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第六話 夜会は踊る

 アリアンヌ・ルスタリアなどという小娘などこの場に最初からいなかった、それどころか、この世に存在すらしていない――夜会に興じる貴族たちの頭は、自らそのように書き換え済みである。


 既にさかしらな者たちが我先に、新たな権力の蜜を吸おうと羽虫の如く、談笑するコマース王子とパトリシア王女の周囲に群がっていた。

 かつて敵国同士であった王子と王女は、幼い頃からの相愛であると思わせるほどに、仲睦まじい様を周囲に見せつける。


 貴族たちの関心は〝パトリシアの腹に本当に世継ぎが宿っているのか〟との一点にあるのだが、王女の巧みな人あしらいの前に核心の片鱗にすら触れられずにいた。

 それでもどうにか取り入ろうと、「婚礼の装束などお決まりでなければ、ぜひ当家より腕の良い職人を――」と、肉袋のような貴族の男が身を乗り出したとき。


 どおっと、地の底から突き上げるような地響きが鳴り、王宮全体が揺れた。

 クリスタル細工のシャンデリアが振り子となり、ガラスが打ち合う音が甲高く宙に散った。光源として魔核に封じられた光の精霊も慌てたのだろう。昼と夜とが瞬時に入れ替わるように、ぱちぱちと明滅を繰り返している。


