸諸国の皆々にとっても、歴史の大きな節目を迎える夜である」
戦場で号令を発するのと同じ声で、コマース王子は告げた。
「我、コマース・ユールレヒトは父王マイアス三世の名代として、ユールレヒト魔導王国が帝国として新生すると、ここに宣言する!――新しき世にっ!」
「新しき世にっ!!」
男女皆が唱和した。
熱気を伴うどよめきが、大広間を埋め尽くした。
大陸諸国を平らげた王国が、諸王国を総べる帝国を樹立すると、告げたのである。
しかし、夜会の出席者は、魔導王国の貴族ばかりではない。
小国大国を問わず、大陸すべての貴族や王族がこの夜会の客として一堂に会しているのだ。北方の民であるユールレヒト
コマースは片腕を静かに上げて貴族たちの声を静めると、彼なりの優しさを込めて、異民族の賓客に語りかけた。
「東の方々、西の方々、そして――南の方々。皆よく参られた。かつて鉾を交えた我らであったが、今では親子兄弟も同然である。安心召されよ。所領の安堵は、固く約束しよう」
我が意に従う限りは――言外に王子が付け加えていることは、併呑された者たちも承知であった。
「そして――」
コマース王子の視線がひととき、広間の奥に佇む婚約者に注がれた。
いよいよなのね――アリアンヌの眼に期待の色が満ち、胸は高鳴った。
「今宵、皆と我がさらなる喜びを分かち合えることを
大広間の檀上で凛とした声を張るコマース王子と正反対、大扉の前にてこの瞬間を待ち侘びていたアリアンヌが、一歩足を踏み出した。貴族たちの視線が再び純白の淑女に向けられる。アリアンヌの透きとおるほどに白い肌は、高揚した乙女心の鏡となって、ほんのりと薄い朱色を帯びていた。
いったいどれほど、この瞬間を夢に描いてきたことか――しかし。
「ケイアヌス古王国が王女、パトリシアである!」
一瞬のどよめき、そして静寂が、大広間に張りつめた。
コマース王子の背後の陰から、異国の美婦が現れる。
丸く結い上げた黒髪には、七色の宝飾に彩られた細長の髪飾りが添えられていた。自信に満ちた切れ長の目が、場内をゆるりと見渡す。細身の筒にも似た特異な衣装に身を包んだ南方人の女は、着物の左右を割る裾から
つい先月まで鉾を交えた末に和平を結び、併呑したばかりの南方の大国、大陸世界統一最後の障害であったケイアヌス古王国。そのたった一人の王位継承者である王女が、コマース王子と肩を並べたのである。
華やかであった夜会の空気が色を失い、凍りついた。
戦慄――まさにこの言葉こそがふさわしい。
どれほどの時が経ったのか――
おそらくは数瞬にすぎないが、アリアンヌはコマースの傍らに控える初老の男の声を聞くまで、永遠の闇の縁に立たされたような心持ちでいた。
賢臣で知られる宰相のクラークが、恐れながらと申し出る。
「愚昧なる私の覚えていたところによれば、すでに殿下はルスタリア侯爵令嬢アリアンヌ様との婚約が整っておいでのはずでは……」
クラークは会場の隅で立ちすくむアリアンヌを一瞥した。遠目に見ても分かるほどに、令嬢は青ざめている。宰相がコマース王子の口元に眼を戻すと、苛烈で知られる次代の王は、口の端をつり上げて冷徹かつ明朗に言い放った。
「所詮、家同士が決めたこと。我が意のあるところではない」
まるで紛れ込んだ場違いな下女でも追い払うように、コマースはアリアンヌに向けて手を振った。婚約者であるはずの淑女に一瞥もくれない。眼を動かすことすら面倒と言わんばかりである。
「それに――」と、王子は言葉を区切る。
「既に我とパトリシアの間には、契りの証もある」
居合わせた一同が、絶句した。あってはならぬことを、平然と口にしている。
併呑したばかりの国の王女と、契ったなどと。
行き過ぎた冗談だと思う者もあっただろう――ところが。
パトリシアは自らの手を自らの腹に添えて、愛おし気に撫でるのだ。
「恐れながら殿下――」
喉の震えを押しとどめ、クラークが声を絞り出した。
なおも食い下がろうとする賢臣の首筋を、王子の視線が横に薙ぐ。
言葉はない。だが〝それ以上申してみよ、命はないぞ〟と、眼で語るのである。
さしもの賢人も、
コマース・ユールレヒト――ユールレヒト魔導王国に君臨する二四歳の偉丈夫は、大陸世界のすべてを平らげ、今やこの世の頂点に唯一人立つ身となっていた。
第三王子に過ぎなかったコマースが、なぜ次期国王の座を不動のものとできたのか。相次ぐ兄たちの急逝。黒いうわさは当然絶えない。だが、疑惑を口にした者が真っ先に戦場で消えることもしばしばである。
既に現王は老齢であり、気力も衰えている。大陸世界統一の戦を起こしたのはたしかに現王マイアス三世であったが、実現し成し遂げた功績はすべてコマース王子の手によるものとしても過言ではなかった。事実上の頂点権力者であるのだ。
知略、策略、卓抜した軍才、なにより人を惹きつけてやまないカリスマ性。王子に心酔し、身を捧げて尽くす才ある若者たちも多い。
逆らう者など、いるはずがない。
そうして逆らえぬ者の一人が、口火を切った。
「――おめでとうございます、コマース殿下」
「これはめでたい。まさに帝国誕生を祝う宴にふさわしき吉報」
次々に、卑しい言葉が湧き上がる。
「しかもお世継ぎまで生されるとは――」
おやおや、さすがにそれは気が早いのでは――などと、笑い声までこぼれる始末。
誰彼となく、まるで功を
そんな王子の眼の端の遠くに、気丈に振舞う淑女の姿があった。
アリアンヌである。
公衆の面前での婚約破棄という前代未聞の侮辱を受けたにもかかわらず、少女は矜持を保っていた。ドレスの裾を軽く持ちあげて片足を折り、一分の隙も無い完璧な辞儀を貴族たちに披露する。
正面に体を向けたまま、静かにうしろへ下がっていく。
慌てた衛士が大扉を開け放した。
純白の淑女は、大広間に連なる回廊の闇へと消えた。
眉一つ動かさず、かつての婚約者の男は女が去るに任せたまま。
小さく伏せたアリアンヌの面からこぼれ落ちる涙は、無かった。