工廠の前庭ではヨルゲンが、神像に宿るアリアンヌとコマースとの交渉の行く末を見上げていた。王子の
「『始まりは、悲しみでした』――何を意味する比喩かと考えていたが、存外、言葉の通りなのかもしれんな」
誰もが知る創世神話の一節を引きながら、思案気に顎を撫でてみせる。
「どういう意味だ?」
「キミが政治ショーなど見せなければ、案外と侯爵令嬢は身を引いたかもしれんということだ」
「妾にでもしろと?」
不愉快千万な眼をするコマースに、ヨルゲンは口の端を渋く上げて肩をすくめた。
「いや、野心家の后殿が納得せんか……人の心とは、やっかいなものだね」
「まったくだ――ぬかったよ」
自嘲する王子の背で、折り重なる獣の咆哮が轟いた。
続いて再び、地響きが鳴る。黒い空を背にして
「ほう、リンゼ嬢はなかなか派手に始めたようだな」
どこまでも
「止められるだろうか」
コマースが尋ねるでもなく呟く。信じきれないと、王子の顔色は告白していた。
渋い顔で弟子に応じてやるヨルゲンの言葉は、学者らしく正直であった。
「時間くらいは、稼げるだろうね」
「時間稼ぎか――〈神の鉾〉はどうだ?」
「起動はとっくに済んでいる。だが、魔力の充填に手間取ってね」
魔導工廠長の言葉を裏付けるように、後方では若い魔導士が幾人も担架で運ばれていく。野戦病院さながらに、白衣の治癒士たちが慌ただしく駆け廻っていた。
「法外な大飯ぐらいなのだよ、ケイアヌスの秘宝は。男神の神器とはなかなか――魔導士たちをかき集めて、逆さにしても鼻血も出んほどには働かせている。魔力の枯渇で、皆しばらく足腰立たんだろうよ」
「終われば休暇をたっぷりくれてやる。急げよ」
仰せのままにと礼を執るヨルゲンが、ふいに目を見張らせた。
気配に気づいてコマースも振り返る。
南方文化の装束に身を包んだ術師たちを引き連れて、パトリシアが現れたのだ。
「わたくしの力もお貸ししましょう」
涼しい声で言い放つ王女の後ろには、王子が直々に護衛につけたはずのルードまでが控えていた。
側近の魔導士をコマースが睨むと、黒づくめの若者は肩をすくめて王女に目をやる。男の口はへの字、眼だけは笑っていた。
「わたくしが無理を言いました。今は魔導士が一人でもご入用でしょう?」
未来の后に押し切られては仕方がない。険しい目元を緩めて、コマースは妻となる女に目を戻した。
「〝内助の功〟、国に伝わる古い言葉――出来た妻は、夫を良く助けるものだと」
振り向かず、パトリシアは術師たちに向けて手を振った。一礼をして一斉に、皆工廠の奥へと駆けていく。
「ありがたい奥方ですな」
ヨルゲンの言葉に、南方国の王女は笑みを返し小さな会釈をしてみせた。
「これでも、太古に〈神の鉾〉を得た一族の末裔です。一角の魔導士以上の魔力は、備えております」
「待て、なにもそなたまで――」
慌てたコマースの視線が、新たな婚約者の下腹の辺りを泳いだ。
パトリシアがコマースに歩み寄る。男の唇は女の指先に封じられた。
「あら、心配なさらないで。この子のためにも、無理はいたしません」
それに――と、王女は城下で身を震わせるばかりの女神像を見上げて、言うのだ。
「妻たる女は、ひとりで十分」――と。
野心家の后殿が浮かべた笑みは、凄絶であった。
§
「押し出せい!」
女騎士の高らかな号令が、夜闇を割った。
八蹄を持つ大型機獣馬〈スレイプニル〉の背で剣を掲げるリンゼの瞳では、炎の街にそびえる翡翠の巨人が揺らめいていた。
王宮広場に列を成した機獣たちが一斉に動き出す。
城下の各地に配備されていた警備用の機獣まで駆り出され、獲物を追う獣のように、女神を目指して集結してくる。
獅子、剣歯虎、大角牛、火蜥蜴、大毒蜘蛛、大熊に氷狼たち。空では大小様々な竜種や、城壁を守っていた悪魔たち、猛禽の大怪鳥などが飛び翔けた。
機獣たちはひとつとして、この世に知られた動物と同じ影を持っていない。
その上どれもが生身の生き物より、一回り二回りも大きな体躯を備えていた。
それでも、全高百四メートルもの女神の巨体からすれば、人とネズミほどの体格差がある。しかし、それが無数ともなれば? 並の人間ならネズミの大軍に恐れをなすのと同じように、女神像もまた機獣の群れを見て恐慌をきたした。
いかな女神の力を得たとはいえ、神体に宿るのは若干十六歳の公爵令嬢アリアンヌ、あえかな少女に過ぎないのだ。
