工廠のすべてを取り仕切る責任者、工廠長はヨルゲン・ザースホルト伯爵。
ザースホルト家は代々、ユールレヒト魔道王国に優秀な魔導博士を輩出する知の家系で知られている。
とりわけ、当代当主のヨルゲンは傑物であり、奇才であった。
ヨルゲンこそが、それまで神話を模した単なる出土品、美術品の類いとしか見なされなかった太古の青銅像の謎を解き明かしたのだ。
神話に描かれた女神の眷属獣が実在し、生ける魔鋼の獣であったことを。そして使役の要となるのが、人が身の内に宿す魔導の力であることを――ヨルゲンが、魔導工学の父とも呼ばれる所以である。
コマース王子はかつて、この少々癖のある初老の紳士の元で、神話と世界のつながりについて学ぶ時期を過ごした。
師弟はいつしか、ともに肩を並べ同じ謎を追う同志となった。
その成果として、二人は創世の女神にまつわる恐るべき事実の一端を突き止めるに至ったのだが――
「工廠長はいるかっ!? ヨルゲンっ!」
覇気の滲む王子の声に、
「ここだここだ。上がってくるかね?」
工廠の一画に据えられた簡素な物見やぐらの上から、ヨルゲンは声を放った。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ」
双眼の遠眼鏡から手を離さず、王宮に迫る女神像を見据えたまま話しをつづける。
「あの姿、どうだい王子。女神像が機獣と同じ魔鋼の外装をまとっているとは分かっていたが――輝きが違うな。あの透明感、動き……ふむ、高い純度と弾性……結晶の構造が異なるのか? いや、それとも――」
ぶしつけな工廠長の態度に腹を立てるでもなく、コマースは下から手招きをした。
「こんなときでも研究熱心なのは結構だがヨルゲン、予定は繰り上げだ」
今も轟く地響きに負けじと、王子は声を張り上げる。
ようやく、ヨルゲンはコマースの顔を見下ろした。
「おや? 始めてしまうのか。もう少し観察と記録の時間が欲しいのだがね」
「悠長なことを言ってる間に、研究資料ごと滅ぼされては元も子もないぞ」
やっと梯子を下り始めたヨルゲンは、つまらなそうに王子に訊いた。
「んむ……魔鋼屑となってからの研究では物足りないのだが、致し方なしか。で?」
「総がかりだ。機獣たちを叩き起こせ」
簡潔に、王子は女神との戦いを始める決意を吐いた。
「先のケイアヌスとの戦を終えてまだ間もないのだ。整備は万全とは言い難いが、かまわんよね?」
広大な工廠の建屋に目をやり、ヨルゲンは分かり切ったコマースの返事を待った。
「出せる機獣はすべて出せ。それと――」
言葉を区切ってコマースは、工廠の奥に横たわる巨大な物体の影を見据えた。
「あれを使う。用意しろ」
ヨルゲンの喉が詰まった。
「……! そこまでとは……キミはここで、すべてケリをつけるつもりなのか」
「繰り上がったと言ったろう。〝神殺し〟を始める。こうなっては、致し方ない」
強い覚悟を示す眼の底を覗き込んで、ヨルゲンはもうひとつだけ問うた。
「彼女は乗っているのかね? キミの、元婚約者は」
火のような男の顔に一瞬、
「わからん。女神単独で目覚めた可能性もある。仮に巫女が神像に宿ったとして、何をきっかけに一体化できたのか……そこが、分からん」
いや、分からんことはないが――王子の疑問に答えるヨルゲンの呟きはしかし、城下から聞こえる爆発の音と振動にかき消されてしまった。
「俺が直接、確かめる。
「女神の鼻先まで飛んでいくつもりか? さすがに無茶が過ぎる」
「かまわん。もしそうなのであれば……アリアンヌが同化しているのなら――確かめる責任が、俺にはある」
固い決意を聞き届け、ヨルゲンはそばに控えていた副官の魔工技師に指図する。
工廠長と副官は略式の敬礼を示すと、踵を返して足早に王子の前から立ち去った。
にわかにざわめく工廠をたしかめて、コマースは赤毛の女騎士を呼びつける。
「リンゼっ!」
「はっ――」
「戦の指揮はお前に任せる。良いな」
「御意」
とはいえ――と、城下に炎を広げる神像を見据え、自嘲を込めて王子は呟いた。