 大広間の窓辺や、バルコニーの辺りが騒がしくなった。

 さすがのコマース王子も何事かと訝しむ。文字通り城を揺るがす出来事にパトリシアは気丈に振舞いながらも、知らず王子の袖をつかんだ。


 不意に、バルコニーのあたりから貴婦人らしき者の悲鳴が聞こえた。

 何事か確かめようと窓から身を乗り出した貴族の男が、驚愕の声を上げる。


「城下が燃えて――いや、何だ……あれは……!?」

 大地の唸りにうろたえる者、好奇心から我もと窓辺に駆け寄る者――会場に混乱が広がる中、巨大な何かが地を打つ振動は鎮まるどころか、いや増すばかりである。


 そこへ、クラーク宰相の元に伝令官が現れ耳打ちをした。

 初老の宰相が見る間に表情を曇らせ、困惑に眉間が歪んだ。


「今、何と言った? 女神像が歩いて……?」

 クラークが漏らした言葉が王子の耳に届く。

 コマースの顔がにわかに険しくなった。


「貴様、詳しく話せ――」

 伝令の若者を呼び止めるコマース王子の言葉を遮り、大広間の扉が跳ね飛ぶ勢いで開け放たれた。汗だくの衛兵が夜会の場に飛び込むや、がなり立てる。


「大聖堂の女神像が……動き出しましたっ! 王宮へ向かって来ます!!」

 とりつぎも介さず駆けてきた門衛の知らせが、大広間に響き渡った。


「何を馬鹿な」と誰かが言った。

 すかさず窓辺の男が異を唱える。

「本当だ、女神さまが……街を破壊しているっ!」

 張り上げた声を証明するように、これまでにない激震が王宮を襲った。


 破壊の音が轟き、城下には火の手が昇る。

 刻ならぬ暁がゆらめき白亜の王宮を血の色に染めた。

 燃え盛る炎、巻き上がる黒煙、その中央に倒れているのは、巨大な翡翠色の女神像――艶めかしい巨体が、ゆっくりと起き上がる。


「こっちに向かってくるぞ!」

 喚きながらバルコニーから広間の中へ逃げ込んできた禿頭の男は足を止めず、開け放たれたままの大扉目掛けて駆けだした。


 男が放つ恐怖が、貴族たちに伝染した。我を先にと扉目掛けて押し寄せる。

 つい先ごろまで華やかであった貴族たちの宴は、怒号飛び交う修羅場と化した。


「殿下、このままでは……」

 うろたえたクラーク宰相が、独り平静を保つコマース王子に訊いた。


「捨て置け。どうせ戦の役にはたたん連中だ」

「戦? 戦などもう――」

「クラーク、貴様には避難の差配を任せる。この際、貴族どもは捨て置け。それよりも、城下の民たちを一人でも多く救うのだ」

 手短に伝えて、コマースは広間の檀上から立ち去るそぶりを見せた。

 慌てる宰相が追いすがる。


「殿下、どちらへ?」

「あのデカブツを止めるのさ。俺は魔道工廠まどうこうしょうへ行く。リンゼっ!」

 金属鎧が擦りあう音が鳴った。王子のそばに控え、騒ぎにも微動だにしなかった年若い赤毛の女騎士が、無言で王子に付き従う。


「ルード、お前はパトリシアの身を護れ」

 もう一人の王子の側近、漆黒のローブをまとった黒髪の男は「御意」と一言応えて、巻き上がる闇色の渦とともに、パトリシアの影の中へと沈んで消えた。


「一人付けたが、そなたは故国の護衛とともに安全な場所へ逃れよ」

 コマースは立ち尽くすパトリシアを抱き寄せると、婚約者の耳元に囁いた。静かに妻となる女の体を引きはがし、マントをひるがえす。

 パトリシアは「ご武運を」と一言添えて、夫となる男の背を見送った。



 大広間をあとにしたコマースは、魔導工廠へ続く昇降装置へと急いだ。

 付き従う女丈夫リンゼと、王子のあとを追う近衛騎士たちの武具が鳴き、暗い回廊に戦の予感をふりまいた。

 足早に歩きながら、コマースは誰に聞かせるでもなく独り呟く。


「――どういうことだ、なぜ単独で女神像が動き出す?」

 今日あることを知りながら、予想外の出来事に戸惑うような口ぶりをして。


「それとも……アリアンヌなのか? いや、まさかな――」

 王子は右手の親指の爪を、気づかぬうちに噛んでいた。

 苛烈で知られる王子に焦りが滲むとき、決まって見せる、癖であった。


    §


 王宮が騒ぎ始めたころ、アリアンヌは城下の大路をゆっくりと歩んでいた。

 街を壊さぬよう、凱旋門に続く大通りを歩むことにしたのだ。


 ほとんどの者は、動くはずのない女神の巨体が現れたことに恐れをなして逃げ出した。とにかく遠くへ離れようと、王宮を目指す女神像から西に東にと散っていく。


 ところが人々の中に、両手を擦り合わせながら巨大な足元に近づこうとする者が現れた。女神を崇める敬虔な者たちが、深い信仰心ゆえに身を投げ出したのだ。


 無秩序に八方から群がってくる蟻たちを、どうしてひとつも潰さず歩けるものか。

 アリアンヌがどうにか人々を踏みつけぬようにと足を運ぶたびに、長屋は吹き飛び、商人の邸宅は瓦解した。

 酒場の厨房に宿る火窯の精霊が怯えて火を吹き上げて家屋を燃やし、アリアンヌの足が巻き起こす風に乗って炎が野火のように広がってゆく。


 ――どうしよう、このままではみんなのお家がどんどん……。


「皆さま聞こえますか。お願いです、どうか私のそばから離れてください」

 アリアンヌの願いは、むなしかった。


「おお、女神さまの御言葉が……!」

 手を合わせ祈り崇めて地に伏す者や、足を止めて泣き出す者まで現れた。


 困惑するアリアンヌがどうにか隙間を見つけて足を降ろそうとしたところへ、一人の老婆が、こけつまろびつしながら路地から飛び出してきた。

 慌てふためくアリアンヌは、老婆を潰さぬよう足を逸らした拍子に、たいを崩して横倒しとなった。


 巨大な人型に、街並みが押しつぶされた。

 そこかしこから火の手が上がる。

 人々は恐慌し、叫び、鳴き、逃げ惑い、泣きながら祈り、散り散りとなる。老婆の末路を気に留める間は無かった。


 ――コマース様に、殿下に早くお会いしないと。

 城下に被害をもたらし、いたずらに人々に害を成すのはアリアンヌとて本意ではない。早急に事を収めようと、公爵令嬢は立ち上がり再び王宮を目指した。


 次第に近づくユールレヒトの王宮、その中でひと際輝く夜会の明かり。

 城門をまたぎ、王宮前の広場を抜けて、今や長大な腕を伸ばせば夜会の場に届かんとする位置に、ついにアリアンヌは辿り着いたのである。


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