足元にまとわりつき、飛び跳ね、爪を立て噛みつこうとする地の機獣たち。同時に空中では獰猛な肉食蜂の群れのように、飛行機獣がアリアンヌの上体に襲い掛かる。
容赦のない獣の責め苦にアリアンヌは、抗う術を持たないまま。
ひたすら悶え苦しみ、群がる害獣から身を護ろうと、腕で我が身を抱え込み、おびえるばかりであった。
「いやあぁっっ、やめてっ! 痛いっ、怖いっ、どうして……酷い、ひどいよう……助けてっ、コマース様っ!!」
神体の中で幼子同然に泣くアリアンヌの叫びは、女神像の発声装置を通じて外部に届きはする。しかし神獣たちの咆哮と、神像の足が引き起こす絶え間ない地響きに紛れて、誰とも届くことはない。
すでにアリアンヌからは、城下の人々の暮らしを気遣う余裕は消え失せていた。
まとわりつく機獣たちから逃れようと足を振り上げ、家屋を蹴散らし、勢いあまって瓦礫が吹き飛んで別の建物を巻き込む。城下の破壊は広がる一方だ。
ところが、逃げ惑うばかりかと見えた女神像の動きが、ふいに止まった。
巨体を小刻みに震わせている。
アリアンヌは、足を下からくすぐられるような、しかしおぞ気をもよおす、かさかさとした感触に身を縛られた。
神像と一体になった視覚で、己が巨体の足を確かめた。いくつもの奇妙な怪蟲が瓦礫を足場に次々と女神の脛に飛びつく様が見えた。裏返した女の半身から四対の節足を生やしたような大蜘蛛の機獣――〈アラーニェ〉だ。
飛びついた半人半蟲の大蜘蛛を足場にして、さらに別のアラーニェが飛びつき、神像の足を這い上った。
神体と五感を共有するアリアンヌの生身が、
「…………ひぃっ!!」
短く、吹き損ねた横笛のような音が、少女の喉から漏れた。
まともに悲鳴すら上がらない。絶句していた。振り払おうと片足を振り上げたとたん――うろたえるあまり、アリアンヌは神体の中で
少女の動きに追従する神像も倒れ込み、背中を地に打ちつけてしまう。
狙いすまして、一体の大蜘蛛が女神像の顔に八本の足を絡めて取りついた。
視界を埋める節くれた足と腹を見て、アリアンヌの意識は――弾けた。
「あ……ああ……」
目の前が真っ白になり、ただ呻くことしかできなくなる。
[操者の精神保護を優先、ダイレクトアクセスを切断、精神安定処置を開始――]
遠く呼びかけてくる〝女神の声〟も、今のアリアンヌには届かないまま――
硬直し、指先すら動かせない少女の神体に、獣たちが一斉に群がった。
「今だ、サーペントっ! 女神の身体を絡めとり、動きを封じろっ!」
好機と見たリンゼの号令が、容赦のない追い打ちをかけた。
女神の四方から城下の家並みを縫い、瓦礫を押しのけるようにして、長大な蛇の機獣が現れた。機械仕掛けの大蛇〈サーペント〉である。
五十メートルは下らない長蛇の身をくねらせて、女神の身を縛ろうとサーペントたちが二匹三匹と、絡みついた。
蛇たちは関節を締め上げ、足首を縛り、緊縛して、身体の自由一切を奪い去る。
女神像の瞳からは生気が抜けるように、黄金の輝きが失せてゆく。
暗い空を映し城下を燃やす炎が揺らめく、死者の洞穴の如きのみが残された。
§
[女型操者のバイタル安定:……自律型環境保全サブシステムへのハッキングを解析完了:……サブシステム、再起動プロセスに移行――]
〝女神の声〟が囁きの子守歌となる中で、アリアンヌは微睡んだ。
夢を見ていた。
遊んでいる幼女は自分。
傍らには、いつものようにユースチフがいた。
庭から見上げる高窓には、父のレムルスとコマース王子が並ぶ影があった。
母の形見として残された、創世を語る古い書物を収める部屋で、義理の父子となることを約定した男ふたりが、何事かを語らっていた。
翌日だったか。〉 王宮からの使いが形見の蔵書すべてを、ヨルゲン博士の元へ引き取ったのは。
思えば、あの日が境だったかもしれない。
コマースとの間に生じたすれ違いの始まりは。
しかし、他国との戦争、父王の病状により王子が背負う政務の重みといったものが、次第に自分と王子の仲を遠ざけたのだと、アリアンヌは思っていた。
違うのか――
形見の蔵書に隠された、創世の秘密。
アリアンヌの血に隠された、女神とのつながり。
赤子の頃に死別した、女神の巫女の血筋という母。
同じ血が、アリアンヌの身にも流れている。
女神に連なる操者の血筋を……コマース様は、憎まれた?