「あんな化け物相手に、策などあったものではないがな……リンゼ、死んでくれるなよ。新しき人の世のために、お前の力は必要だ」
「――はい」
女の肩に触れる男の手は、やさしげであった。
§
魔導工士のひとりが手綱を握り、青銅色の飛竜を引き連れコマースの前に現れた。
二本角を生やした
コマースは手慣れた身のこなしで、飛行機獣に据えられた鞍に飛び乗った。戦場で前線に立つことを好む王子愛用の機獣である。
「行け」とひと声かけるや、魔鋼の飛竜は
翼に張った翼膜が光を孕んだ。羽ばたきもせず飛竜はふわりと宙に浮く。
次の瞬間、羽ばたきをひとつ加えた飛竜は、螺旋を描いて百メートルほど上空へと一気に上昇した。
王子は王宮の手前で身を揺する女神像を見据えた。その視線に従うように、飛竜は迷わず女神像の頭部を目指して飛んでいく。
王宮内を覗き込む女神の様子を見て、コマースはすぐに気がついた。
俺を探しているのか――あるいは、パトリシアもろともを。
すぐさま飛竜で女神の眼前を横切り「女神よ、我はここだ!」と、言い放った。
神像の動きがぴたりと止まる。やがておもむろに顔を上げ、飛竜の背に身を預けたコマースを、その瞳のない黄金の眼で静かに見据えた。
滞空する飛竜の背から、コマースは声を張って女神に呼び掛けた。
「我が声が届くのならば答えよ! 創世の女神が、なぜ自ら創り
文字通り、巨石の如き
「コマース様……!」
成熟した女性を模した女神像におよそ似つかわしくない、弾むような少女の声がコマースの鼓膜を打った。
「アリアンヌ――なのかっ?!」
答えながら、コマースは歯がみした。
「そうです、私ですコマース様、アリアンヌです」
「なぜ、どうやって??」
「わたし――私、殿下とのことを女神さまにお祈りして、大聖堂で、あなたとのことをいっぱい想って……悲しくて、とても悲しくて……そうしたら――」
とりとめのないアリアンヌの言葉が、王子の額に焦燥の汗を滲ませる。
女神の巨体が不意に動き、両手を胸の前で祈るように合わせた。
「聞いてくださいコマース様、世界を統べるのにパトリシア様の立場など無用です。この私、私が手にした女神の力があれば、他国の女の力など……っ!」
切実な色を滲ませて、巨大な女神像は人間の王子に懇願をした。しかし――
「それは……出来ん。出来ぬのだ」
「なぜです!? 私では不足とおっしゃるの??」
「そうではない。そうではないが――」
自ら喉を締めつけ、決意を以ってコマースは答えを絞り出した。
「女神は……女神はっ、滅ぼさねばならん!!」
魔鋼造りの女神の顔は、固く冷たい。だが、わずかに身を震わせた女の巨体が、神像に宿るアリアンヌの動揺を如実に示していた。
「
巨体が一歩、後退った。神像の中で、アリアンヌがうろたえた証だった。
「私を……討つ? 私を、殺めるとおっしゃるの?」
「討つ! お前が神像とともにある限り」
「そんな……私はただ殿下のおそばにいたいだけなのに……」
「ならば降りよ、女神の内より出でて降りるのだ」
悲愴な願いが、男の言葉を染めていた。
だが果たして、その色彩が少女の眼に届いたかどうか――
「降りたら、そうしたら、私の元へ戻っていただけますか? パトリシアを捨てて、私の手を取ってくださるの?」
「…………」
「――できないのね。私の手を取らず、あの女の手を取るというのね」
己が大義と少女の心を
「女神を討つには、人の力すべてを頼らねばならん」
たったひとつの願いを掴もうと、女神の腕が飛竜目掛けて伸ばされた。
魔鋼の飛竜が身を
「女神と心を合わせた今のお前なら分かろう。創世の力の真なる意味を」
「知りませんそんなこと――私だけの男神になると、言ってくれたのに!」
「人の世のためだ。
重い沈黙を隔てて、大義に身を捧げた男と、愛を失くした女が見つめあった。
「さらばだ、アリアンヌ」
飛竜を駆り、コマースはかつての婚約者に背を向けた。
「お慕い、していたのに――」
アリアンヌがコマースに届けた、最後の言葉であった。
そして、遠ざかる飛行機獣の背の上で。
愛していたさ――
夜風に消えた言葉をコマースが紡いだ唇は、そう形を作った。