でも――どうして?
――人間などは神を真似た、出来の悪い贋作に過ぎないのか……。
――女神はっ、滅ぼさねばならん!!
何を知ったというの……。
「お慕い、して、いたのに……なぜ、私に、こんな……仕打ちを……」
うわ言と一筋の涙を伴って、アリアンヌは微睡みから目覚めた。
上体を起こす。
女神の身体はまだ動かないが、辺りの様子を知ることはできた。
あれほどに猛威をふるった機獣たちの責め苦が止んでいた。
身を縛る大蛇はそのままだが、力なくまとわりついているだけだった。
周囲に散らばる機獣たちは、彫像となって動かない。
翼を持つ機獣は城壁や尖塔に留まり、羽を休めているようだった。
うつろに世界を睥睨するアリアンヌの眼の先で、異質なものが屹立した。
なんだろう? 見た覚えのないはずの、長く太い影――だが、記憶の片隅でたしかにそれを知る自分があった。もしや女神自身が持つ、記憶だろうか。
しかし、そんなことより。
長大なものの根元で、手を取り合う若い男女の姿に、アリアンヌの眼は凍った。
戦場にあって見つめ合い、仲睦まじくする、コマースとパトリシアである。
「やっぱり……私の手は、取って下さらないのね」
一番大切と信じたものは、もう手に入らないとアリアンヌは知った。
一番大切なものが手に入らないのなら、何もいらない。
世界すらも……ならば。
「もう、いい……全部、燃やそう」
[女型操者のバイタル正常、創世機関へのダイレクトアクセスを再接続――]
女神の声が意に応えた。
アリアンヌが、闇の中で立ち上がる。
女神像も再び立ち上がった。
像の瞳が、黄金の光りを再び宿す。
呼応して、機獣たちの目にも生気の光が灯った。
[自律型環境保全サブシステム、創世機関の管理下に復帰完了――]
人の下僕と成り果てた獣たちが、神の眷属としての立場を取り戻した瞬間だった。
「おまえたち、下がりなさい」
アリアンヌの静かな呟きは、神の言葉となった。
女神の意思に従い、神獣たちは身を起こすと、いずくかへ駆け去り、あるいは闇の彼方へと飛翔して、皆消えてしまった。
女神を中心にして、風が渦を巻き始めた。
「手始めに――散れっ……!」
言葉と共に、アリアンヌが両手を外に払った。
渦巻く風が収縮したかに見えた次の瞬間、暴風が城下を襲い薙ぎ払った。
荒れ狂う嵐が王都に吹き荒れ、あらゆる建造物を蹂躙した。
瓦礫が無数に巻き上がる。石、岩、木、あるいは鉄。人の暮らしを支えた名残が、闇の中にとめどなく散じた。
そして、人もまた。
形をとどめたままの者、血と骨、肉片に分解されたものたちが、瓦礫と共に舞い飛んで、やがて地に落ち、降り積もった。
立ち尽くす神像の眼が冷たく輝き、残された王宮を見据えていた。
神体に宿るアリアンヌの涙は、枯れ果てた泉と化したのだった――